大乘蓮華寶達問答報應沙門經第八 ~抜舌地獄
寶達頃前入一拔舌地獄……
宝達は抜舌地獄へやってきた。
広さは約300km、周囲は鉄の壁と鉄の網で囲まれている。
門のところに、体高70,000mもある巨大な鉄の犬がいて、口や眼から火を噴いていた。
内部では刃物が飛び回っており、猛火も燃え盛っている。
壁沿いには巨大な毒ヘビがその口を広げ、口や眼から噴出す炎で罪人を焼く。獄卒の夜叉たちも、巨大な犂で罪人の舌を、耕すように痛めつけている。
北門に500人ほどの罪人がいるのが見えた。魂も失わんばかりの悲惨な姿で、嫌がっている。みんな
「俺になんの罪があるっていうんですか……納得できーんっ!」
と嘆いている。
鉄の棒を手にした馬頭羅刹が、彼らを打ち、頭から削り取っていく。また餓鬼たちが来てその肉に噛み付き、飢えた犬たちが来て生きたまま露出した骨をかじる。
しかし風がふくと罪人はまたもと姿に戻り、馬頭羅刹の鉄カギに捕まえられる。
鉄カギで背を打たれれば胸の前に突き出し、その場所から炎が燃え上がる。そして体の中も外も焼け爛れていく。
獄卒の夜叉は罪人たちの舌を抜いていた。罪人たちの舌は布のように潰れて広くなりそれを鉄の犂が痛めつける。犂でえぐられたところは盛大に血が流れ、出血場所から火も燃えている。
倒れた罪人は容赦なく飛ぶ刃物が切り裂き、あらゆる苦痛が彼らに襲い掛かっている。
また鉄の斧で罪人たちの舌が切り取られ、投げ捨てられた舌肉が山のように詰まれていた。
こんな状態が、夜となく昼となく続き、一万回、生き死にを繰り返しても終わらない。
宝達は馬頭羅刹の一人に尋ねた。
「この沙門たちは、なんでこんな目に遭ってるんスか?」
「前世で、出家し戒律を受けておきながらそれを護らなかったんだ。こいつらは二枚舌を使ったり、他人を誹謗したりした。善良な人を辱めたり、ウソを使って陥れたりしたわけだ。その因縁でこの地獄に落ちたのさ。」
さて、仏教徒には五戒という基本ルールがありまして
1)不殺生 人間はもちろん、動物も、なるべくなら植物も命をとらない
2)不偸盜 他人のものはもちろん、与えられていないものは一切取らない
3)不邪淫 イチャつくのは結婚した相手とだけ、時間や場所にも気を使う
4)不妄語 ウソや悪口や愚痴など、悪影響のあることは言わない
5)不飲酒 アルコールなどの嗜好品を、楽しむだけの目的では摂取しない
というのが、仏教徒の最低限の目標になっています。「なんでもかんでも欲望のままやろうとすれば、後でその分だけ苦しくなる、だから欲望を自らの意思で止めとけば苦しさも少なくなる」っていう考え方でしょうか。
僧侶にはさらに「摩訶僧祇律」だの「四分律」などという250項目くらいの戒律が設定されていて、もっとキツい縛りになります。たとえば四分律での「不殺生」は、魚肉を一切食べてはいけないし、植物も自分で料理してはいけないことになってます。
他の人が料理したものは、これは「すでに死んでる」という解釈で、与えられたということは「それを食う因縁がある」として食ってもいいことになっていますが……。
(注:「そげんこつ言うなら、動物も料理になった時点ですでに死んでるんだから、わざわざその場で殺すとかでなければ食ってもいいんでねえの?」という考えが出そうですね。実はその種の意見が紀元前からすでにありまして(「三種の浄肉」説)。これに関する大論争が最古の部派(宗派)分裂の原因という説もあったり、論争の経緯もなかなか興味深いのですけども……長くなるしこの物語にはほとんど関係ないから省略します)
ともあれ、五戒はあくまで在家信者、つまり一般人の初心者用の戒律だったのでありました。
もっとも在家信者にとっては五戒といえども努力目標であり、完璧に実行はできずとも、やむを得ず破った場合には反省して告白し以降は気をつける、つまり懺悔することで許されることになっています。反省さえすれば、それ以上の罰はないそうです。
