ごめんなさいって言わせてごめんね
十八歳の時に運命の人に出会った。
二十歳で、その人と結婚した。
一年後、子供に恵まれた。
可愛い女の子。名前は、わたしと夫からとって春乃と名付けた。
幸せだった。
わたしが専業主婦となって春乃と家を守り、夫は働いてお金を稼ぎ家を支える。
夫が休みの日には少し遠出をして三人で遊び、疲れてる日には家でゆっくりする。
平凡な日常。だけど、他に何もいらないくらい、幸せな日々だった。
……そんな幸せに毎日酔っていたからだろうか。
だから神様は、わたしに罰を与えたのだろうか。
春乃が生まれて二年経ったとき。春乃の二歳の誕生日の前日。
朝、いってらっしゃい、と送り出した夫は……帰って来なかった。
事故だった。スキー場での警備中、雪崩に巻き込まれた、と電話があったのだ。
すぐに捜索が始まったが、見つからず、行方不明。
次の日、春乃の誕生日に、夫が朝仕事行く途中で買ったのであろうケーキが届けられただけで。
夫は……春斗さんは、あの冬の日、わたし達の前から姿を消してしまったのだった。
その日から、わたしの穏やかだった日常は一変した。
夫の収入がなくなったわたしはすぐに仕事を探した。
幼い娘は母の家に預け、朝から晩まで働き詰め。
もともとお金がなかったうえに夫がいなくなったのだ。わたしが働くしかなかった。それしか、娘を守ってあげる術がなかった。
入った会社の事務仕事を月曜から金曜、夕方五時まで行い、その後は居酒屋で夜中の二時まで。土日もバイトを入れ、わたしはほぼ毎日仕事に明け暮れた。
必死だった。娘を守らなければ。夫と悩んで買ったこの家を守らなければ。その思いを胸に、わたしは動き続けた。
二年後、母に勧められ、母からお金を借り、幼稚園に娘を通わせ始めると、そこでようやく娘とともに暮らせるようになった。といっても、一緒にいる時間は少ない。
朝娘を幼稚園に送り出すと、そのまま会社に行き、帰りに迎えに行く。そして夕飯を食べさせ、その後すぐに居酒屋に向かう。
土日は母に来てもらった。だから、寂しくはないだろう。そう思っていた。
時間感覚はなくなり、流れるように日は進む。
忙しない毎日に慣れ、身を委ねていたわたしはふと、寝起きにカレンダーを見た。
目に入ったのは今日の日付、二月三日。
三日……あれ、なにかあったような……。
少し考え、思い出す。
そうだ、昨日は娘の誕生日だ……昨日であの子は、五歳……。
アラームが鳴る。
……準備をしなければ。頭の中に今日の仕事内容が浮かぶ。
カレンダーから目を離し、すぐさま洋服に着替えると洗面台の前に立った。
顔を洗い、化粧をする。
そうしていると、足元に気配を感じた。
ファンデーションをはたきながら視線を下げる。そこには、眠そうに目をこする娘の姿が。
「……おはよう。ごはん机の上にあるから。それ食べたら準備してね」
いつもと同じ台詞が口から出される。
変わらない。昨日も、今日も。こうしなきゃ、暮らしていけないんだから。
この子が食べている間に支度を済まよう。今日は忙しい日だ。早めに行ければいいけど。
昨日の仕事を思い出しながら化粧を終わらせようとする。その時、わたしは娘が移動しないことに気づいた。
……?
いつもとは違う様子に違和感を覚える。
と、弱々しい声が聞こえた。
「……ごめんなさい」
「……え……?」
耳を疑った。思わず手を止め、娘をまじまじと見つめる。
彼女は、そっとわたしを見上げていた。眉尻を下げ、口を結んで、申し訳なさそうに。その表情は、こんな幼い子が見せるものではなくて。
胸に、頭に、言葉には出来ない衝撃が走る。雷を受けたかのようなショック。
いつからこの子は、こんな表情をするようになったのだろう……?
