へこむ私と君の名前
重たい空気を背負いながら、千春はソファに座り、落胆する。
暖かかったシチューのような何かも冷めて、ふわふわと出ていた湯気はもう凝視したとしても見えやしない。
「あのー、ご飯、どうしましょう?」
手で覆われた顔を覗き込むようにして、ネズミさんは恐る恐る尋ねる。
「私って、これからどうなるんですか?」
衝撃の大きさで、食事どころではない。
帰れないことは、転移してしまった時に覚悟はしていた。しかし、まさか魔法すら使えないなんて。
これではただの村人Aだ。いや、村人だって沢山いるんだから、Aなんておこがましいよね。Yくらいかなぁ。
「あのー、さっきから、思っていらっしゃることが口から全部出てしまっているようなのですが、大丈夫、ですか?」
……なにそれ恥ずかしい
「あの、今までの転移者も、詳しくは知りませんが、どこかで王の保護を受けながら、静かに暮らしているそうなので、大丈夫だと思います」
そうなのか。野垂れ死ぬことが無いのであれば、ひとまず安心かな。
「食欲がさ、あまり無いから、食べてよ。えーっと」
そういえばずっと心の中でネズミさんと呼んでいたけれど、本名を聞いていなかった。
「名前、なんて言うの?」
「な、名前ですか!
えっと、その……」
またしどろもどろ、きょろきょろと目線を動かす。
「えっと、13番って、呼ばれていて」
……番号呼び?
「えっと、そうじゃなくてさ、本名は?」
薄らと、奴隷制度が根強く残っている時代ものの物語が脳裏に浮かぶ。
「……自分で、チーナって、そう思っています」
聞き取れるか聞き取れないかのかすかな声。
だんだんと言葉が小さくなる。
「へ、変ですよね。ネズミ族なんて、獣人の中で1番醜くて汚い存在なのに、こんな名前……」
両手でぎゅっと、胸元の布を握りしめている。
彼女は一度だって椅子に座ろうとはしなかった。もし、人種差別の様に、種族で差別されていたら?この種族はこの椅子には座ってはいけないなんて、そんな決まりがあるのかもしれない。
「13番って。13番って呼んでください。その方が慣れてますから……」
「チーナ!」
「……!!」
目を見開いた。大きな目で、チーナはこちらを見ている。耳も少し、呼んだ瞬間、こちらに動いた。
「良い名前だよ、チーナ。私ね、獣人って存在、憧れだったの。会ってみたいなって、ずっと思っていた」
立ち上がって歩み寄る。目の前に立った。見上げる顔の、目が少し潤んでいる。
「思い返せば、始め、少しビビらせてしまったよね。ごめんね?」
「そんな、そんなこと……」
胸元に置かれた両腕を、そっと包み込む。少しぱさぱさした毛の、毛先が肌に当たってくすぐったい。でも、綺麗な灰色。
「チーナ、説明上手だよね。元の世界に戻れないから落ち込んでしまって、お礼を言えてなかった。色々と教えてくれて、ありがとう」
にこっと笑う。チーナはその顔を見て、そして自分の手元に、優しく添えられた、毛の生えていない手に、視線を移した。
細くて長い指。ピンク色で形の良い爪。ささくれの、むしられたような痕。
今まで見てきた貴族たちの、お人形のような手と比べたら、雲泥の差。でも、出先ですれ違う女の人の、あかぎれの沢山ある指に比べたら、とても綺麗。
もう一度、見上げる。人間の女の子は、真っ直ぐにこちらを見ていた。そう、彼女はずっと、汚いものを見る目でも、哀れみの視線でも無い、同じ人間を観る様な目で、見てくれていた。目を見て、そして、名前を呼んでくれた。
視界が揺れる。目の奥が熱くなる。
「っあ、あの!」
ぎゅっと目を瞑ったら、涙が、目の周りの毛に少し吸い取られた。
「あなたの名前を、呼んでみたいです!」
初めて、座っていいと言ってもらえた。
初めて、まだここに居てと言ってもらえた。
そんな貴方の、名前が知りたい。
「私の名前は、千春」
チハル……。なんだかとても、暖かくて、元気が出る響き。
「チハルさん!チハルさん、ありがとうございます!」
涙はどんどん溢れていって、チーナの頬っぺたを濡らしていく。
千春は手を伸ばし、毛むくじゃらの目の下を、軽く拭った。




