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大乘蓮華寶達問答報應沙門經第四 ~鉄銖洋銅潅口地獄

 寶達復入鐵銖洋銅潅口地獄云何名曰洋銅潅口地獄……


 宝達は鉄銖洋銅潅口地獄に入ってきた。

 ここの広さは約168km。周囲は鉄の城壁と鉄の網で囲まれている。

 炎が休み無く高く燃え上がっており、まるで火でできた洞穴みたいだ。溶けた火炎が、鉄の網を衣服代わりに着せられた罪人たちを煮立てている。

 中に池があるが、溜まっているのは水ではなく溶けた金属だ。それが水のように罪人たちの口の中に流れ込む。

 南の門に50人ほどの沙門がいた。目や口から炎が出ている。

「な、なんで我々がこんな酷いめに……責任者、出てこーい!」

 もちろん責任者は過去に因縁を作ってしまった自分なので、誰か他の人の所為と思ってるうちは地獄から出られない。つまりこれが「ごう」というものだ。

 縛られて転がされたまま、起き上がることもできない彼らを、馬頭羅刹は三叉のさすまたで突いてまわっている。するとさすまたの先から火炎が噴出し、罪人たちの心臓を焼く。

 見てると、すぐに死ぬのにすぐに生き返る。生き返ると鉄カギで舌を引っ掛けてひきずられ、鉄の棒で頭を叩き潰される。

また、刃物が飛び回っていて、彼らの肉を切り裂いている。

 馬頭羅刹は、流れる溶けた金属の河の中に沙門たちを追い込む。溶けた金属は彼らの口の中に流れ込み、体内で固まって、肉を破り飛び出してくる。

 口も目も鼻も耳も、体中のすべてが熱で焼け爛れる。溶けた金属は休み無く彼らを攻め続けている。

 こんな状態が、夜となく昼となく、いつまでも続いた。

 宝達は馬頭羅刹の一人に尋ねた。

「この沙門たちは、なんでこんな目に遭ってるんスか?」

 馬頭羅刹が答えるには、

「この坊づどもは前世で、出家し戒律を受けておきながら利益や名声を貪り、恥とも思わなかった。戒律を無視し、お布施をうける食べ物をもっともっとと貪ったり。派手な衣服を着たり。三宝さんぽう四諦したいも知ろうとせず、いくら利益と名声を得ても満ち足りないことがまるで海のようだった。その因縁で地獄に堕ち、千万劫の間、苦しむのだぁ」


 さて、お待ちかねのうんちくタイム。三宝/四諦についてですけと、今回はちょっと長いので、不要な方は飛ばして一気にラストシーンまで行っちゃってください。


 まず三宝とは……「仏/法/僧」のこと。現代風に表現すれば、「悟りを開いて目ざめた人/宇宙の因果法則/目ざめようと努力してる人たちの集団」のことで、仏教徒は最低限、これらに敬意を払わなければいけないとされています。僧にして三宝を知らなかったというのはさすがにひどい。


 で、四諦とは……「苦・集・滅・道」の4つの真理を悟ること。

 「諦」は、現代では言葉の意味が変化しちゃったんだけど、もともとは「あきらめて何もしない」という意味ではなく、本来は「明らめる=はっきりさせる=完全に理解する」というような意味だったようで。

 四諦について詳しく説明しようとするとメガバイト級のテキストが必要だし、だいいち筆者も悟りなど開いておらず「知ってはいるが、解っちゃいない」ので、ものすご~く通り一遍な説明だけすると。


 まず、ものごとにはすべて因縁(原因と結果)があるという前提から、


 諦) 生きていれば普通に苦しい、それが宇宙の法則だ、と悟ること

 じっ諦) 苦しさの原因は欲望に際限がなく満足を知らないから(業)、と悟ること

 めっ諦) 満足を知って欲望を制御すれば苦しさ(業)は減る、と悟ること

 どう諦) そこで、自分の欲望を制御し業をなくす方法を訓練すること


 この4つを完全にマスターして欲望や業を制御できるようになれば「目覚めた人」、すなわち仏陀や阿羅漢となるわけで、そうなるとたとえ焼き殺されようとも『心頭滅却、火もなお涼し』って感じで、何が起きてもあんまし苦痛を感じない人生を送れるんだとか。