この子のこんな顔、わたしは知らない……。
「今、何に対して謝ったの……?」
気づけばそんな言葉が口からこぼれていた。
言ってから後悔する。そんなこと、わかるはずないのに。ただわたしが怒っているように見えたから、怖くて謝ってしまったのだろうに。
だけど、娘は口を開く。
「だって、お母さんが苦しいのは、はるのせいでしょ?」
手が震えた。心臓が大きく跳ね上がる。
苦しい? わたしが? 春乃の、せいで……?
娘は大きな瞳でわたしを見つめ、何かを堪えながら震える声を発する。
「だから、ごめんなさい」
瞬間、わたしは娘を……春乃を抱きしめていた。しゃがんで、両腕を春乃の背中に回して。
一瞬だけ春乃の身体が強張る。その小さな身体を引き寄せて、頭を撫でてわたしは首を横に振った。
「違う、違うよ、春乃のせいじゃないよ……」
「違くない……だって、だって、はるがいなかったら、もっとお母さん笑ってるもん……」
娘の悲痛な声。わたしを心配しての、言葉……。
ああ……わたしはなんてことをしてしまったんだろう。一番大切にしなきゃいけない子に、こんな風に思わせてしまった。守らなきゃいけないはずなのに……無意識に、存在を否定してしまった……。
こんなにも不安にさせて……わたしはいつから笑ってなかっただろう。どれくらい、春乃に心配をかけてしまったのか……。
そこではたと気づく。この子の泣き顔を見ていないことに。
ずっと不安で寂しくて仕方なかったはずなのに。わたしはもう何年も、この子が泣いているところを見ていない。聞いてもいない。そして、今も……。
……もしかして、泣くとわたしが困るから? だから、迷惑をかけないように我慢しているの……?
気づいた途端、胸が痛んだ。もうずっと忘れていた、心の痛み。申し訳なさで胸が締め付けられる。
……わたしは親失格だ。この子こと、何もわかろうとしなかった。この子はこんなにも、わたしを見ていてくれたのに。わたしの心を汲み取ろうと努力していたのに。
視界が歪む。けれど、泣いている場合じゃない。この子より先に、泣いてはいけない。
わたしは、この子の不安を取り除いてあげねばならないんだ。ずっとずっと、抱えてきたであろう不安を。春乃の存在を、春乃自身が否定することなんて、あってはならない。
「春乃……」
もう何を言ったところで許されないかもしれない。今更だと、思われるかもしれない。
だけどわたしはまだ、この子の親でいたかった。
親で、いさせてほしい。
「……春乃。もう、我慢しなくていいよ。泣いて、いいんだよ……?」
目を見つめる。
春乃の顔が歪んだ。でもまだ、弱く首を振りながら堪えている。
そっと、その少し赤らんだ、柔らかい頬に手を添えた。
春乃……こんなお母さんを、許してくれるかな。今からでもまだ、遅くないかな……。
やっと今、あなたのことを見ることができたんだ。だから……。
春乃と目線を合わせ、両手を広げる。
「春乃、ほら、おいで。今、お母さん、春乃のこと、見えてるよ」
もう我慢はしなくていい。甘えて、いいんだよ……?
