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わがままジュリエット

作者: さとちゃん

「さようなら、おやすみなさい。

 別れが、こんなにも甘くて悲しい痛みなら。

 私はいっそ朝になるまでおやすみを言い続けます。」

ウィリアム=シェイクスピア「ロミオとジュリエット」より


夢も見ない泥のように深い眠りから目覚めると、

昨日一夜を共にした男は目を開けて死んでいた。


男の口蓋に付けられた人工呼吸器が、

魂の抜けた体に酸素を与え続けているのを確認した後、

望愛ノアは思わず安堵のため息を漏らした。


寝る前に枕元に置いたピルケースの中身を確認する。

中は漆黒の錠剤が4錠・・・大丈夫、数は間違いない。


薬の名は

「Brain death Syndrome medicine(脳死症候群薬剤)」

通称BSブラックスリープ

文字通り人工的に脳死状態を作り出す薬で、

昨夜、隣の男と望愛自身を殺した薬だ。


備え付けの鏡台でわずかに身支度を整えた後、

ホテル・ヴェローナのロゴ入り内線電話で

フロントに連絡を入れる。


「ジュリエットの望愛です。

 202号室、お仕事終わりました。」


結果、受話器を下ろして僅か1分で、

担架を掲げた救急隊員が部屋にやってきた。

ホテル・ヴェローナはジュリエット社と業務提携している為、

一階には救急隊員の待機部屋がある。


救急隊員は二名、歳は20代と40代くらいか、

年配の隊員は見覚えが有るが、若い方は初顔だった。


救急隊員は何時もの通り酸素マスクをずらして自発呼吸の停止と、

更に眼球を開いての瞳孔反射の有無を確認する。

年配の社員が指で丸を作り、望愛に向けた。万事OKのサインだ。


これでもうやり残した仕事は無い。

後は切刻医リッパー黒看護婦ブラックナースたちの範疇だ。


脳死体を捌くプロである彼らの手に掛かれば、

男の体は30分もしないうちにバラバラにされだろう。

その後は経済原理の法則に則って、然るべき臓器が然るべき主の元に収まるはずだ。


望愛は自分が完遂した仕事に深い満足を覚えた。

罪悪感??なにそれ??