 ただし「悟る」というのは「理屈を理解する」という意味ではなく、「体感して自然な感覚になってしまう」という意味なので、言葉の意味だけ頭で理解できてもそれは悟ったことにはならないのです。くぅっ……残念。

 完全に悟りを開くことを「解脱」と呼びますが、解脱することが本来の意味の「成仏」であり、仏僧……沙門とは本来、解脱した人生を送ることを目指して修行する人々だったわけですね。


 まあ「苦」諦だけでも悟れば「聖人君子みたいな人」くらいにはなれる。

 でもそのせいでか、ものの本などで、「苦諦:生きることは苦しいとあきらめる」だけを「仏教のすべて」みたいにクローズアップしてる例がけっこうありまして。それを読んで、

「『生きることは苦しいとあきらめろ』だなんて、ロクでもないマイナス思考だな~仏教は。それじゃ引きこもりになるしかないじゃん。『生きることを楽しめ』と主張してる道教や、『苦しみは神様からの給い物、その機会に自分を向上させろ』と言ってるキリスト教と比べたら、ほんとカスだわ」なんて誤解してしまう人もけっこういる。いや、筆者も昔、そんなふうに思ったんですが。


 これはもう、勧善懲悪痛快アクション映画の発端部分だけを見せられて、「これは悪が栄え善人が滅びる嫌な内容の作品です」と説明を受けたような曲解に近いわけで。

 ……そういやあったそうですな、戦時中の日本に、アメリカ映画の悪役の悪事のシーンだけを抜き出して編集し「アメリカ人とはこういう悪いやつらなのだ」と主張するプロパガンダ映画が。まぁ、似た発想のプロパガンダは近年にもあって、ネットで話題になったりもしてますが。


 それで思い出したのが、中村天風先生でしたか、ものすごい量の書物を読破した結果、「文字に書かれてることの九割は嘘」とかいう悟りを得られたという話。(記憶曖昧、ちがう人だったらゴメン)

 たしかにフィクションの小説はほとんどが嘘だけど、それ以外でも……。

 たとえば、筆者には何年か前に共著でウンチク本を3~4冊ほど書かせてもらう機会があったのですけれど、そのときにこれを「なるほどな」と思ったものでした……だって、書いた内容に自分で確かめたことはほとんどなくて(いちいち取材に行ってたら〆切りに間に合わない)、大部分は、他の本やネット、図書館などで数日のうちに仕入れた知識だったんですもん。

 「スクール水着の起源」とか「中世フランス文学の登場人物」とかの記事を注文されても、ほとんど知らないし文献もみつからなかったから、ネットで検索してみつけた記事の内容をそのまま断定的に書いちゃった。だけど、それが本当かどうかは確かめてないんですよ。(汗)

 確認しなきゃならないサイトの中には、英語どころかラテン語や中世フランス語のページもあったんで、翻訳できなかった言葉は外国人のマイミクにメッセージで尋ねるなどするしかなく、すべてのドキュメントをじっくり読み込んでチェックする余裕なんか無かったわけで。

 でももしもですよ、そんな元々のドキュメントの情報が嘘だったりしたら、書いた本の内容も嘘ってことですよね?

 実際、ネット上の書評で「中世の某騎士の紹介記事が間違えている、著者は参考文献を読んでない。この本は買う価値なし」とあるのをみて執筆時に見落としてた事実に気がつき驚愕したり、「山ノ神」という言葉の語源の推論が間違ってたことに入稿後に気づいて絶望したりして、泣きそうになったことは多数。

 しかしプロのライターとか大学教授とかだって、考えてみればほとんどの知識は書物かマスメディアなどから得ていて、その情報を並べ替えて自分の想像をつけくわえることで本を書いてるだけなのだから、五十歩百歩なのですよ。

 ですから、情報はすべてを鵜呑みにしたりせず、その中の何が重要なのか、どこが真実なのかは自分で判断しましょう。(もちろん僕が書いてるこの文に関しても!)


