大乘蓮華寶達問答報應沙門經第十 ~火鏘地獄
寶達頃前入火鏘地獄云何名曰火鏘地獄其地獄縱廣一百五十由旬……
読み手さんもそろそろマンネリに感じてると思います。原文を読んでた筆者も、実はこの辺で苦痛になってきたのです。
が、宝達菩薩の地獄めぐりはまだ1/3ってところ。四国八十八箇所などもそうだと聞くけれど、巡礼修行とは、慣れるまでの前半が特に苦しいものなのです。
千葉県の成田・佐倉あたりから東、九十九里浜の横芝光というところに、民俗芸能の地獄芝居がありまして。「鬼来迎」と呼ばれる、伝説によれば鎌倉時代の実話に基づく仮面劇で、地元の人々により毎年、旧盆の8月16日に演じられる伝統行事です。
そう聞いただけで「なんだ、田舎の素人芝居か」と笑った人がいたがそれは大きな勘違い。鬼来迎は、国の重要無形民俗文化財が制定されたとき真っ先に指定されたほど完成度の高さを誇る、関係者一同の猛練習によって伝承されてる古典芸能なのです。海外の文化芸術イベントに招聘されての特別公演もしているし、記録映像のDVDも発売され、ぐぐればネット上に写真も多数あったり。
そのあらすじは……死んだばかりの娘さんの亡者(ただし江戸時代は「女性が演劇に出ることを禁じる法律」があったため、演じるのは伝統的に男性)が閻魔大王の裁判により地獄に送られ、釜茹でや死出の山などで赤鬼と黒鬼、そして鬼婆に苛まされる、というバイオレンス物。前近代風の、舞を含んだスローテンポで物語が展開します。
しかし薩摩国から来たという旅の僧の奨めで遺族が塔婆を立て供養した功徳により(現在の公演では遺族のエピソードは省略されてますが)、ラスト近くで観音菩薩が現れて、鬼たちとしばらく問答の末に暴行を止めてくれ、文字通り「地獄に仏」という一応のハッピーエンドとなるのでした。
かつては各地に鬼来迎と似た芸能があったとも言うけれど、現在ではほとんどが失伝してまして、あるいは単なる仮装行列などに退化したりして、原型の半分だけでも演劇が伝承されているのは日本でただ一ヶ所、横芝光だけなんだそうで。
ところでこの仮面劇、実は8月の炎天下の午後にお寺の中庭で行われ、さえぎる影も無い太陽光の下で見物してるから、観客も汗びっしょり。亡者と一緒に釜茹でにされてるような気分となります。仮面と衣装で厚着して演じる地元の人たちにとっては、さらに地獄でしょう。
終わるころには日も少し傾き風が出始め、観客も地獄から救い出されたような気分になって帰っていく……ただし片田舎の農村ゆえ夕方にはもうバスがなく、近所には流してるタクシーなどもないため、足を確保してる人以外はJR横芝駅まで3~4kmをとぼとぼと歩くことになり、家に帰ると腕や顔を日焼けしてて皮がむけたりすることになるわけで。
このようにこの手の地獄話は、鑑賞する人にも提供する人にも、「地獄の苦痛の何万分の一か」を体験することが求められるらしく。想像するに、「リアルの苦痛に耐えることによって僅かでも本当の地獄から遠ざかる」という苦行の要素があるのでしょう。
だからここまで読んだあなたは、マンネリの苦痛に耐えて読み進めて欲しい。その苦行によって少しでも地獄が遠ざかる……かもしれませんから。
ちなみに漢文を現代語に書きなおしている筆者も、展開がマンネリで飽きてきてます。一部の文章なんかもう嫌になってコピペして細部修正でごまかしまでしてます。
が、そうやってでも耐えてラストまで書き続けるつもり。いっしょにがんばりましょう。
ということで、宝達は火鏘地獄にやってきた。
火鏘地獄とは広さは約1150km。周囲は鉄壁と猛大火炎に囲まれている。その熱で溶けた鉄が罪人の体に貼り付いて突き刺している。足元から溶けた鉄がにじり上がり、罪人たちはその炎に悲鳴を上げている。
南の門に5000人の沙門がおり、
「私たちは何の罪でこんなとこに………ひぃ~っ(注:火、のシャレではない)」
と言っている。
馬頭羅刹が三叉のさすまたでその背を突き刺すと、胸まで突き抜ける。
ここに入ってきた罪人は、その足に溶けた鉄が絡みつき、その火炎は胸まで上がって人体を焼く。
1日でもものすごい罰だが、千回、万回、死に返り生き返りしてこれが続く。
もしも贖罪が終わり人間に生まれることができたとしても、足が不自由なまま一生を過ごすのだ。
「この沙門たち、どんな悪いことしたんスか?」
馬頭羅刹は
「この坊づどもは前世で、出家し戒律を受けておきながら威儀を守らなかった。同じ履物を履いたままお堂でもトイレでも区別せずに入り、あるいは仏像や霊塔の影でひそひそ内緒話をしたりした。その因縁でこの地獄に落ちたのさ」
宝達はこれを聞き、ぼろぼろ泣きながら立ち去った。
……うーん、トイレではやはり面倒がらずにトイレ用スリッパに履き替えましょう。
-つづく-




