テセウスの身体
半年前に結婚したT氏がいた。まだ若く精神的にも肉体的にも健康な青年だった。
彼の妻はそんな健康的で明るい爽やかなT氏に惚れ込んでいた。
しかし、不幸な事にT氏は事故にあい四度に及ぶ手術と三ヶ月以上の入院を余儀なくされてしまった。三ヶ月前の話である。
今朝、病院からようやく夫の意識が戻ったと連絡が妻の元に入り、身支度を殆どせずに車に飛び乗り夫のいる病室へと向かった。
夫の全身にまかれていた包帯は全て取り除かれて、三ヶ月ぶりに見た夫の顔はまさしく愛する夫の顔だった。しかし妻はどことなく違和感を感じざるを得なかった。
「あなた、顔が固いわ。まだ調子が悪いのかしら?」
「そんなことはないさ。寧ろ前よりも調子が良くなった気分だよ」
「ほんとうに? 私にはいつもとちがってみえるわ」
「まぁ、物理的に考えればそうかもしれない」
そういって夫は自分の両方の手首を交互に回しながら手のひらと手の甲を見ていた。
「どういう事?」
「実は事故にあった時、燃料タンクに引火して全身の皮膚が焼けてしまったようなんだよ」
「あら、それは大変ね」
「随分と軽く言うじゃないか」
「だって、一昔前なら大事でしょうけど、今なら大丈夫なんでしょ? ほら、あれよあれ」
「クローン細胞。皮膚なら皮膚、心臓なら心臓の細胞として培養して移植するんだよ」
「そう、それ。昔は人様の身体を貰わないといけなかったけど、今はそうじゃないのでしょう?」
「そうだ」
「なら、全身の皮膚がダメになった所でそれを使えば大丈夫何でしょう? 何を心配する必要があるのかしら?」
「もし救急車が間に合わなかったら僕は死んでたんだぞ?」
「けど、こうしてあなたは生きているし。私と会話しているじゃない。もうそれが分かっているのだから、死んだかもしれない過去の事を気にする必要はあるのかしら?」
「まぁ、それもそうかもしれない」
「けど私はそう外面的な事を言っているわけではないのよ?」
そう言って妻は夫の手を両手で包み込んだ。
「どういうことだい?」
「あなたの声も少し違う気がするの。ほんのわずかに」
「それこそ気のせいだよ。まぁ、君の言う通りかもしれない」
夫は喉元を右手でさすりながら言った。喉元をさする手の動きがどことなくぎこちなく見えた。
「事故にあった時ね、僕は車の中にいたんだ。熱くなった車内で呼吸するのは危険だと知ってはいたんだけどね……」
「吸ってしまったのね?」
「そう。もう思わず思いっきりにね。炎を吸い込んだようなものだよ、おかげで喉や肺が大火傷さ。物凄く痛かったし声もでなかったよ」
「けどあなたこうして話しているじゃない」
「そりゃ手術をしたからさ。僕の呼吸器官はクローン細胞で造られた肺が移植されたんだよ」
「まぁ、それは大変ね。新しい肺の使い心地はいかがかしら?」
「まぁ悪くないかな? 違和感は何も感じないよ」
「あなた、他にも気になる事があるの」
「なんだい?」
「なんというか、その。あなたの動きが少しぎこちないの」
「リハビリが足りていないのかもしれないね。まぁリハビリが終えても以前とは少しだけ違うのかもしれないけど」
「どういうこと?」
「僕はトラックと正面衝突したものだから、車がつぶされちゃってね。車の破片に刺さるように押しつぶされたものだから骨も筋肉もズタズタになってね」
「とても、そうには見えないんだけど」
「本当に科学は素晴らしい。文字通り生まれ変わった気分だよ。今どき臓器移植の必要な患者が何年も誰かが死ぬのを待つ必要は無いんだ、素晴らしい」
「本当よ。最初トラックに轢かれたって聞いた時にはもう……」
「本当、お前だけには苦労させるわけにはいかないよ」
「それで、本当に身体は大丈夫なの? 皮膚も骨も肺も全部クローン細胞に入れ替えたのでしょう?」
「ああ、素晴らしい気分だよ。実は黙っていたんだが脂肪肝を患っていてな」
「やっぱり! あれほどお酒は程々にしてって言ったじゃない!」
「今回ので肝臓も潰れたからそれも新しく入れ替えたんだよ。これで酒が呑めるな」
「もう! 使い捨てのコップじゃないんだから、折角新しい肝臓を手に入れたのだから大事にして下さいな」
「ま、都合が良い時に事故に合える程、人生は甘くないしな」