 と、四諦の説明から話が逸れてしまったところで、初期仏教と同時代にインドにあった6つの宗教……因果論を否定したり、あるいは認めても違う「悟り」を主張したりした、俗にいう「六師外道」についてもうんちくを傾けたいと思ったけども……かなり長くなりそうだから今回はやめときましょう。(どうしても筆者に書いてほしい読み手さんには、「ノクタに載ってるR18素人小説『性義超人イカセイバー』の初期エピソードでその一部をネタにした」とだけ述べておきます)


 ところで四諦をマスターしての成仏を目指す修行中に、菩薩としての神通力が身につくとか、むしろ邪魔しようとした悪霊や悪魔の力を身に付けて「デビルマン」になってしまうとか、「~天」と呼ばれる聖霊が力を貸してくれたりするとか、そんな現象がいろいろあると言われてまして。

 密教や修験道系ではたとえ悪霊の力でも危険を覚悟の上で積極的に利用しようとしたり、禅のほうでは逆に善悪ひっくるめて「魔境」と呼んで忌避したりもしますが。

 そういう通力に期待してか、南方仏教では修行を積んだ和尚さんの写真などを祭壇に祭ったりお守りにしたりしてます。タクシーのフロントに位の高そうなお坊さん(阿羅漢?)の写真が貼ってあったり。北方仏教では、生きてるお坊さんはあまりあがめないけれど、故人の上人様とか空想上の異世界の聖人(菩薩など)とかの身代わり雛型(仏像/仏画)を拝んで、悟りとは関係ない願い事をしたりもしてますね。

 そういうのがしだいにエスカレートして、仏教は多神教っぽい宗教になってしまったわけで。そのあたり、宗派ごとの考え方の違いとか追求していくとけっこう面白いのだけど、話が長くりますしこのへんでやめときましょうか。


 北方仏教……特に日本では、「生きている間に成仏するのはかなり困難だから、(あるいは自分だけ成仏するのは他の人に冷たいから他の人を助けることを優先することにして)、死んでから別世界にいる仏陀のところに生まれ変わり、その指導を受けて成仏しよう」という考え方が主流になってるようでして。これを「来世成仏」と言います。

 その影響で、今の日本では「冥福」や「往生」のことを「成仏」、「死んだ人」のことを「ホトケ」と言うようになってしまいました。

 変化した意味(「仏=死者」という)を前提で、知ったかぶりの人に「即身成仏」という言葉を「生きたままミイラとなって拝まれること」とか「死後に骨灰を練りこんだ仏像を作ること」と説明されたりもして、混乱の因になってしまいます。おまけにお坊さんのミイラを「即身仏」とも言ったりするから、さらにややこしい。


 このへん、仏教の話をするためには定義をはっきりさせないといけませんね。とにかくここでは、「死んでからだろうと生きていてだろうと、四諦をマスターして人生に苦痛を感じなくなること=解脱=成仏」、と定義しときましょうか。(注:厳密には不正確です!)


 趣味のために書物とネットと取材だけで調べた筆者でもこの程度の知識はあるんだから、解脱を目指す沙門という専門家にして、仏教の初歩である三宝や四諦の概念を、いちおう知ってるどころか間違った知識さえなかったというのはさすがに不勉強すぎです。医者を目指してる医学生が血液や心臓の存在を知らなかったってくらいの大問題。

 こりゃ、地獄に堕ちてもしかたないよね。


 そんなわけで、沙門たちの悲惨な姿を見た宝達は、涙を流しながらつぶやくのだった。


  ♪解脱を求めた人たちが今、こんな苦しみを受けている

   海を渡ろうとしたらかえって途中で海に沈んでしまったようなもので

   いちど富貴を得てから貧窮に戻るといっそう苦しくなるようなもので

   せっかく浄戒を受けてもそれを破ってしまえば

   かえってこのように大きな苦しみに落ちてしまうということなのか


 宝達はわんわん泣きながら、足早にそこを去っていった。



 -つづく-


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