表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白狼の残影  作者: あかまる
後編 「残影」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/12

第8話 絶望の夜

 炎を背に、二人は荒野を走っていた。


 雨まじりの夜風が頬を打つ。足もとの土はぬかるみ、崩れた石と枯れ枝が、靴裏を奪おうと絡みつく。それでも、立ち止まることは許されなかった。背後ではなお、ボルディオンが燃えている。鐘の残響、崩落の轟き、怒号、どこかで上がる勝鬨。


 あの城から、父を残して自分は逃げたのだと、アルベリックは何度も、己の胸を己の手で抉るように思った。


 何度も、振り返った。


「お進みください、若君」


 前を行くオラスは、一度も振り返らずに言った。その声はいつも通り低く、敬語も崩れない。だがそこには、慰めも、ためらいもなかった。


「やはり、戻らねば!まだ間に合うかもしれない!父上は――」


「なりませぬ!」


 その一言は短かった。だが、刃のように鋭かった。


「若君がお戻りになれば、アルフレッド様の最後のご命令を踏みにじることになります」


「そんなもの……!」


 言いかけて、アルベリックは言葉を噛み砕いた。


 最後の命令。


 その響きだけで、胸の奥が切り刻まれるように裂ける。


「父上を置いてきたのは、お前だ!」


 自分でも、言ってはならぬ言葉だと分かっていた。だが、抑えきれない衝動を止めることができなかった。


「お前が私を引いた!お前が、父上をあそこへ残した!」


 風が吹き荒ぶ。


 オラスはしばらく黙っていた。怒りも弁明も見せず、ただその非難を受け止めるように立っていた。


「……はい」


 やがて落ちたのは、それだけだった。


「この身が、アルフレッド様を残し、若君をお連れした。そのことに違いはございません」


「ならば!」


「ですが、それがご命令でございました」


 敬語のまま、寸分も揺らがぬ声だった。


「私は、アルフレッド様のご命令に背けませぬ」


 その言葉の奥にあるものを、アルベリックは見ようとしなかった。見てしまえば、自分の怒りの置き場がなくなる気がしたからだ。


 そのとき、風の向こうから微かな音が届いた。金具の触れ合う音。ぬかるみを踏む複数の足。短く交わされる怒鳴り声。


 オラスの目が細くなる。


「追手でございます」


「……っ」


 現実は、嘆きを待たなかった。


「残党狩りです。武装した者、逃げ遅れた兵、城を抜けた者を追っております。ここで声を張れば、すぐに見つかります」


「私は――」


「お進みください」


 今度は言葉だけではなかった。オラスはアルベリックの肩を強く押し、山裾へ続く細い獣道へ身を滑り込ませた。岩陰から岩陰へ。低木のあいだを縫い、足跡が残りにくい石混じりの場所ばかりを選んで進んでいく。


 アルベリックは必死に食らいついた。だが、たちまち呼吸が乱れる。喉は熱いのに、手足は冷え切っていた。濡れた外套は重く、剣帯は腰へ食い込み、脚は鉛のように重かった。


 戦いたいと願っていた。


 父の隣に立ち、剣を抜き、“白狼”の子として死地へ立つのだと、ずっと思っていた。


 だが現実はどうだ。


 ただ走るだけで精一杯。地形も読めず、風向きも分からず、追手の気配に怯え、オラスの背を見失わぬようについていくことしかできない。


 自分は守る側ですらない。守られなければ、夜ひとつ越えられない。


 その事実が、何よりも屈辱だった。


 谷へ下る途中、避難民の一団とすれ違った。


 老人を背負う男。泣き疲れて声も出ぬ幼子。荷を引こうとして倒れ込み、起き上がれない女。皆、顔に同じ色をしていた。炎に照らされ、帰る国を失った者の顔だ。


 その列の後ろで、ひとりの若者が膝をついていた。足を傷めたのか、立てずにいる。付き添っていた母親らしき女が泣きながらその腕を引いていたが、列は待ってくれない。


 アルベリックは思わず足を止めた。


「待ってくれ、あの者が――」


「若君」


 オラスの声が飛ぶ。


「立ち止まれば、見つかるかもしれませぬ」


「だが!」


「お一人を助けようとして、我々が死ねば本末転倒にございます」


 その言い方は冷たかった。冷たく聞こえるよう、あえてしているのだと分かるほどに。


 アルベリックは唇を噛んだ。助けたい。だが、どう助ければよいのか分からない。背負う力も、列を守る力も、追手を払う力もない。


 結局、その若者は他の避難民に肩を貸され、よろめきながら列へ戻っていった。


 救ったのは、自分ではなかった。


 *


 やがて二人は、谷間の奥に打ち捨てられた農具小屋へ辿り着いた。


 半ば崩れた屋根。歪んだ扉。藁と土の匂い。人が住まなくなって久しい、風除けにも足りぬ場所だった。


「ここならば、今宵を凌げましょう」


 オラスは素早く内部を確かめ、湿った藁を退け、隅へ小さな火を起こした。煙が出ぬよう枯れ木を選び、わずかな乾パンと水袋を置く。その手際に迷いはない。


 アルベリックは、入口近くへ膝をついたまま動けなかった。


 耳の奥ではまだ鐘が鳴っている。目を閉じれば、燃える門と、遠い白い影がちらつく。


「……父上は」


 言葉にしようとして、そこで止まった。


 死んだ。置いてきた。戻れなかった。


 どの言葉を選んでも、何ひとつ受け止めきれない。


 オラスは火のそばに膝をつき、短剣で乾パンを削った。


「お召し上がりください」


「食えるわけがないだろう」


「食わねば、明日歩けませぬ」


 オラスは慰めも、励ましもない。ただ、生きるために必要なことだけを言う。


 アルベリックは怒鳴り返したかった。だが、その気力すら尽きかけていた。


 震える手で乾パンを受け取り、ひと口だけ噛む。味がしない。


 火が小さく音を鳴らす。


 外では風が唸り、遠くでなお、ボルディオンが燃えている気配がした。


「若君」


 オラスが、不意に呼んだ。


 アルベリックは顔を上げない。


「今宵のうちに、お休みください。少しでも」


「眠れるものか」


「それでも、横になっていただきます」


 その言い方に、柔らかさはなかった。敬語のまま、しかし容赦なく、生き残るために必要な行動だけを強いてくる。


 アルベリックは、火の向こうに座る男を見た。


 この人も父を失ったはずだ。


 自分が生まれる前から父に仕え、そして最後の命令を受け、置いてきた。その痛みがないはずがない。


 それでも、この男は泣かない。振り返らない。


 父の言葉を、美しく抱いたままでは生きられない。


 オラスはもう、その場所へ踏み込み始めている。


 やがて、オラスは火を見つめたまま静かに言った。


「これからは、身分を捨てていただきます。名も、装いも、歩き方も。そうせねば、生き残れませぬ」


 アルベリックの指先が強ばる。


「何を……言っている。誇り高きデランブル家の名を捨てよというのか」


 火の向こうで、オラスの横顔は石のように硬かった。


「ここから先は、逃げるだけでは足りませぬ」


 外で風が吼えた。


 その音は、まるで燃える城の背から、まだ何かが追ってくるようであった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると更新を追いやすくなります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