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ホラー短編

海鳴り

作者: ノマズ

 巨岩に囲まれたその小さな入り江は、夏や春先や、冬の晴れた日などは、景色も良く、地元の人間がのんびり釣りなどをしに来ることがある。


 しかし、晴れの日以外には、人が立ち寄ることは無い。

 特に地元の人は、曇りや雨の日は、この入り江を見ることもしないのだという。

 私はちょうどその頃大学院生で、民俗学のフィールドワークをしながら、この地域に伝わる伝承の採集をしていた。N市の海岸沿いの町である。


「あの入り江で、何かあったんですか?」


 私は、入り江の話に興味が湧いて、話をしてくれる人に、必ずこの質問をした。ところが、意外にも、誰も、なぜそうなのか、ということは知らなかった。昔からの言い伝えで、そういうことになっている、ということである。


 私を始め、研究室の院生たちは、この話に興味を抱いた。

 夏の休みを利用して、皆でそこに行ってみよう、ということになった。

 私たちは車を借りて、5人でその町に向かった。高速を降りて四十分ほど走ると、その入り江のある町に着く。観光名所でもない、人気のない小さな港町である。


 私たちは、その入り江のある海岸近くに車をとめた。


「おい、見ろよ」


 仲間の一人が空を指さした。

 先ほどまで晴れていた空が、今は、曇っている。


「幽霊でも出るのかね」


 そんなことを話しながら、私たちは、入り江に向かった。民俗学を研究しているだけあって、私も、この時一緒にやってきた四人の友人も、怪談には免疫力がある。女性も二人いたが、二人とも、普通の女の子の様に、怖がったりはしなかった。恐怖よりも、研究に対する探究心の方が遥かに勝っているのである。


 岩場を進み、私たちは、その入り江にやってきた。

 ちょっとしたプライベートビーチの様になったそこは、しかし、プライベートビーチというには寂しすぎた。湿った磯風がゆっくり動き、波と風の音以外は、何も聞こえない。


 私たちは、祠か何かあるだろうということで、あたりを探したが、結局何も見つからなかった。雲はいつの間にか分厚くなり、ぽつり、ぽつりと、雨がまばらに振り始めた。


「何だろなぁ、ここ」


 どうして地元の人が、曇りや雨の日にはこの入り江に近づかないのか、実際に来てはみたが、私たちにはいまいちわからなかった。雨が降ると高波になるようなことがあり、そのような危険から子孫を守るためにできた禁忌なのだろうかと、私たちは話し合った。ただ、私たちの誰もが、嫌な気配を感じていたのは、間違いなかった。


「ミサキとか、出たりして」


 学友の一人が、そんなことを言った。

 ミサキというのは、海で死んだ死者の霊や祟りのことである。この地方では、確かに、ミサキの伝承が多いのだ。


「ミサキに天気って関係あったっけ?」


 私たちは、ミサキと天気の関係については聞き知っていなかった。ただ、雨の日に出る怪異というのはあるので、それとミサキが融合した形の伝承なのだろうかなと、私たちは考えていた。


 雨が少し強くなってきた頃、私は不意に、顔を上げた。

 わーん、わーんと、今まで無かった音が、微かに聞こえ始めたのである。遠くから聞こえてくる地鳴りのような音で、気にしなければ気にならないような、どこかで起こった自然現象の一部と思ってしまうような音である。事実この時、その音に気付いたのは、私だけだった。


 私は、入り江の、泉のようになった海にじっと目を凝らした。

 何かが、そこにいるような気がしたのだ。

 泣き声のような音はだんだんはっきりと聞こえるようになってきた。


 わーん、わーん。

 腹に響くような低い音。泣き声とも、呻き声とも聞こえてくる。


「これ、何の音?」


「風の音じゃない?」


 友人同士が、そんなやり取りをする。

 音の正体は、波か風しかありえない。雨の音なら、こんなに反響するはずが無かった。しかし、波や風の音と、この海の底から聞こえてくるような、わーんという音は、やはり、明らかに違っている。


 わーん……。

 わーん……。

 わーん……。


「帰ろうか」


 特に何も見つからず、雨も強くなってきたので、私たちは帰ることにした。

 その後も何度かこの地方を訪れて、いくつかの民話、伝承の採集をしたが、結局この入り江のことは、最後まで分からず終いだった。私は大学院を卒業し一般企業に就職し、他の学友も、大学院に残った者は一人だけで、あとは、学校の教員や図書館司書になったらしかった。


 それから10年が経ったある日、大学院時代の友人が、私を訪ねてきた。10年前、一緒にあの入り江の探索をしていた友人の一人だ。彼は今、某大学の助教授をしている。東北の民話や伝承の周辺について調べているという事だった。


 懐かしさもあって、私たちは半日、当時のこと、そして霊や妖怪、神の所在などについて、いうなれば、10年前に戻った気持ちで、話をしていた。話もひと段落したころ、友人が、「実は……」と切り出して来た。


「ショウコの旦那と娘、亡くなったんだよ」


「え?」


 ショウコというのは、10年前の研究室のメンバーの一人で、10年前、あの入り江に一緒に探索をしに行った仲間の一人だ。私は大学院卒業以来、彼女とも、そして他の友人とも連絡をとりあっていなかった。


「ほら、これ」


 そう言って、友人はバックの中から何枚かの紙――A4のコピー用紙や新聞の切り抜きを私の前に出した。そのうち、新聞の切り抜きの一枚を友人は指さした。

 そこには、去年8月に起きた水難事故の記事が載っていた。父と娘が溺れ、二日後に遺体で発見されたという。私は顔を上げ友人を見ると、友人は頷いた。つまり、この記事に出ている父と娘というのが、ショウコの夫と娘なのだった。