ただ、退出しようと立ち上がった瞬間、若い方の隊員とうっかり視線を合わしてしまう。

何人の男に抱かれようと、何人の男を殺そうと、この目線は絶対に慣れる事が無い。


畏怖と侮蔑をを含んだ目線。

生者が死を扱う者に対して抱く根源的な拒絶。


望愛はショルダーバッグを抱え直すフリをして、

無理やりその視線を切ると、ホテル・ヴェローナを後にした。


        ・

        ・

        ・


BSの補充以外で、会社に用事も無いのだが、

誰も待っていない家に帰るのも退屈だ。

望愛は久しぶりに本社に出社することにした。


望愛の給料の出どころであるジュリエット社は、

ホテル・ヴェローナからはわずか10分程の距離だ。

時刻は午前10時、通常の会社なら完全に遅刻だが、

ジュリエットにそもそも出社義務は無い。


ジュリエット社は市内雑居ビルの10階にあり、

社員の内訳は事務員が10名程とジュリエットが約20名。


ただ既に2年以上在籍しているのにも関わらず、

ジュリエットの中には一度も顔を合わせた無い者も居るのが実情だ。

まあ、仕事がら一緒に飲みに行ったところで、

話が弾むはずは無いのだが。


エレベーターを降りてから一般職員達の島を横切る時、

定時出社の社員達からまたあの視線を浴びる


畏怖と侮蔑を含んだ目線。


望愛はその視線を避けるように自分の席に着くと、

とりあえず自席PCの電源を入れた。


ただジュリエットの望愛にあてがわれた、

デスクワークが有るわけではない。


初期画面のアイコンを眺めてぼんやりしていると、

なんとなく大昔の腰かけOL時代を思い出す。


やがて同じジュリエットのアケミが出社してきたので、

望愛はホッとして彼女に声を掛けた。


「おはようアケミ!商売はどう??」


「順調、順調。今朝も一件こなして来たとこ。

 ただこの仕事、実入りは良いんだけど、

 リピーターが出来ないのが難点よね。」


「ははっ、居たら怖いわ。」


「仕事終わった後、お客とアフターて訳にも行かないしね。」


「それも、出来たら怖いわ。」

いかにもアケミらしいブラックジョークに、

ささくれた望愛の心が安らぐ。


アケミは水商売からジュリエットに転職した口で、

同い年の望愛とは気が合った。

元の職業柄かジュリエットにありがちな暗さが無いため、

彼女とのやり取りは沈みがちな職場において貴重なオアシスだった。


ただ、しばらくするとアケミは机に突っ伏して熟睡しはじめた。

ジュリエットのアケミを咎める社員は居ないとはいえ、

何のために出社したのかとちょっと可笑しくなる。

まあ、それは望愛も同じだが。


一見明るく見えるアケミだが、ジュリエットの性格上、

彼女も当然のごとく自殺未遂者だ。

机の上に投げ出されたアケミの手首には、

幾重ものリストカットの後があった。


話し相手を失った望愛は、仕方なく普段使わないPCを操作してみることにした。

とりあえずブラウザを立ち上げると、

初期画面に設定されているジュリエット社HPが開いた。

ただ、真っ先に画面を横切る出来の悪いキャッチコピーが、

また望愛の神経を逆撫でする。


「貴方の人生最後のお供に。」


しばらくすると画面が切り替わり、

ジュリエット社の代表取締役である黒川の画像が現れた。

端正だが無表情な顔と、細身の体を纏う漆黒のスーツ。


知り合ってからかなり経つが、

この男が黒以外の服に袖を通したところを見たことが無い。


愛社精神などは皆無だが、ゼロから事業を立ち上げ、

会社を軌道に乗せた黒川の手腕を望愛は素直に称賛していた。

また現在のジュリエット社を取り巻く状況と、

その為に追い風となったここ10年ほどの社会制度の変化については、

あながち興味がないわけでない。


幸いにもHPの「会社概要」の横の「ヒストリー(HISTORY)」タブをクリックすると、ジュリエット社設立の過程とそこに至るまでの近年の社会情勢の変化がわかりやすく記されていた。