大きな目がさらに見開かれる。そのガラス玉のような澄み切った瞳をしっかりと見つめる。
わたしのこの拙い言葉は、この子の胸に届いたのだろうか。
じわりと、涙が浮かんだ。口から苦しげな声が漏れ出し、春乃はわたしへと腕を伸ばしてくれた。
「ぅうう……お母さぁん……」
「春乃……!」
「お母さん! ぅあああああああ!!」
縋り付くように抱きつき、声を上げる春乃。強く、強く、わたしを求めてくれる春乃の身体。愛しいその身を抱きしめ返す。
「春乃、ごめんね……春乃はわたしの大事な娘だよ……春乃がいたから頑張れてたんだよ、生きてるんだよ……だから、春乃のせいなんかじゃないよ」
「ううぅぅ……だって、だって、お母さんがあぁぁ……!」
「うん、そうだね。お母さんが悪かった。全部、お母さんのせいにしていいから……」
自分を否定しないで……
我慢していた気持ちを全部吐き出し、震える身体は以前よりは大きく、だけど弱々しくもあった。
春乃は成長している。わたしが見てない間も、ずっと。だけどまだ、この子は五歳なんだ。悲しい事、苦しい事、辛いことを愚痴としてまだこぼす事が出来ない。その言葉を知らない。だから、泣いて吐き出さねばならない。その方法を、わたしは奪ってしまったのだ。いったいどれだけのストレスを与え、溜め込ませてしまったのか。考えるだけで胸が苦しくなる。自分に、苛つく。
だから今は、我慢なんてしないで全部吐き出して。受け止めるから。あなたの全部、受け止めるから……。
しばらくすると、しゃくりあげながらも春乃は泣き止んだ。わたしから身体を離し、涙で濡れた顔でこちらを見つめる。
わたしは彼女の肩まで伸びた髪を撫で、首を傾げる。なるべく、笑みを浮かべるようにしながら。
「ん? どうしたの?」
「ぁ……」
春乃は口を開きかけ、だけどまだぎゅっと結んでしまった。
あぁ……またこの子は我慢してしまっている。優しい子だから。今のでそれが十分わかった。きっと、わたしのことを想って自分の気持ちを言わないでいるのだろう。
多分、訊いても答えてはくれない。わたしが、気が付かなければ。
今日、何かあっただろうか……?
ふと、脳裏に朝目にしたカレンダーが浮かんだ。今日は月曜日。春乃の誕生日の翌日。
「……あ」
幼稚園の、創立記念日……。
っ……わたしは、誕生日だけでなく平日も、朝から晩まで春乃を独りにしようとしていたのか……。今日は母を呼んでいない。だから……。
完全に忘れていた自分が情けなくなる。本当に、わたしは何をしているんだ……。
目を赤くしている春乃をそっと抱き上げる。もう、寂しい思いはさせたくない。こんな風に我慢させたり、泣かせたくは、ない。
じゃあどうするべきなのか。春乃の頭を撫でながら考える。そうしながらふと横を見ると、鏡に映るわたしの顔が目に入った。
思わず固まる。
……ひどい顔だ。頬は痩せこけ、目の下には隈。化粧でごまかしてはいるが、肌もボロボロだ。
いや、それは見た目だけではなかった。心も、ボロボロだ。寝不足で頭はぼーっとするし、意識しないようにしてはいたが体調も最悪で、食欲もないほど。
はは……こんなの、春乃も心配するはずだ。今だって、春乃の重さに身体がふらつきそうで。
こんなんだから、仕事もうまくいかないのだろう。お金が必要だからと必死になって働き、ミスしてもいつかは慣れると考えていた。仕事内容も覚え、余裕をもって働けるようになると……。だが、現状は毎日失敗ばかりで一向によくならない。
それもそのはずだろう。自己管理ができていないのだ。自分の中を整理できていないのに、他のことに手を回せるはずもない。このままでは、お金をもらうどころか迷惑だと追い出されてしまう。