戦国大名の上杉謙信公も「私は仏教徒だが武将でもあるから、五戒のうち不殺生と不飲酒の2つはどうしても守れない」と公言していたように、完璧に守り続けるのはふつー困難だもんね。
筆者だって、害虫は殺虫剤で殺すし料理作って食ったりするし(殺生)、他人の書いた物語をこうやって勝手に再利用してるし(偸盜)、リアルのHは10年近くご無沙汰にしてもときどき妄想はしてそれを素人小説に書いてウェブ公開したりするし(邪淫)、そもそも雑文は不要な発言で愚痴が多く小説はたとえ実話脚色でも最終的には嘘話だし(妄語)、アルコールははめったに飲まないがテキストを書くときや朝の寝覚めか悪いときなど興奮用にホットチョコレートとかお茶とかたしなんでいるし(飲酒)。
つまり、五戒の精神をひとつも守ってねーという……。
ところで五戒のもう一段階上のものとして「八戒」というルールもありまして。「佛説斎經」や「佛説八關齋經」によると、あとの三つは
6)不犯齋 食事を必要最小限にし、日の出から正午までの間だけに摂る
7)不於高好床坐 柔らかい布団で寝たり安楽な椅子に座ったりしない
8)不習歌舞戲樂 化粧、着飾り、歌舞音曲、アロマなどの快楽を楽しまない
月に6回ほど、この八戒を、努力目標ではなく「肉食はダメ、エッチは妄想もダメ、酒も完全禁酒」など厳密に守って潔斎するというのが、ブッダの推奨する在家信者の修行だったようです。(『西遊記』の猪八戒は本当にこれを守ったんでしょうか?)
八戒による斎戒は、なんでも「体や衣服を淳灰(当時の石鹸?)で洗うと汚れが落ちて体が軽くなるのと同じ」で、たまに1日やると、汚れが落ちて心が軽くなるんだとか。
この他に、さらに十善戒というのもあります。が、これはどらかというと精神的な要素を重んじる「怒らない、貪らない、妬まない、愚痴らない、悪口を言わない、お世辞を言わない」といったような内容の努力目標で、五戒のうちから「不飲酒」が取り消されてあとの4つが残るだけだったりなど、数は多くとも八戒ほどの物理的な厳しさは感じられません。
八戒はもちろん五戒よりも現代人に向いてるんじゃないでしょうか。
もちろん五戒にしても八戒にしても十善戒にしても在家の修行でして、出家修行者には、250課目くらいの、罰則規定もある戒律がありました……「たとえ同性でもくすぐらない」とか「他人の家に入るときは帽子を脱ぐ」とか一ヶ月あたりの入浴回数の制限とか寝具や寝る場所の制限とか、すっげー細かいことまで決められていまして。
彼らには、在家信者とはレベルの違う厳しさが求められたわけです。それなのに……。
この馬頭羅刹の言ってるのは、「彼らは出家していながら、在家信者用の五戒にある不妄語戒さえ守らなかった」ということですね。喩えれば「大学生のくせに小学校の算数の問題の答案を間違えた」みたいな感じでしょうか。いや、たまにいますけども。
戒律というものは……「宗教は形式より精神が、戒律よりも信心が重要だ」というのも一面の事実なんですが、一定期間を戒律にしたがって生活することで理想的な精神や体質、生活パターンなどが自然に出来上がっていくという効果もありますから、一概に「戒律は形式主義」と切り捨ててしまうのもどうかとは思うわけです。
いじょ、ウンチクおわり。
さて馬頭羅刹は続けて、
「この罪人たちは千万劫の間、ここから出られない。その後に出られたとしても畜生道に生まれ、いいとこ夜行性の鳥かなにかになって、その声が嫌われる。何かの間違いで運良く人間に生まれたとしても、目も見えず耳も聞こえないまま一生を過ごすことになる。そのうえ息がとても臭く、人々から嫌われるやつになるのさ」
宝達菩薩はこれを聞き、悲しさのあまり口にした。
♪なんて悲しいことだ、量ることもできない邪見の道は
彼岸(悟りの世界)に泳ぎ渡り成仏するどころかこの世に戻る途中で溺れるなんて
どうやって生死を越えたらいいのかもわからなくなってきた
なんで解脱しかけた人が悪に染まってこんなことになるんだ
人として生まれるときにはこのことを忘れては大変だ
宝達菩薩はそうつぶやいて去って行った。
-つづく-