特にする事もない望愛は漫然とその文章に目を通し始めた。

記載されているのは大体以下の内容だった。


      ・

      ・

      ・


全ての始まりは、ある製薬会社が開発した

BSブラックスリープ」という新薬の臨床試験だった。


画期的な睡眠導入剤という触れ込みで開発されたその黒い錠剤は、

臨床試験で服用者が全員が脳死するという、

とてつもない副作用が見つかり、即座に開発が中止された。


司法解剖を行ったところ、死亡した全員の脳幹に血栓が発見され、

脳死はその血栓による循環阻害が原因だった。

血栓は一時的なモノらしく、わずか30分ほどで自然融解したが、

体内酸素消費量の4分の1を占める脳にとって、

血流の止まった30分間は機能停止するのに十分な時間だった。


BSを開発した製薬会社は社会的責任を取らされて即座に倒産したが、

BSの処方箋そのものは、裏社会で高値で取引された。

裏社会に於けるBSの主な用途は自殺用、暗殺用と様々だが、

一番の目的は脳死後の新鮮な臓器の確保だった。


この頃、すでに我が国の少子高齢化は極限に達しており、

医療保険制度そのものが破たんを来たしていた。

BSの流通により地球より重いはずの人の命は、

相場に応じて売買される様になり、

富める者の健康を保つ為に、何人もの貧しき者が脳死体となった。


泣く泣くBSを飲むのは、貧しきも者の中でも、

さらに貧しい多重債務者たちだった。

彼らは闇金で作った自らの生命保険でさえ払いきれない負債を、

死した後の自らの臓器で購うのだ。

ただ、それらの医療行為はあくまでも非合法に行われた。


数年後、猖獗するBSの薬禍に業を煮やした政府は、

いよいよ国家としてBSの製造、販売、管理を行うことを決定した。

そして皮肉にも、BSの国家管理化に伴い、

我が国における臓器移植手術は合法化し、オペ数も爆発的に増大した。


またBSの普及で、脳死に対して様々な研究が進んだ。

その中でも最大の発見は「脳死耐性体質」と呼ばれる人々だろう。


脳死は多くの人にとって、完全な人の死だが、

まれに脳死状態から蘇生する体質の人間が存在するのだ。

その人物に対して、当然BSは致死薬にはならない。

医学的に「脳死耐性体質」と呼ばれるその体質は、

一般的には「ジュリエット」と呼ばれた。


ジュリエットの可能性は五千人に一人。

面白いことにその体質の事前判断はどんな試薬を用いても不可能だった。

つまり自分がジュリエットであるか否か確認するには、

死を賭してBSを飲むしかないのだ。

さらに面白い事が有る。

その呼び名通り、ジュリエットは何故か女性に限られるのだった。


国家による後押しにより、一見障害が無くなったかに見えた脳死臓器移植だが、

実は微妙な問題が残る。それが「自殺ほう助」に関わる法律だった。


通常、他者が自殺に手を貸すことは「自殺ほう助」という犯罪に該当する。

つまり多重債務者が、自らの債務整理目的で脳死するには、

表向きは誰の協力も受けずに、自らの後始末を付けなければならない。

いくら死を覚悟したとは言え、これは中々にハードルが高い行為だ。


そのことに真っ先に気付いて、いち早くジュリエットを囲み込んだのが、

ジュリエット社の代表取締役の黒川だった。


ジュリエットの仕事は以下の通りだ。

まず、依頼を受けたジュリエットは、依頼者と一緒にホテルに宿泊し、

希望があればそのまま性的なサービスを行う。

その後ジュリエットは依頼者にBSを服用させ、

自らも服用する事で、やがて来る脳死状態に備えるのだ。


通常なら間違いなく自殺ほう助の罪に問われる行為だが、

依頼者の死の時点でジュリエットも死者となる為、

通常の法律は適用範疇外となる。


その後蘇生したジュリエットは、新鮮な臓器をいち早く

臓器バイヤーに届ける為、予め待機している

救急隊員へ連絡を入れるのだ。


この様にジュリエットは、いわば合法的な自殺ほう助者として、

依頼者とバイヤーの間、つまり死者と生者の間を仲介する

役割を果たす。


また、ジュリエットを介するメリットは他にもある。

誰だって一人で死ぬのは怖いのだ。


      ・

      ・

      ・


ぼんやりとHPを眺めていた望愛だったが、

いつしか机に置いていたスマフォが震えている事に気が付いた。


慌ててスマフォを手に取る。

発信先は社長の「黒川」だった。

望愛は少し緊張した面持ちで通話ボタンを押した。


「はい、こちらジュリエットの望愛です。」


「望愛か?急な仕事が入った。今夜は空いているか?」


会社がかなり大きくなったのにも関わらず、

相変わらず仕事の依頼は直接社長の黒川から掛かってくる。


「はい、大丈夫です。」


「では今夜7時にホテル・ヴェローナの301号に向かってくれ、

 お相手は45歳の淵男。残念ならがSオプ希望だ。」


「淵男」は「崖っ淵の多重債権者」の意味で