「また、そんな事を言って!」
「いいんだよ……医者ですら僕は死んだものかと思っていたんだ」
これまでヒョウヒョウとしていた夫の表情が曇り始めた。
「あなた?」
「正直、事故にあった直後は意識が朦朧としていてな。自分は死ぬ物と思っていたのだ」
「けどあなたは生きているじゃない」
「だから問題なんだ」
「どういう事? 死んだほうがよかったとでもいいたいの?」
「考えようによっては」
トントン。と何者かが病室のドアを叩いていた。
夫は誰が叩いているのか察しがついた様子で深くため息を吐いていた。
「どうぞ」
と力無い声で夫が言うとドアが開かれ出てきたのは。
紛れも無くT氏の姿があった。
病室のベッドに寝ている男もT氏であるし、先ほど入ってきた男性もまたT氏であった。ただ着ていものが入院服かスーツかの違いのだけだ。
妻はベッドに寝ている方の夫に問いかけた。
「あなた、あの方は誰?」
「君の夫のTだ」
「ではあなたは誰なの?」
「僕もTだよ、そう。僕もTではあるはずなんだ」
と行って、ベッドにいる方のT氏はうなだれてしまった。
「続きは僕から説明させて貰うよ」
とスーツ姿のT氏が言う。
「彼は僕のクローンなんだよ。僕が死んだら君が一人になってしまうからね。死ぬ前に僕の脳もコピーしてもらっておいたんだ」
「けど、僕には父さんと母さんと一緒に過ごしていた子供の頃の記憶も、妻と始めてデートに行った記憶もあるんだ……」
「当然だ。僕達夫婦にとっては大事な記憶だからね。それを忘れてしまってには傷つける事になってしまうだろう。君も僕なのだからそれは僕が言わなくても分かるだろう。僕よ」
ベッドに寝ているT氏はスーツ姿のT氏に答える事は無かった。
スーツ姿のT氏は、ベッドの横に座っていた妻に肩を手を回した。
「さぁ、こうして僕は元気になった事だし帰ろうか!」
「ちょっとまってあなた! 夫はどうなるの?」
「ん? 君は何を言っているんだい? 君の夫は僕で今、君の前にいるじゃないか」
「あそこにいるのも貴方なのよね? 私の夫だよね?」
「ま、こうしよう。確かに彼も僕だ。けど僕は奇跡的に生きていたんだ。そこにいる僕は生まれた時はたしかに僕は死んでいたのだけど、どういうわけか生き返ってしまったんだ。僕に悪いけどね」
「あなたが何を行ってるのか分からなくなってきたわ……」
「僕が言いたいのはね。君の夫は僕で。あそこのベッドに寝ている僕は夫じゃないって事なんだよ。あそこの僕の事は忘れて家に帰ろうじゃないか」
「けど、あの人もあなたなのでしょう? 夫を一人にできないわ」
「じゃ、僕を一人にするのかい?」
「あなた、ちょっとまってね。そこの方のあなたも少し待ってちょうだい」
妻は携帯を取り出し、ヒソヒソと声を抑えながらどこかにかけていた。
十五分程すると、病室に一人の女が訪れてきた。
その姿を見たベッドで寝ているT氏とスーツ姿のT氏は眼を見開いて女を見た後、妻を見た。
「何を驚いてるのかしら?」
ベッドで寝ているT氏が言う。
「彼女はどう見てもお前じゃないか。全く同じ服で、髪型も同じ。見分けがつかないではないか」
「それは良かった」
と妻は笑顔で言った。訪れてきた女は喋る事はなくじっと様子を見ていた。
「私は夫と共に帰ります。彼女は紛れも無く私です。貴方と同じ立場にある私ですので私よりも理解のある良き妻になれる事でしょう」
そう言って、妻は訪れてきた女を病室に置いて、スーツ姿のT氏と共に病室を後にした。
「しかし、私が知らないうちにクローンを造っていたなんて、よほどの事が無いと生きている内に自分のクローンを造る事は法律では許されていないはずだぞ?」
「あら? 彼女は別に私のクローンじゃないわよ?」
「どういう事だ?」
「彼女は私の妹よ。双子のね。あなたには黙ってたけど妹も貴方の事が好きで、貴方が知らないうちに二人で喧嘩していたのよ」
「それは知らなかった」
「まぁ、良いじゃないの。妹も貴方の妻になれたのだから」
「では僕は君たち姉妹の夫になったという事かい?」
「いいえ。貴方は私の夫よ」
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