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第5話 『消えろ、消えろ、つかの間の灯火』

 それから僕とゆかりさんはちょくちょく話すようになった。と言っても教室以外でだが。教室の彼女には、陰気な僕とは違うちゃんとした居場所があって、それはくだらないかもしれないけれど守るべきものなんだとも思えた。


 だから僕たちはクラスメートにほとんど見られることのない、学校の帰り道に色々なことを話した。読書の話から広がり、映画や音楽、もっぱら趣味の話ばかりだったけれど。

 彼女の守備範囲は広く、かつマニアックで、少しばかり時代がかっていて古かった。

 特に音楽に顕著に感じられたのだが、およそ十代の女の子とは思えないような洋楽ロックや、邦楽なら渋谷系とかまでをも熱っぽく語りだす。家族の影響なのだろうかといぶかしんだが、彼女は一人っ子で両親は無趣味だとのことだった。僕は彼女が誰から影響を受けていたのかを考えるのはやめることにした。


 ゆかりさんが学校の中年教師と付き合っている……なんて心無い噂が立っていたが、僕はそれを一切信じなかった。誰かが彼女を貶めようと流した虐めみたいなもんだと考えて、彼女に詮索することもなかった。実のところ、それを訪ねて彼女との関係が壊れてしまうのが怖かっただけなのだ。


 僕にとって彼女との会話は、狭い教室の息苦しさから逃れられる至福のひとときだった。

 ともすればそれにすがりつき、どこまでも落ちていってしまいそうになる。

 けれどそれはまやかしだ。

 心の中のひび割れた穴。心臓を握りつぶされるかのようなギリギリときしみをあげるその孤独な穴は、本来ひとりで埋め合わせるべきものだ。それを他人によってうるおい埋め合わせてもらおうとするのは卑怯以外の何者でもない。

 そう考えているのに……ゆかりさんとのひとときは僕の決意を揺るがせた。甘美な誘惑にほだされてしまう。

 たしかスタンダールの恋愛論の中で、結晶がこり固まって、本来のものの形さえ見えなくなることを結晶作用(クリスタリザシオン)と例えていた。すでにいびつな結晶作用に、僕の心はとらわれていたに違いない。

 ようするに僕は、彼女に恋をしていた。



 だけれども人の想いは届かないものなのだ。

 その事件が起こったとき、僕とゆかりさんは学校の屋上にいた。コンクリートのうちっぱなしの灰色の床は春の夕闇に染まり、いつにもまして寒々しく感じられる。

 人の胸丈ほどもある古びた鉄柵は厚く塗りなおされていたが、それでも所々錆び付いていて、その姿が灰色の床に長々と影を落とす。


 ゆかりさんはその鉄柵の向こう側にいた。あと一歩踏み出せば、屋上から落ちてしまう危なげな場所に。

 彼女の表情は微笑をかたち作っていた。だけれど、それはまるで能面のような、あるいは大理石の彫刻のような、温度の通っていない綺麗さだった。その張りつめた微笑も崩れていく。


「もう疲れちゃった……」


 ゆかりさんは、ぽつりとそう呟いた。その言葉は、暮れなずむ校舎に吸いこまれそうに消えていく。


「私……ずっと暗い奴とか危ない奴って言われてきたの……。だから笑うようにしたわ。必死で笑ったのよ。そしたら今度はうすら笑いを浮かべて気持ち悪いって言われたの……。いったい私どうすればいいの!?」


 彼女はそう言うと、ギュッと冷たい鉄柵を握りしめた。その手はわずかに震えていた。

 心のこわばりをほぐすのが笑いだといったのは哲学者のベルクソンだったか。だがベルクソンも驚きだ。笑いの感情と笑顔の表情が乖離した彼女の世界は、いったいどれほどの苦痛に苛まれていたのか――


 なのに僕は一番身近にいたにもかかわらず、決して彼女を真摯に見ることもなく気づくこともなく、自分の作った妄想の中だけで満足していたのだ。

 僕はあれほど忌み嫌っていた恋愛感情を免罪符にして、自分の感情全てが正しいと勘違いして、平気で人を傷つけていたんじゃないのか。見るべきものを見逃して、自分の妄想を都合よく押しつけていたんじゃないのか。


 人の想いは届かないものなのだ。僕は自分の心のことばかり気にしていて、彼女の悲痛な想いを決して鑑みることさえなかったのだから――

 彼女の想いは決して届かないものだったのだ。そうしてしまっていたのは僕自身の過ちに思えた。

 ゆかりさんは、諦観の念を浮かべ誰にともなく呟く。


「誰も私のこと愛してくれないの……」


 その言葉は僕の心を強く締め付ける。

 僕が――僕が――

 だが今更なにができるというのだろうか。僕は声にならない嗚咽を吐き出そうと虚しくもがいていた。


「やさしいね、忍くんは……」


 ゆかりさんはほんの少しの涙を流すことさえなく困ったように微笑むと、囁くように最後の言葉を投げかけてくれた。


「あなたとはもっと早く会いたかった――」


 そして、それは一瞬だった。

 彼女は握り締めていた手すりを放すと、空を仰ぎ見るように背中から地面に落ちていった。

 僕は、言葉にならないなにかを叫んでいた。混乱し、動揺し、後悔と自己嫌悪がない交ぜとなった感情がぐるぐると回り、灰色のコンクリートの床に膝をついていた。

 ゆかりさんが飛び降りた下の方から、悲鳴と怒号が飛び交う声が聞こえてくる。


「誰か落ちたぞ!?」

「まだ息がある! 早く救急車を呼ぶんだ!」


 なんで、なんでなんだよ! なぜゆかりさんが飛び降りなきゃいけなかったんだ――

 僕は彼女が飛び降りた辺りの鉄柵までよろよろとかけ寄ると、その手すりを握りつぶさんばかりに掴んだ。

 突如その握っていた手すりから湯気のような煙が立ちのぼり、つかんでいた拳が激しい痛みに襲われる。鉄柵を見やると、僕がつかんでいた場所だけがみごとに消え失せてしまっていた。

 痛む手のひらをゆっくりと開いてみると、そこにはゆかりさんにあったのとそっくり同じような、あざのようなものが浮かんでいた。

 それはまるで「消」という文字のように見えた――

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