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白狼の残影  作者: あかまる
後編 「残影」

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第9話 失われた国の道

 街道は、もはやデリシアのものではなかった。


 かつて花の国を潤した豊かな道は、いまや泥と轍と軍靴に踏み荒らされている。道の脇には徴収された穀袋が積まれ、開け放たれた倉には、獅子の焼印を押された木札が掛けられていた。流民の列は絶えず、痩せた荷馬が軋む音を立て、幼子の泣き声は風に散る。要所に立つ検問では、通行証を持たぬ者が兵に突き返され、若い男はことさらに長く顔を見られていた。


 国を失うとは、こういうことなのだと、アルベリックは初めて知った。


「お立ち止まりを」


 道を外れた林の陰で、オラスが低く言うと、手早く荷を解いて布袋から薄汚れた上衣を引き出した。粗い麻地の、どこにでもある流民の服だった。


「それをお召しください」


「……こんなものを」


 アルベリックが眉を寄せると、オラスは答えず、短刀で彼の外套の縁を切り落とした。濡れて重くなっていた上等な布が泥へ落ちる。さらに、腰帯の飾りを外し、靴の革紐を緩め、髪も短く束ね直した。


「何をする」


 オラスは淡々としていた。


「若い男。手の荒れ方。立ち方。目線。どれひとつ取っても、育ちのよい武門の子息は隠しきれませぬ」


「私は隠れるために生き延びたのではない」


「生き延びるために、隠れていただきます」


 その言葉が、泥よりも冷たく胸へ落ちた。


 オラスはアルベリックの顎へ手を添え、無理やり視線を下げさせた。


「前を見すぎです。兵は、怯えている者より、堂々とした者を先に疑います」


「……」


「歩幅を狭く。背を少し丸めてください。剣を扱う者は、どうしても腰が開きます」


 ――屈辱だった。


 名門デランブル家の子として教わった立ち方、呼吸、眼差し。そのすべてを否定されている気がした。だが、オラスの手つきには迷いがない。こうした変装が必要になる日を、彼はどこかで知っていたかのようだった。


「外では、若君とはお呼びできませぬ」


「……分かっている」


 アルベリックは、差し出された麻衣を着た。鏡などなくとも分かる。そこにいるのはデランブル家の嫡子ではない。国を失い、泥にまみれた、ただの若い流民だった。


 街道へ戻ると、視線の重さがすぐに変わった。


 アンブラージュ兵は荷車を止めては荷を改め、配給札を持たぬ者を怒鳴りつけている。道端の井戸には兵の見張りが立ち、水を汲むにも順番と許しが要った。焼け跡の残る宿場には獅子の旗が掲げられ、もとの宿主らしき男は帳場の隅へ追いやられ、代わりに敵兵が椅子にふんぞり返っている。


「通行証は」


「ございません。西から流れてきた者にございます」


 オラスは、すぐに声色を変えた。腰を低くし、どこにでもいる年嵩の流民の顔になる。


 検問の兵はアルベリックを凝視する。


「そっちの若いのは」


「甥にございます。脚を痛めまして、荷もろくに持てぬ役立たずですが」


 役立たず――その一語が、耳へ刺さる。


 兵は鼻で笑い、顎をしゃくった。そして興味を失ったように手を振った。通れ、という意味だった。


 検問を離れてから、アルベリックは低く言った。


「なぜ、あんな言い方をした」


「通るためです」


「役立たずとまで言う必要があったのか」


「奴らから目線を外させるためでございます。若く、まっすぐ立ち、それでいて有能そうな男は、疑われます」


 正論だった。


 アルベリックは唇を噛み、オラスは歩みを止めない。


 その先の広場では、流民へ粥が配られていた。だが人数に対して鍋は小さく、列の後ろにいる者へは、湯のようなものしか回っていない。ふらついた女が兵へ食い下がった瞬間、頬を打たれた。誰も声を上げない。上げれば次に殴られるのが自分だと知っているからだ。


 アルベリックの喉が熱くなる。


「これが……占領、か」


「はい」


 言葉を失った。


 そのとき、広場の隅で、幼い子どもが倒れた。母親が抱き起こすが、子は目を閉じたまま動かない。近くにいた年寄りが、水を、と叫ぶ。だが兵は面倒そうに顔を背けただけだった。