順序を間違えていた。仕事という敵と戦う前に、まずは疲労という敵を倒さればならなかったのだ。
わたしは今ここで、心身ともに疲れ切っているといういことに気づいたのだった。
春乃の、おかげで。
じゃあ、どうするべきなのかはもう決まっている。
「……春乃、お母さん、今日お仕事休むよ」
「え……?」
「なんだか疲れちゃった。春乃今日お休みでしょ? だから、お母さんもお休みする」
「いいの?」
「うん。お母さん、久しぶりに春乃と遊びたいもん」
「……! うん、遊ぶ……!」
ぱあっと不安げだった表情が笑顔になった。
やっと見られた春乃の笑った顔。この子はこんな風に笑うのかと、見惚れてしまう。
本当に、どうしてわたしはこんなにかわいい子を今まで見ていなかったのか。呆れて笑えてくる。
けど、今までやってきたことを変えることはできないんだ。だからこれからは、もっと春乃のことを見てあげられるようにしないと。
いったん春乃を下ろし、化粧品を片付けると、わたしは職場に電話を掛けた。体調が悪く、休む趣旨を伝える。上司はわたしの状況に気づいていたのだろう。一つ返事で了承してくれた。
それから居酒屋のほうにも連絡を入れると、わたしは春乃に微笑みかけた。手をつないでリビングに行く。
冬の朝。部屋は冷え切っていた。暖房を入れ、春乃とともにこたつに入る。
机の上にはラップがしてある春乃の朝ごはん。昨日の夕飯の残りの野菜炒めと白飯。それから味噌汁。どれも冷たくなっている。
春乃は電子レンジの使い方を知らない。教えたことがないから当たり前だ。だから、今まで平日の朝はこの冷たいご飯を食べているってことで……。
「っ……なんて、ことを……」
声が震える。
押し寄せる後悔。わたしはそれを大事に受け止め、そして、朝ごはんに手を伸ばそうとする春乃に声をかけた。
「春乃。今日は一緒に朝ごはんを作ろう」
「作る? はる、これでいいよ?」
「だーめ。一緒にあったかいご飯、作って食べよ?」
春乃の手を引いてキッチンに行く。椅子を用意してその上に春乃を立たせると、フライパンをコンロの上に置いた。それから、買いだめしていたパンと卵、ソーセージ、コーンスープの素、そしてサラダにするための野菜を取り出す。
中には買った覚えのないものもあった。きっと、母が買ってくれたのだろう。
後で、電話してお礼を言わないと。
食材を用意すると、春乃と一緒に朝ごはんを作り始めた。
やかんでお湯を沸かしている間に、隣で目玉焼きを作る。フライパンの端では、ソーセージを焼く。
春乃には卵を割ってもらった。うまく割れると、ふっくらした頬を紅潮させて喜んでいた。
春乃が興味津々に色が変わっていく卵を見つめている間にサラダを作る。レタスとキュウリ、ミニトマトを小さく切ってお皿に盛る。
トーストでパンを焼きあげると、その上に目玉焼きを乗せる。ふわりと、香ばしい香りが部屋に広がった。お皿に移してソーセージを添えると、春乃に机まで運んでもらう。
やかんが声を上げ始めたらマグカップにコーンスープの素を入れ、お湯を注ぐ。
簡単な朝食。でも、いつもの冷たいご飯よりはまともになったと思う。あったかくて、二人で作り上げた朝ごはんだ。
再びこたつに入る。いただきますをすると、春乃は少し躊躇しながらも目玉焼きの乗ったパンにかぶりついた。
「……! おいしい!」
黒目が輝く。それだけで、わたしの目には涙が浮かぶ。
よかった……。
春乃に気づかれないように目元をぬぐうと、わたしは用意してあった冷たい朝ごはんに手を伸ばした。ラップを取り、お米を口に運ぶ。
春乃がいつも食べているもの。それは、どんな味がするのか。知っておかなければと思ったのだ。