「Sオプ」は「セックスオプション」の略、

つまり添い寝だけでなくセックスを含めたサービス希望という意味だ。


「別に構いません。301号ですね。

 それよりマッチングの方はどうでしたか。」


「残念ながらそっちはNGだ。

 まあ金の為と割り切ってやってくれ。」


「判りました。」

少なからぬ失望の後、望愛は気を取り直して化粧ポーチを取り出した。


そう、自分にとってはルーチンだが、

相手にとっては生涯最後のセックスになる訳だ。

せめて華やかに装って、少しでも喜んでもらうことにしよう。


7時までは、まだかなり時間がある。

望愛は近くにある会員制のエステティックサロンに向かうことにした。

OL時代は手の届かなかったエステ会費も、

今の望愛にとっては菓子代レベルの出費だった。


       ・

       ・

       ・


午後七時、エステで身嗜みを整えた望愛は、

ホテル・ヴェローナ301号のドアを叩いていた。

「初めまして、望愛です。」


「君が望愛ちゃんかい。」

男はバスローブを身にまとい、

ワインボトルとグラス片手に望愛を出迎えた。

すでに少し飲んでいるらしく、

ワインが3分の1くらい減っている。


「ハイ、よろしくお願いします。今晩は望愛を可愛がってくださいね。」


望愛は脳内を仕事モードに切り替えた。

些細な事に気が付いて男の一挙手一投足に感動するという、

可愛くて無邪気な女を演じる事に集中する。


男は短小矮躯で貧相だったが、

状況が把握できていないのか、ただの虚勢なのか、

見た感じ死の恐怖に怯えてる様子はない。


男はこの期に及んでも一種の余裕の様なモノを匂わせ、

ワインボトルも一目でビンテージとわかる代物だった。


いずれにせよこの手のタイプは後々厄介になるケースが多い。

能天気を装いつつも、望愛は警戒を緩めなかった。


「いやーーー君みたいな綺麗な女の子を抱けるなんて、

 おじさんもう死んでもいいや。」


「やだーーー、おじさんったら面白い!!」

淵男の10人中9人から聞かされるブラックジョークにも、

愛想笑いは欠かせない。


「ほらほらここきて一緒に飲もう!!

 このワイン・・下手なサラリーマンの給料くらいするんだよ!!」


「わーーーい、おじさんってお金持ち!!」

白々しい言葉を口にしながら、望愛は心底男を軽蔑した。

淵男が金持ちのハズは無いではないか。

ただ、望愛の皮肉もアルコールで麻痺した男の脳には入ってこないらしい。


望愛は男からグラスを受け取ると、

ベッドに腰かけてワインを旨そうに飲み始めた。

実はワインには嫌な思い出が有るのだが、今の望愛はおくびにも出さない。


互いにワインを注ぎ交わすうちに、段々男の目がトロンとし始めた。

このまま酔いのどさくさに紛れて、BSを飲ませても良いが、

相手がSオプを希望している以上、それに答えるのがプロとしての礼儀だ。


望愛はさりげなく服を着崩し、チラチラと胸の谷間を強調させた。

酒器を帯びた男の目が、胸元に刺さるのが分かる。


「望愛ちゃん!!」


男はいきなりバスローブを脱ぎ捨てると、望愛に襲いかかってきた。

望愛はバスローブの下から現れた、貧弱なな体に落胆しつつも、

男の欲望をやんわりといなして、自らも服を脱ぎ始めた。


ムードも何も有ったものではないが、淵男にそれを期待するのは酷だろう。


「来て!!来て!!」


生まれたままの姿になった望愛は、自分が思う限り、

男から見て一番可愛い女を演じることにした。


そう初対面でもスグに恋に落ちて、セックスが好きで好きでたまらないという

絶対に何処にも居ない女を・・・・・・・


結局、男は続けて3回、望愛の中で果てた。

構いやしない。

どうせ避妊手術はしているし、相手に病気が無いことも確認済みだ。


しかし男って生き物は、どうしてこう無駄な行為をしたがるのだろう。

望愛に限って言えば、依頼者が男の場合は約9割がSオプ希望だった。


女からしたらセックスというのは、好きな男とする行為のみがセックスで、

後はただのお互いの体を使った自慰行為だ。


まあオルガスムスはフランス語で「小さな死」と言う意味らしいので、

これから訪れる「永遠の死」の予行演習くらいにはなるかも知れない。


情事が終わった後のぼんやりした頭でそんな事を考えていると、

男が再びのしかかってきた。


再戦かしら??


ちょぅとだけ期待した望愛だったが、

男の手にさっきのワインボトルが握られてるのを見て、

直感的に身を屈めた。


男にとって望愛とのセックスは十分に良かったらしいが、

どうやら少し良すぎたらしい。

結果、男に余計なモノを与えてしまったようだ。

そう生きる希望の様なモノを・・・・


男は手に持ったワインボトルをいきなりベッドの縁に叩きつけると、

割れて鋭利になった断面を望愛に向けた。


「俺は今から逃げる!!

