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七、優しい子。

七話です、宜しくお願い致します。

 カツン、カツンとアスファルトを鳴らしながら、まだ少し朱い街の中、俺は家路を辿っていた。

 風呂上がりの浜簪は、目の下を赤く腫らしてとても悲しそうな顔をしながら、はにかんで俺に礼を述べた。随分と長く風呂に入っていたため逆上せて赤く火照った頬。その前で髪をくるくる指で回す彼女の姿は、学校で見てきた脳筋バカとはまるでかけ離れた、女の子らしさを醸し出していた。いつも見るポニーテールを下ろしていたからだろうかとも思ったが、それよりも、風呂上がりだったからだということで俺は頷く事ができた。

 それにしても、学校で顔を合わせ辛いなあと、帰路を辿りながらしばし頭を悩ませた。

 一歩、一歩、また一歩と歩を進める度に、アパートへの距離が当たり前に縮む。

 今頃、千里はどうしているだろうか。浜簪を家まで送る、という事でアパートを出たが、実際その後に色々あって、送るだけでは済まなかった。致し方ないとはいえ、千里には申し訳ないなと、そっちもそっちで顔を合わせづらいなあと考えてしまう。

 なんてぼちぼち考えているうちに、アパートに辿り着いた。外側から見た部屋は、カーテンの奥が明るいのが僅かにわかった。アパートに辿り着いた頃には、気が付けばもう空は暗さを増していて、ああ、軽く千里には謝らないとなと心中ポツリと呟いた。

 赤褐色に錆びた鉄の階段をなるべく静かに登って、部屋の前に辿り着く。扉の鍵穴に鍵を差し込もうとすると、カチャリ、と、内側から鍵が開く音がした。それからは何も変化がないので、俺は不思議に思いながらその扉を引いた。

 玄関に、千里が立っていた。

「…悪い、遅くなった」

 彼女から視線を外しながら苦い顔をしてそう謝罪を述べる。カチャン、と、背中で扉が閉まる音がした。

 千里はいっとき何も言わなかったし、動きもしなかった。そんな感じで数十秒、気まずい沈黙が降りる。

「お疲れ様だね、涼。 お風呂沸いてるよ」

 沈黙を破った千里は、その言葉に微笑みを込めて、その場を後に、キッチンへと向かった。相当怒っているように感じていたが、俺はそんな千里の様子に胸を撫で下ろして、靴を脱いで脱衣所へと歩を進めた。





「何があったの」

 夕食時、千里の手料理が乗ったテーブルを挟んでいた。はじめに話を切り出したのは千里の方だった。俺は箸をおいて、少々気まずい表情を浮かべる。

 なんと説明したら良いものか、悩みどころである。浜簪に襲われそうになったり泣きつかれたり、彼女が風呂に入っている間じっと待っていたり。歯止めなく、今日一日で縮めていい距離を安々と越えてしまったように思う。

 しかしまあ、ありのままを説明する他ないのだとどこかで理解はしていたため、俺はその全貌を千里に話した。

「なるほどねえ」

 一通り話を聞き終えた千里が、神妙な面持ちでそう零す。俺は取り敢えず何も、一言も口にせず、彼女のそれからを待った。

 そして、千里は改まって口を開いた。

「涼、ちょっと優しすぎるんじゃない?」

 苦笑しながら優しくそう言った千里に、俺は困惑して言葉を返す。

「どういう意味だよ」

「文字通りだよ。優しすぎ」

 それから一度、千里は小さくため息をついた。

「分かるように説明してくれないか」

「私を見つけてくれたときもそう。初対面のくせして真正面から私の話聞いてくれてさ、今回だって、別に浜簪さんと特別仲が良いわけでもないんでしょう? なのにそうやって自分の時間割いてまで甘やかせて」