 私が言葉もなく記事に目を落としていると、友人はぽつりと言った。


「リョウのこと、知ってるか?」


 私は首を振った。リョウも、大学院の研究室の学友である。あの時、一緒に入り江に行ったメンバーの一人でもある。卒業以来連絡を取っていないが――。


「何かあったのか?」


「三年前、Y県に旅行に行ったきり、行方不明になってる」


「……え?」


 友人は、A4のプリントを指さした。それは、国内の失踪者のリストの一部だった。そこに赤ペンで印がついた名前がある。リョウだ。失踪時期は、確かに3年前の8月末である。


「まだ、見つかってないのか?」


 友人は頷いた。

 私は、かつての研究室のメンバーのうち、一緒に入り江に行った学友のもう一人が話題に上がってないのを不意に思い出した。――ハズキだ。私は、祈るような気持ちで、友人にたずねた。


「ハズキは?」


 友人は、私の目をじっと見つめ、それから、ゆっくりと目を閉じた。私は、気づくと、友人の肩を掴んで揺らしていた。


「おい、何か、あったのか? この10年の間に!」


 友人は再び目を開き、震える唇で答えた。


「亡くなった」


「亡くなったって……いつ?」


「今年の四月に、自宅で……」


 私は絶句した。

 からからの喉を濡らすのも忘れて、私はたずねた。


「殺されたのか……?」


「自殺とも他殺ともわかってない……。自宅の浴槽で、溺死してたらしい」


「ありえない……。酒でも飲んで……いや、確かハズキは――」


 そうだ、ハズキは、酒が飲めなかった。

 私は友人の目を覗き込んだ。


「あの時、10年前、俺たちはフィールドワークでN市の海岸に行った。俺とお前と、それから、ショウコ、リョウ、ハズキの5人で」


 私は、恐る恐る頷いた。


「あれから俺は、N市の海岸でのことはすっかり忘れていた。東北の伝承に関する研究をしていたんだ。それが、ショウコのことを風のうわさに聞いて、ひっかかったんだ。調べると、リョウも行方不明になったっていうじゃないか。そして3か月前、ハズキの死の知らせがあって、俺ははっきり思い出した。N市のあの海岸だ。俺たちは、曇りの日や雨の日に入ってはいけないという禁忌を犯したんだ」


「なんでもっと早く連絡をくれなかったんだ」


「連絡を取りたくても取れなかった! なんでお前、三回も引っ越した」


 そういえば、私はこの10年のうちに、三たび家を移った。

 一度目と二度目は雨漏り、三度目は床下浸水で移転を余儀なくされた。


「ショウコは、そうだ、ショウコはまだ生きてるじゃないか。それならショウコにも――」


「いや、彼女は、生きてるには生きてるが……まともに話せる状態じゃなかった」


「……どういうことだ?」


「彼女今、精神病院にいるんだ。げっそりしてたよ。俺が話しかけても全然答えなかった。部屋の隅の方を見て、ぶつぶつうわ言をしゃべってた……」


 私は、思わず頭を抱えた。

 友人は、ゆっくり口を開いた。


「もう一度、あの海岸に行ってみよう」


 私は、理屈ではなく、もう、自分たちが助かる道はそれしかないと思い、頷いた。あの時、禁忌を犯してしまったのだ。そのために、ショウコもリョウもハズキも、悲惨な運命を辿ることになった。とすれば、私も、そして目の前の友人である彼も、自分たちだけが悲惨な運命から逃れうるはずはない。


 あの禁忌の謂れを解き明かすしかない。

 当時は諦めたが、今度は、自分たちの命がかかっている。なぜ、曇りや雨の日に、あの入り江に入ってはいけないのか。N市の郷土資料館や図書館をひっくり返してでも、突き止めるしかない。


「じゃあ、また連絡する」


 その日は雨だった。

 友人は傘をさして、ざんざんぶりの雨の中を帰って行った。


 その翌日の朝、彼の勤めていた大学からの電話がかかってきた。私は妙な胸騒ぎを覚えながら受話器を手に取った。そこで私は、彼の死を知らされた。彼は、私の家を辞した後、駅に向かう途中の歩道橋で風にあおられ、車道に転落したという。大通り走る車数台にはねられ、ほとんど即死だったらしい。


 彼の死からひと月が過ぎた。

 私は今、友人と来るべきだったこの場所に立っている。

 10年前は5人で来た、この、小さな入り江の海岸に。


 巨石に囲まれた小さな入り江、あの時もそうだった。海面は泉のように穏やかだった。しかし少しすると、わーん、わーんと、あの呻き声のような、泣き声のような低い音が聞こえてきた。小雨に濡れながら、私は、海面を眺め続けた。どれくらい時が経ったのか、わからない。あの時もそうだった。海の中に何かがいる気配を感じる。それが、今まさに、その姿を見せようとしている。


 わーん、わーん……。


 もうすぐ、その気配のもとが姿を現す。

 もう少し、もう少し……。


 わーん、わーん……。


 海面が、小さく盛り上がってくる。

 いよいよ、それが出てくる……。


 わーん、わーん、わーん…………。



 ――続いてのニュースです。今日昼頃、昨日から行方が分からなくなっていた都内に住む会社員の男性が、H県N市の海岸で、遺体で発見されました。服装などから他殺の可能性があり、地元の警察が調査に当たっています――


 関東某所にある精神病院の一室。

 点けっぱなしのテレビには目もくれず、痩せこけた女性が一人、部屋の壁に向かって何かを呟いている。


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