 頼む望愛ちゃん・・見逃してくれ!!」


やれやれ・・・望愛は思った。

長年この仕事をやっていると、

三か月に一回くらいの頻度で、こういう聞き分けの無い客に遭遇する。

望愛は仕方なく、予め用意してあったセリフを口にした。


「それは出来ないんです。

 ここの部屋に窓は無いし、出入り口はそこのドアしかありません。

 そしてそこのドアは中からは絶対に開かないし、

 外から開けるには私の連絡が必要です。」


「じゃあ、直ぐに開けるように連絡しろ!!」

男はワインボトルを望愛の喉元に突きつけて言った。


「それは出来ますが、本当に良いんですか?

 今までの会話は全てモニターされてるので、

 今私がドアを開けるように指示したら、

 貴方は間違いなく、入ってきた救急隊員に取り押さえられまよ。

 その後はベッドに固定されてBSを静脈注射されるでしょうね。」


「なんだって!!」

ここまで来て、男はようやく状況を把握したようだった。


「救急隊員は喜ぶでしょうね。

 BSは経口摂取より静注の方が効き目が早いから、

 彼らは朝まで待たずに、直ぐ仕事が切り上げられます。

 私もそちらの方が助かるってい言えば助かるんですが、

 ちょっと後味が悪いんで。」


男が望愛を見る目に恐怖が点った。

さっきまで己の体の下で可愛く喘いでいた女が、

実は得体の知れない化け物と知った瞬間の目だ。

畳み掛けるように望愛はトドメの言葉を連ねた。


「そう、貴方は死ぬんです。もうどう足掻いても死ぬんです。

 ここから逃げることは不可能だし、私を人質にしても無駄です。

 だったらせめて最後くらい人間らしく、心穏やかに死にませんか。

 さっきのドタバタでたぶん救急隊員は直ぐに駆け込めるように、

 ドア向こうに控えてると思いますが、

 今ならまだ大丈夫。まだ私が一緒に死んであげられますわ。」

空々しい言葉を並べながら、望愛は思った。


馬鹿な男、馬鹿な男、どうせ今までの人生も

何とかなる、何とかなると思い続けて、

いつの間にか崖っ淵に立たされていたのだろう。

その認識の甘さを、望愛は嘲笑いたくなった。


本当に死ぬ気なら、せめてここに来る前に、

死ぬ気で何とかすれば良かったのに。


望愛の言葉を理解した瞬間、男の目から光がストンと消えた。

そう、まるで眼球の代わりに底知れぬ暗黒の空洞が現れたように。

男の目はもう何も見ていなかった。

目の前の風景も、望愛も、未来も、過去も、現実も、夢も、希望も、

男は生きながらにして死者になった。


ああ、良い目・・・望愛はうっとりとその暗黒の淵を見つめ返した。

この目こそ「淵男」の名前の由来だった。

この目をした男を殺すことに、望愛はいかなる憐憫も感じない。


結局、真の意味で人を殺すのは、

「BS」でも「鋭利なワインボトル」でもない。

「絶望」なのだ。


すっかり大人しくなった男は、

望愛に言われるまま、ベッドに体を横たえ、

望愛に言われるまま、ワインでBSを流し込み、

望愛に言われるまま、人工呼吸器を装着した。


望愛は男の余したワインで同様にBSを流し込むと、

隣に体を横たえた。

後は泥のような眠りが全てを押し流してくれるはずだ。


「手を・・・」

「えっ?」

「手を握っていてくれるかい。」

人工呼吸器越しの男の口から、ややくぐもった声が聞こえた。


望愛は手探りで男の左手を探し当てると、

しっかり握りしめた。

その手が意外に暖かい事に気付き、望愛は何故か動揺する。


「ありがとう。」

光の無い男の目から一条の滴が落ちた。


空調の整ったヴェローナの部屋は暑くも寒くもなく、

右手には男の暖かな手の感覚。

部屋にわずかに漂うはワインの芳香。


ああ、嫌だ。

このシチュエーションは、

望愛に初めてBSを飲んだ日を思い出させる。


そう、夢も希望も未来も永遠も全て投げ捨てて、

ただ愛のみを望んで毒杯を仰いだ二年前のあの日を・・・


今日に限って泥のような眠りは中々に訪れず、

死する前の脳は容赦なく、二年前の記憶を再生した。


        ・

        ・

        ・


二年前、望愛には恋人が居た。

いやそもそも望愛という名は、今の仕事を始める時に付けた源氏名で、

本当の名は別にある。