「いやでもそれは――」

「別に責めてるつもりはないよ。でもね、涼」

 千里が俺の目を見る。瞳のずっと奥を捉えられているようで、俺はどうしてか、そんな彼女から目を逸らす事ができなかった。

「誰にでもそうするのは、優しさとはちょっと違うんじゃないかな」

 俺はそう言われた後も、目を逸らせなかった。ただ反論できないという事実が思考を渦巻いて、押し黙ってしまう。

 ただ一言、

「…すまん、悪かった」

 そう零して、やっと視線を逸らせた。罪悪感が胸をどんと重くして、心なしか背中が曲がってくる。自分が今険しい表情をしているのだということは、鏡で見るまでもなく痛いほど実感してくる。そうして悪循環に浸っていると、千里がくすりと笑った。

「こんなでもね、涼には感謝してるんだよ、私」

 思わぬ言葉に、俺は下がり気味だった視線を千里に向け直した。

「長いことずっと独りだったからね。こうして言葉を交わせて、一緒に生活できて。なんだか親父との生活を思い出すよ。だから、」

 それから千里は真剣な面持ちとなって、

「ありがとうね、涼」

 そう言った。

「今は、そんなこと言われる立場じゃないから…でも、ああ、どういたしまして、かな」

 俺も苦笑して、箸を進めた。

 美味いなと言いながら千里の手料理を口に運び、千里も謙遜しながらも喜びを隠せないようで、お互いに気分を切り替えて幸せなテーブルタイムを繰り広げた。

 姉抜きの合掌とはいえ、温かな食卓を囲める今日この日に、千里に、感謝である。

「ご馳走様でした。美味かったよ」

「お粗末様でした。ありがとうね」

 二人で手を合わせて、そう言い合って笑う。千里は優しい子だ。この笑顔が、とても可愛らしい。

「ところで涼」

 突然改めて名前を呼ばれ、俺は思わず目を丸くした。千里は自分の分の食器を重ねながら話をした。

「私、昨日この町に来て、今日は買い物のつもりが彩葉さんと偶然出くわしたわけじゃん」

 千里が口にしたのは、この町に着いてからの事だった。千里が何を言いたいのかさっぱり検討もつかないが、取り敢えず彼女の話に耳を傾けていた。共に、食器を重ねながら。

「それでさ、明日あたりはゆっくりしてもいいんだけど、その…」

 そう言って、千里は少しばかり言葉を詰まらせながら、ようやく、改めてはっきりと言葉を口にした。

「いつかさ、近いうちに、遊園地にでも連れて行ってほしいな…なんて」

 その言葉に、俺は再度目を丸くする。

「別に良いけど…またどうして」

 彼女は高校一年生であるが、そんな年の子が唐突に「遊園地に行きたい」だなんて言い出すものだろうか。いいや、言い出したのだからそういう事なのだろうが、今の俺にはどうしても、彼女の気持ちが想像できなかった。

 だがしかし、もしかしたら例の「親父」が絡んでいるのかもしれないな、なんて勝手で無責任な憶測すら付けてしまう。

「いや、別に特別に理由があるわけでもないけどさ、ちょっと興味が湧いたの…」

「…ふーん。そっか、じゃあ近いうちに行こうな。俺も色々あって今は五日ほど学校休めるから」

 色々、とはもちろん姉の不幸のことだが、俺の通う学校は忌引き休暇を認めてくれているから、親の連絡のお陰で五日間の休暇を取ることができた。正直喜ばしいことではないから、取ることが「できた」なんて言い方はしたくないが。

 だからまあ、その内に行くというのなら特に問題はない。

「だがその、明日はちょっと用事があるんでな、千里はここで留守番してて欲しいんだ」

「用事?」

 千里は重ね終わった食器を手に持って流しに運ぶ体制に入ったが、俺の言葉でその一連の動作を止めた。

「ああ、ちょっとあってな」

 姉の葬式があるのだ。他県に住む親戚やらを集めるとなると、早くても明日になってしまったから、一般から見ると少し遅れて、俺は姉に最後の別れを告げることとなる。なに、千里には関係のないことだ。黙っておこう。

