第11話 『永遠のチャンピオン』
午後6時に高校の屋上で待つ日野と会うために、僕は学校へと全力で駆けた。
どこもかしこも火が回り、けたたましいサイレンと悲鳴と怒号がないまぜに聞こえてくる。
この街を滅ぼすという日野の提案は、僕が想像していたよりずっと重く、罪深い行為だった。現実に起こってみれば、それはすべての人々の幸せを奪う許されざることなのに。
でも彼はそれを覚悟のうえで行おうとしたのだ。いったいなぜ、彼はそうまでしてこの街を憎んだのか?
ゆかりさんは、彼が階段の段数を覚えていること、傘を常に持っている理由を知れば、僕も彼に共感できるはずだと言っていた。皆目見当もつかないが、僕はその理由を確認したかった。
心臓がはり裂けんばかりに息を荒げて走り、僕はようやく人影のない高校にたどり着く。暮れなずむ春の日は、ゆかりさんが飛び降りた日と同じように校舎を照らし、暗い影を作る。僕はその影に飛び込むように玄関をつき抜け、階段を駆け上がる。
まるで狭き門のように、最後の扉をたたき開けた。
その屋上の闇のように黒ずんだ床に、ゆかりさんが倒れていた。
「ゆかりさん!」
かけ寄って彼女を抱き起こす。消え去りそうな浅い息と、だらりと降ろされた腕、その憔悴しきった姿はやせた彼女をさらにか細く見せた。
倒れたゆかりさんを見下ろすように、その先には日野がいた。学生服にコート姿。やはり傘を杖代わりにして、椅子に深々と腰かけている。僕は彼に詰問する。
「ゆかりさんになにをした!?」
「ゆかりは『字』を使ったのさ……」
こんなになるまで、いったいどこにどうやって使ったっていうんだ……!? どれほど使えばこんなになるんだ? その疑問に答えるように日野は叫ぶ。
「この街のすべての電気、電話回線は停止した……。もう誰にも止められない。そしてこの街は浄火に焼かれ、神のいかずちによって滅びるのさ!」
まさか……!? あの日、ゆかりさんが飛び降りた屋上、その床は灰色だった。だが今では床は黒ずんで、いや、手すりも何もかも黒く染まっていた。僕は屋上から外に目をやる。校庭もその先に続く建物たちも、すべて真っ黒に塗りつぶされているように見えた。
まさか、そんなことができるのか……? 彼らは、この街中を覆うほどの巨大な『電』の字を描いたのだ。
『字』の力によるものか、あたり一面から煙のようなものが吹き上がり、バチバチと電気の塊がはじけるように空気が鳴っている。
全力で駆けたせいで噴き出ていた汗は、悪寒に変っていた。日野は、緊張した面持ちで食いしばるように笑う。
「いまや、恋も涙も漫画やテレビが教えてくれる。そして人は現実の他人のためには涙ひとつ流さない。そんな偽りの恋も涙もなくなればいい! ゆかりはそのための犠牲なんだよ!」
「ゆかりさんはあなたのためなら、死んだっていいと泣いていた。なのにあなたは彼女の涙さえ偽りだっていうのか!?」
怒気を含んだ僕の質問に、日野は答えなかった。
「もう僕は彼女の涙を見たくない。だからあなたを許さない」
僕は決意した。あの日、ゆかりさんになにもできなかったかわりに、せめてもう彼女の微笑みを失わせるわけにはいかないと。
その言葉を聞いて日野は失意の念をあらわにする。
「君も僕を裏切るのか……!? ならばこの街と一緒に滅びるがいい!」
彼は座ったままで傘を頭上高く掲げると、それと呼応するように空気が破裂しそうに鳴き出す。ゆかりさんが描いた『電』の字が、この街中の電気を集めて力場を作りだし、上空にこの街を滅ぼすに十分なほど巨大ないかずちを生み出す。
まるで神話の中に出てくる神の雷のようなこの攻撃を止める術はない……それどころか、街の火の海だって簡単に消すことは出来ないのだ。
日野が傘を振り下ろすと同時に、そのいかづちがわななきこの街に落ちる……。
轟音が耳をつんざく。あたりを覆いつくすほどの霧と煙が巻き上がり、視界を遮っている。
日野は、すべてが終わったことに肩の荷を下ろし、椅子の背にもたれた。
その彼の靴に、ぽつりとひとつ、雨粒が落ちた。
「なぜ、雨が?」
日野はそう独り言つ。その雨粒はパラパラと音を立て始め、あっという間に土砂降りに変わっていった。あたりを埋め尽くしていた霧と煙は、冷たい雨に降りはらわれて消えていく。
そこには僕――黒木忍と、日野が向かい合っていた。
僕の右手の『消』の字からは、煙のようなものがじゅうじゅうと唸りをあげて噴き出している。あまりに無理をしたせいで、腕は激しく痙攣しており、苦しくて呻きそうになる。しかし、
「とっさに考えついたわりには思った以上にうまくいったよ。これで火事も消える。誰も傷つかずにすむ」
日野は悟ったのか、屋上の外を見やる。あたり一面を塗りつぶしていた『字』は変わらずに存在している。だがその一部が消えていた。
そう、僕はゆかりさんの描いた『電』の字の下部分を消し、『雨』という漢字に書き換えたのだ――
「まさか、『字』にこんな使い方があったとはね……」
彼はそういうと、手にした傘を僕に突きつける。
「だが僕を殺してどうする? また友達のいない日常に戻るのか!? 僕を殺したからって、ゆかりが君を好きになると思うのか? 君は逃げているんだよ。白髪を染めて、普通の人間の振りをして」
彼の一言一言は、僕の心を打ち砕くには充分だった。彼は初めて会った時から、ずっと僕の想いを見透かしていた。
「止められたはずの君こそが、ゆかりを自殺に追い込んだんだよ!」
日野は右手を掲げると、『火』の字を僕に向けて噴き出させる。爆ぜた炎が僕に襲いかかる。
だが、その炎が僕に届くことはなかった。
彼と同じように僕は右手の『消』の字を噴き出し叩きつける。その力の衝撃で、彼は吹き飛ばされ、椅子ごと床に叩きつけられた。
「あなたこそ逃げているんじゃないのか!」
日野が僕を見透かせるのは、彼にも僕と同じ想いがあったからなのではないのか? 彼は倒れ込んだまま、諦観の表情を浮かべていた。その肢体を雨が叩きつけていく。僕は初めて彼の中に弱さを見たような気がした。だが、彼の罪は許されるものではない。
僕は倒れた彼に一歩一歩近づく。右手の字から煙のような禍々(まがまが)しい力をほとばしらせながら。
その僕と日野の間に、意識を取り戻したゆかりさんが身体を引きずるように割って入ってくる。彼女は僕から日野を守るように、彼に覆いかぶさる。
「やめて、彼を殺さないで!」
それに続けて、彼女は僕に衝撃を与える一言を叫んだ。
「彼は歩けないのよ!」と――