ただその名を望愛は二年前に捨てていた。


恋人は美しく優しく誠実だったが、健康ではなかった。


そう恋人は心臓が悪かった。病名は拡張型心筋症。

様々な医者に見てもらったが、

どの医者にも完治には心臓移植しかないと言われた。

診断を受ける度、望愛は少しずつ未来に絶望した。


いくらBSによる脳死移植手術が普及し始めたとはいえ、

保険の利かない移植手術は依然庶民には手が出ないほど高額で、

ただのOLである望愛には望むべくも無かった。


彼の病気は治らず、望愛の愛も醒めなかった。

彼に時々訪れる心臓発作の度、望愛は自らの心臓が抉られる様に痛んだ。


彼の体を労り、空しく日々を重ねれば重ねるほど、

望愛は彼との生涯を完結する事にしか興味が無くなった。


そして何度目かの大発作の後、とうとう医者にこう言われた。

「次に発作を起こしたら終わりと思ってください。」


彼と一緒に死ぬ事を決めたのは、ある九月の夜の事だった。

その日は暑くも寒くも無く、

窓を開けると遠くから鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。


二人で借りている2DKマンションの空には、

雲一つ掛からない中秋の名月が浮いていた。


ベッドに腰かけた望愛と彼氏の手には、

ワイングラスが握られていた。

ベッドサイドにはちょっと無理して買った

ビンテージのワインのボトル。

彼の医療費に給料の大半をつぎ込んでいる望愛にとって、

そのワインはかなり高価だったが、

せめて末期の酒くらい思いっきり贅沢をしてみたい。


二人の枕元に置いてあるピルケースには、

お守りのようにBSが二錠入っていた。


彼はそれを取り出すと、手のひらで転がして、

不思議そうに眺めながらい言った。


「不思議だな・・・こんなちっぽけな薬を飲むだけで、

 あの死ぬような痛みとオサラバできるなんて。」

大して死を恐れる風でもなく、無邪気に言い放つ彼氏には

どこかしら少年の面影残っていた。

望愛が好きになったのも、多分そんなところだった。


「そうね・・・」


望愛は彼から薬を一錠取り上げて、月に透かせて眺めてみた。

錠剤を縁取るように輝く満月は、

世界の何処にも置いていないエンゲージリングに思えた。


「じゃあ死のっか。」

彼はBSを口に含むと、躊躇なくワインと共に嚥下した。

しばらくして、望愛もそれにならう。


彼と一緒にベッドに体を横たえると、

不思議な事に何も怖いものが無くなった。


「最期、手を握っててくれるかな。」

「ええ」

横たえた彼氏の手をしっかり握ると、

そこから体温が伝わってくる。

ああ、この温もりを私は生涯最期の思い出にしよう。


「この手、死んでも離さないでね。」

「ええ、死んでも離さないわ。」


九月の夜は暑くも寒くもなく、

右手には暖かな男の手の感覚、

部屋にわずかに漂うはワインの芳香。


やがてワインの酔いと共に、

耐えられない程の眠気が襲ってきた。

この眠りの向こうには、

死という決して醒めない永遠の眠りが待っている。


望愛は抵抗をあきらめ、その眠気に身を委ねた。

どこかでブザーが鳴っている気がしたが、

もはや月の裏の出来事の様に興味が無かった。


      ・

      ・

      ・


目が覚めたのは見知らぬ白い部屋の中だった。

望愛は自分がまだ生きている事に何よりも驚くと、

ひとまず周りを見渡した。


ベッドのスグ横のパイプ椅子に男が一人腰掛けている。

男は足を組んで興味なさげに手に持った文庫本を読んでいた。


白い壁紙、ベッドに掛けられたナースコール。

どうやらここは病院らしいが、男は医者ではありえない。


なぜなら男の服装は、靴の先から頭の天辺まで

一糸も乱れず黒ずくめだったからだ。


望愛が目を醒めたのに気が付くと、男は文庫本から目線を離した。

聞きたい事は色々あったが、とりあえず男の正体が知りたい。

「貴方は誰なの。」


「君のメフィストフェレスさ。」

男の声は低く、地の底から響いて来る様だった。


「ロミオとジュリエットのラストシーンのつもりで毒を飲んだのに、

 起きたらファウストだった訳、残念ながら原作者が違うわよ。

 で、私のロミオは何処なの??」

 