 アルベリックは反射的に一歩を踏み出した。


「おやめください」


 オラスの手が、外套の下から手首を掴んだ。


「放せ。見えぬのか、あの子が」


「若い男が顔を出して兵と揉めれば、それで終わりです」


 声は低く、しかし鋼のように動かなかった。


「今あそこで目立てば、次の検問を越えられませぬ」


「では、見捨てろというのか」


「はい」


 あまりにも即答で、アルベリックは息を呑んだ。


「見捨てて、生き延びるのです」


 その瞬間、何かが砕けた気がした。


 父なら、どうしただろう。母なら、こんな言い方をしただろうか。


 だが現実には、子どもを抱いた母のもとへ水を持って駆け寄ったのは、別の流民だった。自分ではない。自分はただ、掴まれた手首の熱を振り払えず、立ち尽くしているだけだった。


 その日の暮れ、二人は街道を外れた畑の跡地で、小さな農家へ立ち寄った。戸口には、痩せた老人がひとり座っていた。家の中には干からびた根菜が少しと、黒ずんだ麦粉の袋。飢えを凌ぐには心許ない量。


 オラスは老人へ頭を下げ、低い声で言った。


「少し、分けていただきたい」


「無理だ」


 老人は首を振る。


「兵に持っていかれた。残りも、見つかれば終わりだ」


「承知しております」


 オラスは懐から銀貨を一枚出した。老人の目が揺れる。だが、それでも手を出さない。


「銀を持っていても、ここでは食えぬ」


「では、明日には兵へ見つかり、すべて接収されましょう」


 静かな声だった。脅しとも忠告ともつかぬ声音。


「今、この銀で塩か薬を換えられます。残した根菜は、見つかれば終わりです」


「……お主」


「生きるためでございます」


 老人は長く黙り、やがて袋の半分を差し出した。


 *


 農家を出るなり、アルベリックは息を荒げた。


「オラス、あれは脅しだ」


「交渉にございます」


「飢えた老人から奪って、何が」


「生き延びるためです」


 敬語のまま、礼を崩さぬまま、だが、やっていることは美しくなかった。


 それが余計に、アルベリックには耐えがたかった。


 夜、二人は森の浅い窪地で火も焚かずに身を寄せた。空は低く、雲は重い。濡れた土の匂いが鼻にこびりつく。口に入れた根菜は筋ばかりで、甘みより土臭さのほうが強かった。


 アルベリックは膝を抱えたまま、父の言葉を思い返していた。


 ――生き延びよ。お前の成すべきことは、これから先の未来で必ずある。


 生き延びる。


 だが今日、自分は人を助けられなかった。名を隠し、侮られ、汚いやり方で食を得た。


 これが、生き延びるということなのか。


 父の言葉は間違っていない。けれど、そのまま抱いているだけでは、一歩も進めない気がした。いや、抱いているだけでは、今日の子どもひとり救えず、明日の自分の命も守れぬ。


「……父上は、こうしろとは仰らなかった」


 闇に向かって零すように言うと、向かいのオラスが答えた。


「はい」


「見捨てろとも、騙せとも、誇りを削れとも」


「はい」


「ならば、これは間違っている」


 しばし沈黙があった。


 風が枯れ草を揺らす。遠くで犬とも狼ともつかぬ声がした。


 やがて、オラスは膝へ置いた手を握り、ただ一言だけ言った。


「生き延びるとは、こういうことです」


 それだけだった。


 言い訳も、正論も、忠義の弁もない。ただ、それしか残っていない者の声だった。


 アルベリックは返せなかった。


 父の言葉の美しさと、今日一日の泥まみれの現実。そのあいだで、自分の中の何かが軋みつづけている。


 このままでは無理だ、と初めて思った。


 美しいままでは、生き延びられない。


 そのとき、街道の方から馬のいななきが聞こえた。つづいて、鋭い声。


「若い男と中年の男が二人、流民に紛れていたとの情報があった!」


「“白狼”の子がまだ見つかっていない!その二人かもしれん!」


 オラスがすぐに身を起こす。闇の中でも、その目だけが鋭く光った。


「検問が強まります」


 アルベリックも立ち上がる。鼓動が一気に早まった。


「……見つかるのか」


「何もせねば、いずれはそうなります」


 オラスは短く答えた。


「このままでは、逃げ切れませぬ」


 夜の底で、風が鳴った。


 それはもはや追手の気配というより、包囲そのものの音に聞こえた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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