八、そうやって、助け合って。
八話です、宜しくお願い致します。
葬式を済ませ、俺は葬式場から逃げるように、足早にアパートへと帰ってきた。どうにかなりそうだった。
リビングには行かず、真っ先に自室の布団に身を潜めた。
「大丈夫なのか」「帰ってこなくて良いのか」「困っていないか」「学校はどうする」
柔らかな脳に、父さんと母さんの言葉の一つ一つが棘のように突き刺さる。チクチクと、肉の表面が疼いた。
震える口を両手で掴んで、必死に嗚咽を呑んだ。ぶくぶくと舌の裏から溢れてくる唾液を、呼吸の苦しい中休まず喉に流し込む。何度か咽せて咳き込んだが、千里に気付かれないよう口に枕を当ててやった。
すぐに落ち着く。落ち着いたら、千里のところへ行こう。
先程リビングの前を通り過ぎる時、千里が何か声を掛けようとしていたのを横目に見てしまった。まだ夕方だ。寝付くには少しばかり早すぎる。とにかく、千里に「ただいま」を伝えなければ。
そうして、やっと冷静を取り戻さなければ。
――コン。
「涼、疲れてる?」
千里がドアの向こうから声をかけてきて、一瞬呼吸が止まった。
「んー…ああ、そうだな。でも大丈夫、すぐ行くよ」
「そっか、まあ無理はしないでね。晩御飯、出来てるから」
千里の気配がドアから遠退いていく。
肺に溜まった空気を一気に押し出して、シーツで涙を拭く。
部屋のカーテンを開けて、少しの間だけ、夕陽に染まる空をぼーっと眺めた。
自分の手のひらを見て、目を伏せる。
ただ、棺の中で香り高き華たちに囲まれた姉ちゃんは、とても美しかった。
「大丈夫、体調良くないの?」
和食の用意されたテーブルを挟んで、千里は俺の様子を伺いながらそう尋ねた。
「いや、慣れないところに行ってきたもんだからちょっと疲れてな」
自身で我慢できる状況で千里に迷惑をかけるわけにも行かないので、俺はそう言って誤魔化した。実際葬式所なんて大概誰も慣れた所ではないし、嘘は付いていないだろう。
「にしても悪いな、夕飯、毎度用意させちまって」
俺は味噌汁を啜って、千里にそう述べた。
「いいんだよ、勝手にやってるんだから。それよりどう、美味しい?」
「ああ、毎度凄え美味しいよ、ありがとうな。流石は女の子ってところか」
俺は感謝を述べたあと、からかう様に箸で千里を指した。
「箸で人を指すなんて礼儀がなってないなあ。ま、流石は女の子ってのには納得だけどね」
ニヒヒと笑って、千里は楽しそうに米を口に含んだ。
改めて、テーブル上のメニューを見渡す。
味噌汁、白米、高菜、麦茶。昨日も一昨日も和食ではあったが、それでも現代食に近いものだった。なのに、今日はどうしてか、和食が落ち着きを取り戻している。
千里にとって、何かが料理の色を、変えてしまっている。
それはつまり、千里自身の思考に何かしらが作用しているというわけで、恐らくその『何か』とは、きっと、俺の様子の変化なのだろう。
詳しくどれだけの間かは知らないが、それでも、千里は長い間誰とも意思疎通が取れなかった。だからこそ、浜簪彩葉の件、つまりは昨日の件だが、その時でさえも千里は浜簪の様子に何だか敏感であったし、それはもちろん今日この瞬間、俺に対してすら言える事であった。
そんな時ふと、「ただいま」がまだ言えていないことを思い出した。
「ご馳走様でした」
千里が合掌する。
俺は、俺の様子の変化が彼女に与えてしまった彼女自身の様子の変化に、食欲を忘れてしまっていた。彼女の合掌する声を聞いた今もなお、視線は米の表面をぼんやりと捉えて動かない。
このままでは、さらに千里を困惑させてしまう。
このままでは、さらに内心を悟らせてしまう。
このままでは、千里が俺の辛さを共有してしまう。
このままでは、このままでは、このままでは。
けれど、俺の眼球は動いてはくれなかった。鼓動が速くなり、箸を持つ右手に力が集中する。酸素が僅かに肺の奥の方で二酸化炭素と交換されるような、そんな苦しさが意識を支配してゆく。
そんな、時だった。
「涼、疲れてる?」
帰宅時、自室の扉越しに聞いたのと同じ声が、耳元で響いた。
ゆっくりと、丁寧に俺に言い聞かせるように、その言葉は一つ一つ、脳の肉の表面を覆った。
何か言おうと思うが、いつもは咄嗟に出る嘘が今に限って口をついてくれない。
「どうして、無理しちゃうかなあ」
千里が俺の右手から箸を抜いて、茶碗に置いた。空いた手の隙間を埋めるように、千里の細い指が絡まってくる。
「辛いね、苦しいね」
姉ちゃんのリンスの匂いが、顔の横で揺れる。
やめろ、千里。お前には分からない。
「怖いね、悲しいね」