「彼は運よく蘇生が間に合ったので、今は人工心臓に繋いでいるよ。」


「どうして、彼もBSを飲んだはずよ。」


「彼の心臓はBSを飲んだ瞬間に発作を起こして停止した。

 ワインのアルコールに心臓が耐えられなかったみたいだね。

 もっとも血液循環が停止したので奇跡的に脳幹血栓が出来なかった。」


「ずいぶん早く救急車が来たものね。」

心停止後の50%生存率は、確か3分だったはずだ。


「体内埋め込みセンサー・・・・忘れてたようだね。」

しまった・・・彼の心臓は24時間常にモニターが必要なので、

異常があれば、胸に埋め込んだセンサーから病院に

連絡が行くようになっていたのだ。

まさかこんな最悪なタイミングで心停止するとは思わなかった。


「人工心臓の稼働代金は、とりあえず今は僕が立て替えているよ。」


「余計な事を、私にそんな高額な医療費払えないわよ。」

人工心臓の一日辺りの稼動費用は、確かエアコン一台が買える金額のはずだ。


「そうでもない・・・君はジュリエットだったんだよ。」

確かに・・・自分が死んでいない理由はそれしか考えられない。

つまり5000分の1のチケットを引き当てた事になる。


「自己紹介が遅くなってすまない。私はこういうものなんだ。」

男は胸の名刺入れから名刺を差し出した。

そこには「株式会社 ジュリエット 代表取締役 黒川雄二」とあった


株式会社ジュリエット、

聞いた事が有る。確か最近出来た心中屋の名前のはずだ。


「で、私をスカウトに来たわけ。」


「その通り。

 彼氏を助けたいなら、我が社への転職をお勧めするね。」


「彼氏については、感謝してないわけでは無いけど、

 悪いけど問題が先延ばしされただけよ。

 移植に掛かる総費用って知ってる。移植心臓のマッチング比率ってご存知。」

いくら脳死移植手術が普及し始めたとはいえ、

貧乏人にまで命のおこぼれは廻ってこないのだ。


「私ならその問題を二つとも解決できるって言えば、

 少しは興味を持つかね。」


「とりあえず話を聞かせて。」

望愛は素直に興味を持った。

黒川の得体は知れないが、

少なくとも嘘は言わない男に思える。


「まず第一の問題。

 ジュリエットは人手不足のせいもあり非常に高給だ。

 給料は半歩合制だが、

 移植手術の費用くらいなら10回ほど仕事をこなせば、

 蓄えられることは保証するよ。」


「つまり10人ほど殺せばって意味ね。」


「いや、君は薬飲んで添い寝するだけだよ。

 今回の彼氏と同様にね。」


「物は言いようね。」


「もっともお相手が彼氏相当の行為を求めてくるかも知れないが、

 そこは断ってもらっても構わない。まあ若干給料は下がるけどね。」


「別に構わないわ。」

未通女おぼこじゃあるまいし、

いまさらセックスで汚されたと騒ぐ歳でも無い。


「それは助かる。

 次に第二の問題。

 移植手術、特に心臓移植に関するマッチングのシビアさは

 こちらも把握している。

 例え今から君の彼氏が待ち行列の末尾に並んでも、

 順番が回ってくる頃には君は後期高齢者になっているだろう。」


「それじゃあ意味が無いわ。」


「その通り、ただジュリエットには特別な権利があってね。

 看取った人間の臓器に対する優先権が与えられるんだ。

 つまり君の看取った顧客がたまたま彼氏の心臓にマッチングした場合、

 即座に移植手術が受けられる事になる。

 どうだい?悪い条件じゃないだろう。」