「そっか、分かったよ」

「悪いな、こう度々留守番させちまって」

「ううん、大丈夫」

 そう言ってにっこり笑ってから、千里はやっと、流しへと進める足を動かした。俺もその後に続く。彼女の背中が、いつもより少し小さく見えたのは恐らく気のせいではないのだろうが、それでも、お互い仕方のないことだと割り切って、その様子はさらっと流した。

 少しだけ、胸が痛んだ。

 ちらりと覗いた大窓に、どこか悲しそうな部屋が映っていた。

「涼はもう寝るでしょ、食器は私が洗っておくよ」

 気分を切り替えたように千里が振り向いて笑う。こちらに手を差し出して、俺の分の食器を受け取ろうとしているようだ。

「いや、いいよ。俺なんてただ浜簪の家でソファーに座ってただけだし疲労なんてそんなに…」

「話を聞いた限りじゃあ、精神的には結構来てるんじゃないの」

 どこか陰鬱に思っていたのだろう点を突かれ、俺は反論の音を飲み込んでしまう。

 彼女自身に、借家人の身であるのだから出来る事はする、という思考回路が出来上がっているのは気付いているし、致し方ないことなのは分かっている。けれども、俺自身そんなことを気に病んだまま生活して欲しくはないし、何より、それが俺の内心まで察してしまえるほどに彼女の精神を削るという重たい結果を生んでしまっている事がたまらなく申し訳ない。

 常に互いが互いの精神状態を探り合っている仲だなんて同棲においてそんなに不便な関係は避けたいのだ。

 なんて考えていると、昨夜も似たような会話をした事を思い出し、これから毎日、毎晩こんな会話が続くのだと考えるとどっと気が遠くなる。

 だから俺は、少しばかり遠慮の心得から身を外して話を切り出した。話し、所謂条件であるが。

「なら、当番制にしよう」

 突然の場違いな発言に、千里は一瞬軽く愕然としたが、それからすぐに二度瞬きをして身を立て直した。

「別に文句はないけど…良いの? 私は所謂借家人なのに、家主を当番の中に入れちゃうなんて申し訳ないんだけど」

 やはりか、と俺は彼女の言葉に小さく肩を落とす。

「要らねえんだよ、そういうの。家主借家人じゃなくて、同棲だ。同棲みたいなもんなんだよ」

「ど、同棲…まあその通りなんですけど…その…」

 彼女の反応を見て、俺は自分がなんだかとても恥ずかしい事を口走ったのでは無いかと耳を熱くしたが、いや、そんな事はない。これは二人の関係を快い方向へと導くための提案であり実質現状なのだ。

 うん、何の否定にもならなかったな!

「うるせえ、俺は大学生くらいのお姉さんがいいんだよ。年下相手に意識なんてしねえよ」

「だっ誰が幼女よっ!?」

「言ってねえよっ!!」

 と、いった具合に。上手く場を収められた俺達は、取り敢えず今日は千里、明日は俺、という順番で交代して皿洗いを担当することとなった。

 賑やかな夜だったが、明日は姉を見る最後の日。どこか胸のそこから焦燥が沸き上げてくるのが分かる。ベッドに横たわってタオルケットを羽織ったが、この暑さに紛れるように、体の熱が失われていくのを感じた。

 寒いよ、姉ちゃん。お別れだなんて、俺達にはまだ、あまりにも早すぎるだろ。

 ぐっとタオルケットに皺を寄せる。夏の蒸し暑さに、俺自身も融けていくようだった。

 ああもし、こんなときに隣に千里が居てくれたならば。なんて、自分から遠ざけておきながら思ってしまうのが申し訳ない。

 千里、今だけは側に……いいや、やっぱり今は、一人でいたいか。

お読みいただき有難うございました。

引き続き次話もお楽しみください。

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