お米は、驚くほど冷たかった。そして、固い。野菜炒めも、おいしくない。味噌汁だって、こんな冷たい汁ものがあるのかと思うほどで。
「お母さん、はい」
俯き、自分の過ちをかみしめていると、不意に目の前にフォークが差し出された。刺さっているのは、先ほど焼いたソーセージ。
一瞬、何をされたのかわからずに春乃を見つめると、彼女はふんわりと微笑んだ。
「これ、おいしいの。だからね、お母さんにおすそわけ!」
「っ……あり、がとう……!」
涙をこらえ、ソーセージをかじる。温かくて、おいしい。それに、なんだか懐かしい味がした。
あ……そうか。わたしも、こんな朝ごはんは久しぶりなんだ。いつもはコンビニで買ったおにぎり一つだけ。昼だって、適当に買ったパンをかじっていただけで。
「お母さんお母さん、あと、これも!」
するとまた、今度はコーンスープが差し出された。少し飲んだのか、入れた時よりも少なくなっていたが、まだ温かいらしくほのかに湯気を漂わせていた。
思わず受け取ると、期待に満ちた目で見られた。その優しさに、笑みが零れる。
「いただきます」
そっと口に流し込み、味わってから飲み込む。
ああ……これも、懐かしい味だ。
「あったかい……」
「でしょ~? はるね、びっくりしたの。おみそしるつめたいから。あったかいのって、おいしんだね~」
何気ない一言。思ったことを、そのまま口にしたもの。だけどその台詞は強く、わたしの胸に突き刺さった。
これからは、冷たい味噌汁なんて飲ませない。
きっとミネストローネとかコンソメスープとか、この子は知らないだろう。この世にはもっとおいしく、温かいスープがあると教えてあげないと。わたし自身が。
朝食を終えて食器を片付けたわたしは、さあ何しようかと改めて部屋を見渡した。
こたつのそばにあるソファには、脱ぎっぱなしの上着やジーパン。春乃の服もあり、おもちゃや本も散乱している。
机のそばには会社の資料がばらまかれ、洗面所に目をやれば、洗濯機の上にある洗濯籠の中にはまだ洗ってない服がたんまりと積まれていて。
「これは……まずはお掃除からかな……」
こんなごみに囲まれてては、遊ぶことなどできない。
そうと決まればさっそく行動! とわたしは伸び切った髪を一つに結び、家の中を片付け始めた。
溜まりに溜まった服を何回かに分けて洗濯し、その間に散らかっている資料やらおもちゃやらを片付ける。
そうしていると、いつの間にか春乃もおもちゃをおもちゃ箱に入れ始めていて、なんだか嬉しくなった。その感覚はとても新鮮で、わたしの子はこんなにも成長しているんだと感動し、同時にほんとうに何もに一緒にしていなかったんだと思い知った。
掃除機をかけ、ごみをまとめる。気づけばわたしは、以前の状態に戻さなくてはと夢中になっていた。
一通り掃除、洗濯を終えた時にはもう十一時を回っていた。綺麗になった部屋に満足して一息ついて振り返った先では、春乃が冷蔵庫に入れてあったお菓子に手を伸ばしていた。
その姿はとても可愛らしくて、こんな子供らしい一面もあるのかと、なんだか安心してしまった。
そうだよ、すごくわたしを気遣ってくれて、大人っぽい表情をするようになっていたけど、まだまだ子供なんだから。これが、普通なんだ。
それにしても、久しぶりに掃除というものに集中してしまった。わたしもお腹空いてきた。お昼を作らないと。
冷蔵庫の中をのぞく。
「……うーん、お昼作れそうなものはなし、か」
買い物に行かないと。
わたしはチョコをもぐもぐしている春乃に声をかけた。
「春乃、お買い物行こうか?」
「行く!」
即答する春乃の声音は明るくて。その花のような笑顔が視界に入るだけで、今日休んでよかったと思える。
まだ寝間着だった春乃を着替えさせ、髪をハーフアップに結わってあげると、わたし達は近くのスーパーに歩いて行くことにした。
