第12話 傘
土砂降りの雨が僕らに叩きつけるなか、横たわる日野を守るようにゆかりさんは彼におおいかぶさっていた。彼は歩けないのよと叫んで。
僕は昨日のゆかりさんの言葉を思い返していた。
日野君がなぜ階段の段数を覚えているのか、そして常に傘を持っているのか。その理由を知ればきっと君もこの街を滅ぼしたいと思うはずよ――という言葉を。
日野は情けなさそうな表情で口の端をゆがませると、笑いながら肯定した。
「ははは、その通りさ。僕は一人じゃ歩くこともできないんだよ。」
ゆっくりと日野は自分の過去を語り始めた。
「僕は県では5本の指に入る高跳び選手だった。平城高、その私立も学費免除の推薦入学で入ったのさ。だけど、あの日以来すべてが変わった」
日野は思い出していた。猛スピードを出す乗用車が子犬をひき殺しそうになっていて、とっさに助けに飛びこんだ、あの日の事故のことを。
「飛べないジャンパーはいらないと、学費免除は打ち切られた。私立の学費ってのはバカにならなくてね。両親は僕をさげすむような目で見始めた。それどころか、友人も僕を裏切り去っていったんだ……」
日野の声は打ち震えていた。
「だけど、それでも僕は必死に生きた……。だがある日、車イスで通院する僕の上に雨が降ってきたのさ……。びしょ濡れになった僕に、傘一本差し出してくれる人さえいなかった! そのとき僕は誓ったんだ――この街を滅ぼそうって!」
日野の声は悲痛な叫びに変わっていた。それは彼にとってどれほどの苦痛だったのだろう。純粋な者だけが持つことができるという『字』を手にして、彼はいったいどんな想いでそれを抱えていたのだろう。彼がこの街を滅ぼそうと思ったのは、僕と違って純粋過ぎたからではないのだろうか。
しかし僕は日野に言わなければいけなかった。
「だけど、それでもあなたは人を信じるべきだったんだ。せめて彼女だけでも……。あなたの孤独を知っても、僕はあなたを許せない」
僕の感情とまるで呼応しているかのように、右手の字から煙のようなものがしゅるしゅると噴き出していた。
日野はひどく顔を歪ませている。彼に覆いかぶさるゆかりさんは、涙ぐみ、すがりつくような目で僕を見つめると懇願するように叫んだ。
「やめて、私なんでもするから! あなたのこと愛してあげるから、日野君を殺さないで!」
その言葉はあまりにつらかった。僕は悄然と肩を落とす。日野はゆかりさんのその献身に言葉を失っていた。彼は先ほどまでと違って決意の表情を浮かべると、ゆかりさんを突き飛ばす。
「俺が間違っていたのか……。だが、俺は君の字で消されはしない。見るがいいさ」
日野は最後の力を振りしぼると、自らの身体に『火』の字をプリントした。またたく間に火柱が吹き上がり、業火が彼の身体をむしばむ。彼は自ら死ぬことを選んだのだ。
だが僕はとっさにその炎の中に飛び込んでいた。業火に焼かれる痛みに耐えながら、自らの手のひらをかかげ彼に力の限りの字を吹き込んだ。
僕のすべてを消す力によって、火は消えさっていた。決して彼の罪までが消えるわけではないが。
日野は信じられぬという表情で僕を見つめた。
「なぜ、なぜ助けた!?」
僕は答えられなかった。
なぜ自らの危険をかえりみず、彼を助けたのだろう。それは自分自身にもわからないことだった。だけれども、人は何かを考えて助けるわけではないのかもしれない。彼がかつて轢かれそうになっていた子犬を助けたように……。
「せめて、罪をつぐない、彼女を愛してあげてください」
ゆかりさんは日野が取り落とした傘を拾って広げると、降り注ぐ雨から彼を守るようにかかげた。一本の傘が二人を包んでいた。
僕はうつむくと背を向けて、屋上からおりる階段へと向かう。僕は雨が降っていて少しだけ助かったと思った。雨が僕の顔に降り注ぐせいで、僕の瞳から流れるものを、二人に知られることなく隠せたのだから。
そのあとには、日野の嗚咽だけが屋上に響き渡っていた。




