人間の椅子は
今、何が起こった?
とくとくと広がる血溜まりに、足が浸る。
鮮明な赤。鮮明な赤。
死んでしまう。死んでしまう……!!
「チーナ!!」
膝をついて肩を掴む。跳ねた血が服に着く。垂れ下がった手。合わない焦点。
「チーナ、ねぇチーナ!……ぅわっ!」
襟ぐりを掴まれ、後ろに引っ張られる。見るとそこには、先程ドア付近に立っていた人。
わらわらと数人の男がチーナを取り囲み、布の上に乗せる。どこかに持って行くつもりだ。待ってよ、まだ、……せめて、目を閉じさせてよ。
「離してくださ……っ!」
「大丈夫ですか?」
振り返った先の、私を掴んでいる人の、ひどく優しい目。店で服を選んでいる時に、店員が見せるような。おろおろとしていた時に、声をかけてくれるような。そんな、なんてことのない日常で見かける、優しい目。
「髪を、切られたのですか?」
はい、と答えようとして、違うと思った。この人は、「切られた」を尊敬語として使っているのではない。受け身だ。チーナに切られたのかと、そう言っているんだ。
「大変なご無礼をいたし……」
「私が自分で切りました」
彼が言い切る前に、言葉を遮る。
チーナの方に駆け寄ろうとしたが、また後ろから、今度ははがいじめにされた。
「汚いので、近づかないでください」
「よくっ、わかりませんっ!」
なんとか抜け出そうと足を踏ん張るが、女子の力で大人の男1人に叶うわけがない。
「……可哀想に、貴女は何も知らないんだ。獣人の、しかもネズミなんてのは、とても卑しい存在なんです。顔から手の先まで毛が生えて、清潔感のカケラもありません。汚らしい。それに馬鹿で、劣っているので、便所の掃除やゴミ捨てくらいしか、普段はやれないのですよ。あぁ汚い。見るのもおぞましい」
「全国の清掃員とゴミを処理してる方々に謝れ!!」
自分でもびっくりするくらいの剣幕。息が荒れる。必死に首をひねり、目を、極限まで端に動かして、自分を掴む人の顔を見る。
「それらも全て獣人ですが」
「こっちの世界の話ですよ。いや、それも違う。獣人だろうが何だろうが、私たちの生活を豊かに、快適にしてくれる存在は、全てに価値があり、評価されて当然だ」
「いいえ」
……は?
「何の価値もありません。いえ、むしろ汚物のような存在に、生きる価値を我々が与えてあげているのです。むしろ彼らは感謝して然るべきだ。我々は神の命により彼らを管理し、彼らは人間に生かされていることに対して感謝する。当たり前の話です」
だめだ。これは。価値観がまるで違う。
「あのネズミは、自分が汚いにも関わらず、貴女に近づきすぎました。だから殺しました。貴女も以後、お気をつけください」
何を言っているのか、耳に入ってこない。
向き直ると、すっかり布で包まれたチーナが、ぶんっと男の肩に担がれる。
「チーナ……」
「さっきから疑問だったのですけれど、そのチーナっていうのはまさか、あの汚らしい生物の名前ではありませんよね」
「汚らしく無い!チーナは、チーナは可愛い女の子だ!!」
お洒落に憧れる、可愛い女の子なんだ。
視界が揺れる。
「物みたいに扱いやがって……」
はた、はたっと、頬から、滴が落ちる。
「触らせてよ、布の上からでいいから」
腕を伸ばす。もう、出口を今にも出ようとする、布の塊に向かって。
「だから言っているでしょう。汚いから、いけません」
「汚く無い」
扉が閉められ、拘束が解かれる。
急いで走って行ったが、あと二歩のところで、ガチャリと、鍵の音が鳴った。
その場にぺたんと膝をつく。
「貴女には、1からご説明いたしましょう。おやおや、そんな怖い顔で振り向かないでください。どうやら貴女は誤解をしているようだ。おおよそあのネズミに何か吹きこまれたのでしょう。その勘違いを、今から正しませんとね」
テーブルの上の、冷え切ったシチューへ目を移す。
「こんな粗末なものをお出ししてしまったのですね。申し訳ありません。今度からはきちんとした食事を、人間に運ばせましょう」
床に落ちていたナイフを踏みつけて、男は歩く。何の躊躇いもなく、ソファに、腰掛けた。
「こちらに座ってください。少し長話になるんですから。さぁ」
ゆっくりと立ち上がって、背中を向けたまま、その場で立ち止まる。
「早く来てください。大丈夫です。私達は分かり合えます」
ゆらりと振り返る。
決めた。私はここから動かない。
「同じ人間、尊い存在なのですから」
彼の笑顔が、小学校の先生の様な笑顔が、おぞましい。
チーナ、あなた、あれに座らなくて正解だった。
あれは汚い。あれが汚い。都合良く取り繕われた、醜い支配者の椅子だ。
あんな椅子、もう絶対に座らない。