家の扉をあけると、つけてあった鈴がチリンと音を立てた。風が吹き込む。
ひんやりとした空気。相変わらず冬の外は寒かったけど、なんだか今日の日差しは温かく感じた。
太陽が、わたし達を見守ってくれているみたい。
お昼を何にするかはもう決めていた。朝はパンだったから少し迷ったのだけれど、でも、春乃と一緒に作ってみたかった。春乃の、驚く顔が見てみたかったんだ。
買い物を終えて家に帰ると、ホットプレートを用意した。それから買ってきたホットケーキミックスと卵、牛乳を袋から取り出す。
「お母さんそれ何ー?」
思った通り、春乃は興味を持ってくれた。
「これはホットプレートっていうの。今から、ホットケーキを作ります!」
「ほっとけーき?」
「そう。一緒に作ろっか」
「うん!」
買ってきたものをボールに入れてかき混ぜ、ホットプレートに乗せて焼くだけの作業。それだけなのに、混ぜる、ホットプレートに丸を描く、気泡が出る、ひっくり返すなど、それら一つ一つに春乃は反応し、くるくると表情を変えてくれた。
真ん丸で大きなホットケーキができると、春乃と半分こして、甘いはちみつとともに食べ尽くした。春乃は初めての味に驚き、そして柔らかい、甘い、とつぶやきながら幸せそうな顔をしてくれた。ほっぺた落ちちゃいそう、と自分の頬を手で包みながら笑みを浮かべる姿はさすがはわが娘。妖精のよう。かわいい。
昼食を済ませるとようやくゆっくりできる時間が作れた。
「やっと遊べるよ、春乃。春乃は何がしたい?」
「はるね、絵本呼んでほしい!」
とてとてと部屋にかけていった春乃は、少しすると五冊くらい絵本をもって戻ってきた。
母に買ってもらったのだろうか。どの本も見たことがない。一冊目の表紙は淡い水彩で描かれた絵で、深い青色に黄色と白の星が瞬いていた。それは、感嘆してしまうほど綺麗で。
こたつに入り、二人でうつぶせに寝転ぶ。床に絵本を置いて開くと、わたしはそこに広がる物語を読み聞かせた。
一人の少女が、妹のために夜空にきらめく星を取りに行くというお話。
少女の妹は病気だった。だから少女は何とかして病気を治そうと、その方法を探していた。そんなとき、とある旅人に出会う。旅人は言う。藍色の空に広がる黄金の輝きに魅入られた時、奇跡が起こると。頭上を仰ぎ見ると、そこには無数の星たちが瞬いていて。少女ははるか遠くにある星を取りに行くことを決意する。
魔法が存在する、少し不思議な国の物語だった。少女は空へ行くために魔法使いを訪ね、魔法を教えてもらう。そしてその魔法で空へと向かうが、途中で様々な壁に衝突し、くじけそうになる。だけど、そのたびに妹の笑顔を思い出し、彼女の笑顔を守るために立ち上がる。そんな、読者が勇気づけられる、苦しくも優しい、キラキラした絵本だった。ページをめくるたびに広がる水彩の絵がよく似合う。
春乃のために読み聞かせていたが、気が付けばわたしの方が本の世界へと入り込んでいた。
物語の最後、少女は星々のもとに到達する。目を輝かせ、星へと手を伸ばすが、ふと思いとどまる。ここは宝石箱のような場所。一つだけ取っても、地上の人たちには気づかれないだろう。しかし、星たちにとってはどうだろう。様々な色の光に囲まれたとき、少女の胸にそんな思いが沸き上がった。誇らしげに光を放っている星たち。それは一つ一つがとても綺麗だ。けれど一つも欠けずに、互いに競い合うかのように、支えあうかのように輝いているからこそ、さらに美しく見えているかのように思えた。
それなのに、一つとってしまったらどうなるだろう。輝きが失われてしまうかもしれない。美しさが褪せてしまうかもしれない。何より、星たちが悲しんでしまうのでは?
