翻案者序
馬頭羅刹宝達問答報応沙門経
或一名大乘蓮華寶達問答經
平成年間日本優婆塞阿僧祇之奉翻案
「仏説仏名経」という経典がある。
仏如来、菩薩、縁覚、声聞、経典などの、仏教の聖者たちの名前がずらずらと大量にリストアップされている、やたら長い経典だ。
仏教では「時間も空間も無限に広がっている」という世界観が主張されており、それに従えば、過去現現在未来に無数の仏、無限数の聖者が存在することになる……その名前を、とにかく並べられただけ並べたというような内容。
この経典は現在は「仏名会」で読まれており、「すべての仏名や経典名を毎日唱えて祈ることで悪い因縁を無効化できる」という主張があるなど、後世の称名念仏や法華題目の原型と思われる思想が語られている。
しかし鎌倉時代に普及した念仏や題目と比べ、この「大量の仏名と経典名を毎日唱える修行」は量的に困難であり、専門の僧侶はともかく庶民にまでは流行しなかったようだ。
この経典には、内容が整理された十二巻本というバージョンもあるが、もうひとつ、他のいくつかの経典が混入してしまってると思われる、俗に「馬頭羅刹佛名經」ともいう三十巻のバージョンもある。
三十巻の中に混入してる経典のひとつが「大乘蓮華寶達問答報應沙門經」だ。俗に「馬頭羅刹宝達問答経」とも呼ばれたという。佛名經の各章終盤に断片的に挿入されているが、三十巻本の佛名經を読んでいると、脈絡もなく突然に堕地獄描写が始まる。もっとも本文中にタイトルまで入ってるから識別はたやすい。
この混入部分の主人公は、タイトルにもある寶達(宝達)という名の菩薩だ。ブッダのもとで沙門(僧侶)として修行していた彼が、強い好奇心をきっかけに、遥か東方・鉄囲山にある沙門地獄に送られ、32ヶ所もの地獄を巡るというダークな展開を通してある教訓が語られる……そんな物語だ。
実は筆者が「今度は、難解な異色宗教ホラー18禁でも書いてノクターンに載せたろーか。恐くてヌけないようなやつを」などと考えてネタを漁っていたとき、たまたまこの三十巻本 佛名經に出くわし、半月くらいかけて解読してみた。
すると……この断片的に散らばる宝達菩薩の物語に興味を引かれ、「同じ素人小説なら、ホラー18禁はやめて、馬頭羅刹佛名經からこの部分だけ集めて書き直した方が面白そうだ」と感じてしまった。
もちろん、筆者には漢文古典の素養など高校の授業で習った程度に加え知人の作画した漫画版参考書をいちおう読んだというだけでしかないから、なんとか読み取れた範囲にあとは勝手な脚色を加えて、ということになる。
また、1000年以上前に、娯楽ではなく僧侶への教戒を主目的に書かれた内容は、近代作劇法や現代日本文表現の基本からはずれており、現代人の読み手さんの多くには途中で違和感が生じるかもしれない。それでもプロットや構成はあまりいじらず、ほぼそのままとした。
また仏教に関してほとんど知識のない方が読むかもしれないから、関連する基礎知識もところどころに書き加えた。ただしそういう部分は初心者向けの内容かつできるだけ最小限の記述にとどめた。「厳密にはちょっと違うよなあ」とか「もっと詳しくウンチクたれたいなあ」と思いつつも、多くは長さを抑えるために諦めたのだ。
また宗派による解釈の違いなどを詳細に網羅する余裕は無く、通りいっぺんの解説で終わっている。
というわけで、「この筆者は勉強不足だ、正確なところは……」という知識自慢や、「お前のは邪説だ、本当の仏法とは……」等の折伏行為はどうかご勘弁願いたく。筆者よりも知識の豊富な方/仏教をよく理解してる方は、ストレスを与え合う論争とかではなく、知識を活かした面白いウェブ創作にエナジーを投入して、筆者も楽しみながら勉強させてもらえるようにしていただければ幸いである。
念のために注記しておくと、三十巻本佛名經が漢文に翻訳されたのは8世紀=唐の時代より以前だから、原作はそれよりさらに前の作品ということになる。なので、内容がほとんど丸写しになったとしても法律上、著作権侵害にはあたらない。
その上で、これは忠実な翻訳ではなく、原典を明らかにした上での脚色物だ。
「私の完全オリジナル作品です」などと主張をする気もない。原作者は古代人で連絡の取りようもないし、子孫がいたとしてもこんな作品の存在は知らないだろうから、損害は出ないはずだ。むしろ、これをきっかけに興味を持って原典に挑戦してみる人などが出れば、原作者も涅槃で喜んてくれるんじゃないだろうか。
もしも「盗作」という非難をされたとしてもそれは無意味であることを、念のために明記しておく。
なお原典「佛名經」の本文テキストは、ネット上で検索すればみつかるだろう。
原典にあたった人が僕の解釈のあきらかな間違いなどに気づいた場合はこっそり教えてもらえると、人知れず加筆修正できるので有難い。ただし意図的に脚色した部分まで「誤りだ、捏造だ!」と騒いだら野暮な奴めと嘲笑するからご注意を……この作品の目的は、学術的に正確な翻訳でも宗教の布教でもなく、自分の娯楽を主目的とする趣味ベースでのノベル化なのだから。
前置きが長くなりましたが、それでは陰惨な地獄めぐりの旅に出発しましょう。
よろしくお願いいたします……ちーん(仏壇の鐘の音)。
南無 宝達菩薩。(合掌)
-つづく-