中編
最後の授業が高らかなチャイムと共に終わると、成幸は深く溜息を吐いて机に身体を預ける。
「よっしゃーっ、ふははははっ、終わったぜこの野郎!」
どこかで悪友が歓声を上げているが、それに反応する気力もない。むしろ魂が口から抜けかけている気さえする。
高橋の嫌味たらたらな授業を受けたダメージはそれだけ大きかったということだ。今考えてもむかっ腹が立つ。
五限目にはぎりぎりセーフで間に合ったものの、高橋はここぞとばかりに成幸を指名してきたのだ。
担当教師はともかく、数学自体は好きだ。だから、成幸も最初の内はすらすらと答えていたのだが、高橋はそれを見てわざと難しい問題を出すという姑息な手を使ってきた。
そして答えに詰まった成幸を、ふふんと鼻で笑ってくれやがったのだ。
『こんな問題も応えられないのかね? まったく、これだから不良は……』
『嫌味言ってる暇があるなら、とっとと解説してくれませんかねぇ? 馬鹿なオレにもわかるようにな』
『ひ……っ、い、い、いいだろう。お、大人しく拝聴したまえよ』
引き攣った笑顔で凄むと、高端は小さく悲鳴を上げて、あたふたと解説を始めた。こいつは教師なのに、学習能力というものがないのだろうか。毎度のように喧嘩を売っては、買った成幸に脅えてを繰り返している。
──今度喧嘩を売って来た時は、二度とそんな気が起きないように叩き潰すべきか?
ぶっそうなこと考えながら帰り支度をしていると、横から肩を叩かれる。
目を向ければ少し下に、にっかりと笑う少女──佐々木歩夢がいた。
ベリーショートと、生き生きと輝いている大きな瞳。活発な彼女はクラスでも遠巻きにされがちな成幸に、物おじせずに近づいてくる唯一の女子だ。
「や! 今日は災難だったね。タカミにいびられちゃってさ」
「まぁな。っていうかよ、タカミってなんだ? 高橋のことか?」
「あはっ、知らない? 高橋と嫌味をかけて、タカミってアタシ達の間では呼ばれてんだよ?」
笑いを含んだ言葉に、成幸は噴き出した。
「はははっ、そいつはいいな! 発案者誰だよ、天才だろ」
「えへん、それは目の前にいる歩夢ちゃんです! ふふふ、心の底から褒めるがいいよ」
「おう。でかしたぞ、歩夢チャン」
ふざけて胸を張った歩夢の頭を、成幸はぐしゃぐしゃに乱してやる。
「ぎゃあ、アタシのセットが乱れるーっ」
「乱れる髪型じゃねぇだろ」
悲鳴を上げる彼女に構わず、更にボサボサにしてやると、成幸の胸は少しだけすっとした。他の女子にこんなことをしようとは思わないのだが、歩夢だけは他の女子とは違う気安さがあり、成幸も自然と構うことが多いのだ。女と意識することがないせいだろうか。
「成幸クーン、そろそろ帰ろうぜ? それとも歩夢チャンと二人で帰る? ならオレは遠慮するけど?」
楽しげな声に我に返れば、いつの間に来たのか、しゃがんだ真がニマニマした顔を机の上に出していた。
「馬―鹿、なにが遠慮だよ。帰りにゲーセン寄るって言ってただろうが。お前とはまだ勝負ついてないんだからよ。──つーわけで、じゃあな、佐々木」
「また明日! 言っとくけど、この仕打ちは忘れないからね!」
口を尖がらせつつも歩夢が手を振ってくる。それを口端で笑うとは、二人は教室を出た。
ゲームセンターを出ると、真っ黒な空にぼやけた星が数個見えた。吐く息もほんのりと白く、二人は寒さに身を震わせる。
「五月でもけっこう寒いな。なぁ、コンビニ寄ってこうぜ」
「おっ、いいねー。オレ肉まん食いたいわ。今回の罰ゲームは肉まん奢りでよろしく!」
「ちっ、仕方ねぇな」
今回の対戦で十一勝十三敗。負けが込んできている成幸としては悔しいばかりだ。
「カーゲームもそろそろ飽きたし、今度はさ、意外性を取って、ユーフォーキャッチャーにしてみない?」
「はぁ? 人形なんか取ってどうすんだよ?」
「いいじゃん、歩夢チャンにあげればさ」
ニマニマした顔で彼女の名前を出す悪友に、成幸は肩を竦める。
「あいつが人形なんか受け取るかねぇ? 菓子の方が喜びそうな気がする」
「ボーイッシュだけどさ、可愛い子じゃん。彼女だって女の子だし、普通に喜ぶんじゃない?」
柔らかく笑う真の横顔を見て、成幸はうっすらと察する。
──こいつ、佐々木のことが好きなのか?
考えてみれば、歩夢と話している時は真が絡んでくることが多いような気がする。
「真、もしかしてお前──」
それを聞こうとした時だった。ふいに、その横顔が険しくなる。
「親父……?」
「おい?」
突然の変化に、どうしたのかと声をかけると、真ははっとした様子を見せて、苦笑した。
「悪い、成幸。オレちょっと用事思い出したわ。奢りはまた今度でよろしく!」
「あぁ、そりゃあいいけどよ」
「本当悪い。じゃあな!」
それだけ言うと、真は駆けていった。
成幸は怪訝な顔で腕を組む。
「どうしたんだ、あいつ?」
なんとなく悪友が見ていた辺りに視線を向けてみる。しかし、そこには喫茶店と行きかう人がいるばかりで、成幸には結局なにも見つけられなかった。
翌日、目覚ましと共に目を覚ました成幸は、馬鹿でかい欠伸をしながらリビングに入った。
テーブルにおかずを並べていた母が振り返る。
「おはよう成幸、テレビ付けてちょうだい」
「へーへー。ったく、さっそく使うなよな」
成幸は面倒くさそうにリモコンを手に取る。
カチカチと操作して、いつも見ている番組に合わせると、丁度ニュースが流れていた。
《次の話題は、昨夜遅くに速報で入った事件です。あの大手、安藤グループの社長が、会社の金を使い込んでいたことが発覚しました。社長は海外へ逃亡した模様です》
「マジかよ……」
それは真の父親の会社だった。実名で流れているのは悪友の父親の名前で、成幸は束の間茫然とした。もしかして、真の様子がおかしかったのはこれが原因なのだろうか?
成幸は二階に駆け上がると、携帯を開いた。動揺のあまりに震える手で真のアドレスを呼び出す。
しかし、コールが始まる前に人工音声が繋がらないことを伝えてきた。
「くそっ! だったら直接家に……っ」
昨日、『死に日和だ』と笑った真が脳裏に浮かぶと、じっとしてはいられなかった。
一階に駆け戻った成幸は、靴を履くのももどかしくリビングに声を張り上げる。
「お袋、オレ朝飯いらねぇから!」
「ちょっと、成幸! どこ行くの!?」
母親の怒声を背中に受けながら、成幸はそのまま家を飛び出す。
全力で走れば、十分もかからずに真の自宅にはつくはずだ。
白い息を吐きながら、駆ける、駆ける、駆ける。
喉が寒さでひりついて、肺が冷たくなっても足は止めない。
歯を食いしばって、走る。
足を止めたら間に合わない気がしたのだ。悪友を永遠に失ってしまう、そんな予感がした。