少女には、星を持って帰ることなどできなかった。ひとかけらも。その代わりに、この景色を妹に伝えようと、暗闇に広がる色とりどりの星の群れを心に焼き付けた。
地上に戻るとき、少女の胸には温かいものが灯っていた。頭上からは、黄金の輝きが、まるで少女とその妹を照らすかのように降り注いでいた。
家に帰ってきた少女はさっそく、妹に旅の話を語って聞かせた。奇跡は、その数日後に起こる。なんと、妹の病気がすっかり治っていたのだ。少女は喜び、星空に感謝する。二人はその後、星たちに温かく見守られながら、ゆっくりと大人へと成長していくのだった。魔法の旅で見たこと、感じたことを心に焼き付けたまま……。
「おしまい……」
パタン、と本を閉じたとき、わたしの胸にも温かいものが灯っていた。自然と笑みが零れる。
なんて素敵なお話だろう。頭の中に星々の輝きが浮かんでくるようだった。文字と絵だけで、こんなにも穏やかな気持ちになれるなんて……。
ふと思う。本を読んだのなんて、いつぶりだろうと。幼いころは本は大好きなもので毎日読んでいた。しかし、いつの間にか読まなくなっていた。こんなにも、素敵な世界が広がっているというのに。
心が、久しぶりに物語を求む。無意識のうちに、わたしのもう一つの絵本に手を伸ばしていた。
「こっち、読んでみてもいい?」
春乃にそう聞くと、彼女はわたしの顔を見て目を瞬いたのち、ぱあっと満面の笑みを浮かべた。頬を高揚させ、ぶんぶんと頷く。
「うんっ! 読んで読んで!」
「それじゃあ……」
そうしてわたし達は、再び物語の中へと入っていった。
窓からは柔らかな光が入り込む。温かい……。
気づけばわたしは、ふわふわと物語の世界から夢の世界へと向かって行こうとしていた。
慌てて目を覚まそうとした時。ぽん、と頭に重みを感じた。それは優しくわたしを撫でる。同時に、心地よい音楽が聞こえてきた。
子守歌だった。春乃が歌ってくれている。
その、あどけない声は耳に心地よく、わたしをそっと夢の中へと導いてくれるようだった。
わたしは少しだけ歌う春乃を眺めた後、そのまま眠りへと落ちていった。
目が覚めたのは、夕方の五時前だった。
もう外は闇に染まろうとしていて、電気をつけてなかった部屋の中も薄暗くなっていた。
眠気の残る目をこすり、身体を起こす。その時、強く腕を引っ張られるのに気付いた。
上半身を少しだけ浮かせた状態でお腹の方に目をやる。そこには、眠そう目をした春乃の姿があった。少しだけ泣きそうな表情でわたしの腕をぎゅっと握っている。
「春乃? どうしたの?」
春乃を抱き起こし、膝の上に乗せる。と、春乃はわたしの背中に腕を回し、しがみつくように抱きしめてきた。
「おかあさん……どこにもいかないで……」
「え……」
「はる、またひとりはやだよぉ……おかあさんといっしょがいい……」
「春乃……大丈夫、大丈夫だよ。お母さん、ここにいるから。どこにも行かないよ。ね?」
わたしも春乃を抱きしめ返し、その頭を優しくなでた。さっき春乃にしてもらったように。
すると春乃は小さく嗚咽を漏らして泣き出した。胸の中の不安を全部流しだすかのように。急に不安になってしまったのだろう。その声から、震えから、涙から、今までの寂しさ、悲しさ、苦しさ、辛さが伝わってきた。わたしはそれをすべてを掬い取るように耳に入れ、心で受け取った。心臓がギュッと締め付けられるかのような感覚も、全部。だってこれは、春乃がしてきた思いだから。わたしが受け取らないと。
しばらくすると、落ち着いてきたのか春乃の震えが収まってきた。小さく、顔を上げたのがわかる。上目遣いでわたしを見る春乃。その潤んだ瞳を見たとき、わたしははたと気づいた。まだ、わたしは春乃に何も伝えてないと。
春乃はこんなにもわたしを求め、大切にしてくれた。まだ幼いのに、幼いなりに一生懸命考えて。その気持ち、想い、今日で痛いほど伝わった。今まで気づこうとしていなかった気持ちを、わたしは全部受け止めた。春乃は全部を、伝えてくれた。うれしい、楽しいから、苦しい、辛いまで。だからわたしも伝えないと。