真の意味で人を殺すのは、心臓病でもBSでもなく絶望なのだ。

逆に言えば、絶望さえしなれば、人は絶対に死ぬことは無い。


結局、望愛はそのメフィストフェレスに言われるがまま、

悪魔の契約書にサインをした。


今から二年前の出来事だった。


      ・

      ・

      ・


夢も見ない泥のように深い眠りから目覚めると、

昨日一夜を共にした男は目を開けて死んでいた。


しっかり握られた望愛の右手と、

死後硬直で固まり始めた彼の左手。


脳死から蘇りフラッシュバックを起こした脳が、

今の記憶と二年前の記憶を勝手に繋げ、

彼のみが死んで望愛が生き返るという、最悪の結末を編集する。


望愛は固まったままの相手の左手を無理やり引きはがし、

ベッド脇に転がっていたワインボトルの破片を拾い上げた。

そのまま喉に当て、それから・・・・


寸前で思い留まり、ワインボトルを床に投げ捨てる。

ガシャンと派手な音がして、

割れていたワインボトルが更に粉々になった。


望愛は激しく頭を振ってさっきのイメージを振り払うと、

取りあえず洗面台に向かい頭から水を浴びた。


BSを立て続けに服用すると、

稀にさっきの様な記憶障害を引き起こす事があるのだ。


望愛は改めてベッドに横たわった男を眺めてみた。

目を空けたまま無様に死んでいるのは、

彼とは似ても似つかない貧相な中年男。

違う、この男は私のロミオなんかじゃない。


本来なら真っ先にフロントに連絡し、

緊急隊員を呼ぶべきであるが、今の望愛にその余裕はない。


望愛はスマフォを取り出すと、いつものサイトにアクセスした。

そこに映し出されたのは、ある病室のリアルタイム動画。

二年前に人工心臓をつながれた彼氏が、

ひたすら眠り続ける場所だ。


ベッドに身を横たえた彼氏の表情は、

二年前に眠りに付いた時と同様、一見穏やかに見える。

ただ心臓を摘出した彼氏の肉体は、定期的なメンテナンスと、

24時間の監視を必要とする為、望愛がその病院に払う医療費は、

月額でサラリーマンの年収に匹敵した。


ただ望愛は自らの行為を全く悔いていなかった。

今の世は望愛にとって地獄だが、

彼の存在はそこに垂らされた一縷の蜘蛛の糸だからだ。


望愛は改めてスマフォに浮かぶ彼の画像を見つめた。


望愛がこの二年ですっかり汚れきったのに対し、

彼の時間は二年前で停止していた。

それでも全然構わない。

もし彼と生きて再会出来たのなら、

私はこの苦しかった望愛の時代の記憶を一切忘れてみせるだろう。


ジュリエットの仕事で彼のマッチング心臓を手に入れたら、

望愛の名を捨て、元の名前に戻す。

そして彼の手術が終わった後、手を繋いだまま一緒の朝を迎えて、

二年前のあの夜の続きをやり直すのだ。

その希望が今の望愛の全てだった。


少年の面影を残したまま、穏やかに眠り続ける彼。


ああ、私の愛、私の未来、私の存在証明レゾンデートル

そして私のたった一人のロミオ。


私は朝を待つジュリエット、

どんなに甘くて悲しい痛みにも耐えてみせる。


そして、いつか貴方のハート(心臓)を射止める為なら、

私は全人類だって殺してみせる。


そう、ジュリエットはわがままだった。


ここで初めて書いた物語です。

あんまり流行りの要素は無いですが、良かったら読んでみてください。

ヒロインは同じ名前の知り合いがモデルです(笑)

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