小さな、けれど確かな温かさを持った手が、顔の左頬を包む。
やめてくれ千里。そんなんじゃないんだ。
俺は、ただ――。
「――失いたく、なかったよね」
「………」
「分からないよ、涼が何考えてるか。だけどね、私と、同じ顔してた」
その子とは、保育所にいた頃から仲良しだった。親友と呼ぶに相応しい女の子で、いつも支え合ってきた。私が家を追い出された夜、彼女の家が引き入れてくれたこともあったくらいだ。
そもそも、相手と「親友と呼ぶに相応しい関係」を築くためには、何かしらの共通点や、もしくは運命的な出会いが必要となるだろうが、私と彼女の共通点は、まさに家庭環境の厳しさにあった。
私の家庭は大したことはないのだが、彼女の家庭は違った。親は共働きで、帰りが遅いことも多々あるような状況。勿論昼間も親は仕事に行っているわけで、彼女はそういった理由で保育所に預けられていた。保育所では私や私以外の友達と楽しく過ごせているようだったが、家に帰ると誰も居ないような日がよくあったらしく、つまり、親からの愛情をまるで受けてはいなかったのだ。
私は……いや、いいか。
私と彼女は互いに相談相手となって、苦難の日々を乗り越えてきた。悪く言えば、ただ愚痴を言い合って、といったところだったが、どちらにせよ彼女と過ごした日々は悪く無かった。
しかし、そんな私達の生活を変えたのが、いつかしら患ったこの「認識不可性人格障害」だった。
本当に、気がついた時には、遅かった。一切の意思疎通が出来ず、私は誰にも認識されなくなった。目が合うことも、触れることも、触れられることもなかった。私に残されたのは、ただただ広い世界だった。だだっ広い世界の真ん中で、一人ぽつんねんと佇む事しかできなかった。
そんな私を突き動かしたのが、彼女だった。
彼女は必死になって私を探した。街中や、図書館のパソコンを使ったインターネット詮索、警察を訪ねるなど、その他様々な手を尽くした。
私が、止まっていられるわけがなかった。
何度も何度も横に立って叫んだ。「私はここにいる」「ずっと隣にいるよ」と。けれど、その声も想いも、彼女に伝わることはなかった。ただ目の前で疲労困憊する彼女の姿に嘆く私が、情けないだけだった。
それは、よく晴れた日だった。
彼女は、午前中に自殺した。彼女の両親が仕事に出て、その、直後だった。
その頃になると私は、もう彼女の隣を幽霊のように付きまとうようになっていて、もちろん、トイレや風呂、独りでするそういった行為の際は部屋の外で待っていたけれど、その日の不自然な風呂は、我慢できなかった。
そもそも、彼女が朝に風呂に入ること自体私が見た中では初めてだったし、それに、とてつもなく長い時間浴室から出てこないのだ。響いてくるのは止まらないシャワーの音。
心配になった私は浴室の扉を開いて、そしてそこに、鮮やかな赤の海を見た。
浴槽に溜まった透き通った赤い水と、そこから溢れて排水口へと流れ込むそれら。掴んで浴槽から上げた彼女の手首は、これまで見たことがない程にざっくりと、深く縦に裂けていた。
赤い水の底に沈んでぼやけたカッターナイフが、僅かに光を反射していた。
ほんの少しの意識の中、彼女は私を見た。
そして―――
千里は、涙を流していた。
ポツン、ポツンと、大粒の水滴が落ちる。俺に触れた手は、少し汗をかいていた。
それでも、優しく柔らかな手だった。
「やっと、見つけた。どこ、行ってたの?って、言ったの」
そこで千里は俺から手を離して、その手を自らの口元へと運んだ。それから嗚咽が漏れてきて、俺は先程の焦りからは抜け出していたことに気が付いた。
「…ごめんな、千里」
なんて残酷な世の中なのだと、眉間に皺を寄せてしまう。
俺は彼女の背中に手を置いて、そっと、反対の手で頭を撫でてやった。それからなんだか同情に近い感覚を覚えて、グワンと痛む胸をそのまま彼女の背中に押し当てた。
千里の体もまた、浜簪のと同じように細くて脆かった。
千里の体が僅かに震えているのを感じると、自然と彼女が小さく見えて、相対的に、俺は大きくなった。俺が守ってやらねばという無責任極まりない使命感が押し寄せてくる。
「涼、震えてるよ」
「それはお前の方だよ」
「誤魔化し方が下手だなあ」
千里は震える声で笑いながら、俺の方に身を翻した。そのまま俺達は正面同士で抱き合って、彼女の小さな頭が俺の胸に沈み込んできて、がっちりと背中を拘束する彼女の腕は、今だけはなんだか、とても心地よいものだった。
そして、胸の中で千里が零すのだ。
「――震えてるね」
お読みいただき有難うございました。
お気に召しましたら、是非次話も宜しくお願い致します。