今日で改めて気づいたんだ。春乃がどんなに大事で、わたしにとってかけがえのない存在なのかに。わたしが見ていない時も、春乃が寄り添っていてくれたことにも気づけた。今度は、わたしが寄り添ってあげる番だ。わたしが、言葉を伝える番だ。
わたしは春乃の目を見ると、彼女に届けるように声を発した。
「春乃。お母さん、ずっと春乃のこと見えてなかったね。お母さんね、お父さんがいなくなったとき、わたしが春乃を守らなきゃって思ってたの。でもそれは、逆に春乃を苦しめてしまった。寂しい思いをさせてしまった。こんなはずじゃなかったのにね……」
声が掠れる。胸が苦しくなる。それでもわたしは、言葉を紡ぐ。これが、わたしがさぼってきたことだから。
「それでも春乃は、ずっとお母さんを見てくれてたんだね。見て、どうすればお母さんが大変じゃないか、考えてくれたんだよね。今日、それがわかったよ。おかあさん、やっと気づくことができた。遅くなっちゃってごめんね」
春乃が目を見開く。
唇が震える。視界が歪む。それでもまだ……。
「春乃、今日、お母さんを求めてくれてありがとう。そのおかげで、春乃を見ることができた。本当はお母さんから気づかなくちゃいけなかったんだけどね……本当にありがとう。甘えてくれてありがとう……」
そして。
「これからはもっといっぱい一緒にいよう。春乃がいてくれたら、わたしはいっぱい笑えるよ。今日、すごく楽しかったもん」
「ほんと……?」
「うん、本当。苦しいこと、忘れられた。春乃のおかげだよ。ありがとうね」
「……! うんっ!」
「あと、それと、ね……」
わたしは立ち上がった春乃の身体をぎゅっと抱きしめる。そして一番言いたかったことを、ずっとずっと、心に残っていたことを吐き出した
「朝……ごめんなさいって言わせてごめんねっ……!」
刹那、ずっと我慢していた涙が溢れ出してきた。声も喉から漏れ出す。
それだけが心残りだった。わたしの方が謝らなければいけなかったのに。先に春乃に謝らせてしまった。それも、あんな悲痛な顔で。苦しかったろう。不安だったろう。わたしに嫌われていると思っていたかもしれない。思わせてしまったかもしれない。それが、本当に申し訳なくて。自分自身が情けなくて。ずっとずっと後悔していた。後悔しても過去は変えられないというのに。後悔せずにはいられなかったんだ。
春乃のことを見れずに、春乃を抱いたまま俯いていると、そっと背中の方に手が回ってきた。ぎゅっと、抱き寄せられる。降ってくる、春乃の声。
「お母さん、はる、大丈夫だよ。泣かないで。はる、ずっと大好きだった。お母さんのこと。今日、遊んでくれて嬉しかった」
顔をあげると、春乃の優しげな瞳。なんだか落ち着く声が、わたしの心にそっと入り込む。
「お母さん大好き」
はにかむ春乃。
「……!」
その微笑みに、声に、わたしは一瞬で救われた。
あんなに締め付けられていた胸が、嘘のように軽くなるのを感じて。
ほっと、心が安心するのがわかった。
……また、助けてもらってしまったな。
だけど、これでようやく春乃と向かい合うことができたようで。自然と、言葉が。
紡がれる。
「ありがとう……」
その後、春乃はわたしの膝の上でたくさん甘えてくれ、いっぱい幼稚園での話を聞かせてもらった。
けれど、しばらくすると、だんだんと声が小さくなっていき、春乃はゆっくりと夢の中へと入っていった。その寝顔は幸せそうで、そうっとその柔らかい髪を撫でる。
可愛いわたしの娘。世界で一番大切な、わたしの春乃。
これからは一緒に歩んでいこう。支えあって行こう。ちゃんと、家族として。
神様は、わたしに試練を与えたのだろうか。わたしはその試練を乗り越えることができたのだろうか。
不意に、チリンと鈴の音がした。玄関の方。
はっとして振り返る。
「――ただいま」
懐かしい声が聞こえてきた。
おしまい
不意に思いついた短編。
温かい親子、家族を描いてみたかった。