第8話 絶望の夜
炎を背に、二人は荒野を走っていた。
雨まじりの夜風が頬を打つ。足もとの土はぬかるみ、崩れた石と枯れ枝が、靴裏を奪おうと絡みつく。それでも、立ち止まることは許されなかった。背後ではなお、ボルディオンが燃えている。鐘の残響、崩落の轟き、怒号、どこかで上がる勝鬨。
あの城から、父を残して自分は逃げたのだと、アルベリックは何度も、己の胸を己の手で抉るように思った。
何度も、振り返った。
「お進みください、若君」
前を行くオラスは、一度も振り返らずに言った。その声はいつも通り低く、敬語も崩れない。だがそこには、慰めも、ためらいもなかった。
「やはり、戻らねば!まだ間に合うかもしれない!父上は――」
「なりませぬ!」
その一言は短かった。だが、刃のように鋭かった。
「若君がお戻りになれば、アルフレッド様の最後のご命令を踏みにじることになります」
「そんなもの……!」
言いかけて、アルベリックは言葉を噛み砕いた。
最後の命令。
その響きだけで、胸の奥が切り刻まれるように裂ける。
「父上を置いてきたのは、お前だ!」
自分でも、言ってはならぬ言葉だと分かっていた。だが、抑えきれない衝動を止めることができなかった。
「お前が私を引いた!お前が、父上をあそこへ残した!」
風が吹き荒ぶ。
オラスはしばらく黙っていた。怒りも弁明も見せず、ただその非難を受け止めるように立っていた。
「……はい」
やがて落ちたのは、それだけだった。
「この身が、アルフレッド様を残し、若君をお連れした。そのことに違いはございません」
「ならば!」
「ですが、それがご命令でございました」
敬語のまま、寸分も揺らがぬ声だった。
「私は、アルフレッド様のご命令に背けませぬ」
その言葉の奥にあるものを、アルベリックは見ようとしなかった。見てしまえば、自分の怒りの置き場がなくなる気がしたからだ。
そのとき、風の向こうから微かな音が届いた。金具の触れ合う音。ぬかるみを踏む複数の足。短く交わされる怒鳴り声。
オラスの目が細くなる。
「追手でございます」
「……っ」
現実は、嘆きを待たなかった。
「残党狩りです。武装した者、逃げ遅れた兵、城を抜けた者を追っております。ここで声を張れば、すぐに見つかります」
「私は――」
「お進みください」
今度は言葉だけではなかった。オラスはアルベリックの肩を強く押し、山裾へ続く細い獣道へ身を滑り込ませた。岩陰から岩陰へ。低木のあいだを縫い、足跡が残りにくい石混じりの場所ばかりを選んで進んでいく。
アルベリックは必死に食らいついた。だが、たちまち呼吸が乱れる。喉は熱いのに、手足は冷え切っていた。濡れた外套は重く、剣帯は腰へ食い込み、脚は鉛のように重かった。
戦いたいと願っていた。
父の隣に立ち、剣を抜き、“白狼”の子として死地へ立つのだと、ずっと思っていた。
だが現実はどうだ。
ただ走るだけで精一杯。地形も読めず、風向きも分からず、追手の気配に怯え、オラスの背を見失わぬようについていくことしかできない。
自分は守る側ですらない。守られなければ、夜ひとつ越えられない。
その事実が、何よりも屈辱だった。
谷へ下る途中、避難民の一団とすれ違った。
老人を背負う男。泣き疲れて声も出ぬ幼子。荷を引こうとして倒れ込み、起き上がれない女。皆、顔に同じ色をしていた。炎に照らされ、帰る国を失った者の顔だ。
その列の後ろで、ひとりの若者が膝をついていた。足を傷めたのか、立てずにいる。付き添っていた母親らしき女が泣きながらその腕を引いていたが、列は待ってくれない。
アルベリックは思わず足を止めた。
「待ってくれ、あの者が――」
「若君」
オラスの声が飛ぶ。
「立ち止まれば、見つかるかもしれませぬ」
「だが!」
「お一人を助けようとして、我々が死ねば本末転倒にございます」
その言い方は冷たかった。冷たく聞こえるよう、あえてしているのだと分かるほどに。
アルベリックは唇を噛んだ。助けたい。だが、どう助ければよいのか分からない。背負う力も、列を守る力も、追手を払う力もない。
結局、その若者は他の避難民に肩を貸され、よろめきながら列へ戻っていった。
救ったのは、自分ではなかった。
*
やがて二人は、谷間の奥に打ち捨てられた農具小屋へ辿り着いた。
半ば崩れた屋根。歪んだ扉。藁と土の匂い。人が住まなくなって久しい、風除けにも足りぬ場所だった。
「ここならば、今宵を凌げましょう」
オラスは素早く内部を確かめ、湿った藁を退け、隅へ小さな火を起こした。煙が出ぬよう枯れ木を選び、わずかな乾パンと水袋を置く。その手際に迷いはない。
アルベリックは、入口近くへ膝をついたまま動けなかった。
耳の奥ではまだ鐘が鳴っている。目を閉じれば、燃える門と、遠い白い影がちらつく。
「……父上は」
言葉にしようとして、そこで止まった。
死んだ。置いてきた。戻れなかった。
どの言葉を選んでも、何ひとつ受け止めきれない。
オラスは火のそばに膝をつき、短剣で乾パンを削った。
「お召し上がりください」
「食えるわけがないだろう」
「食わねば、明日歩けませぬ」
オラスは慰めも、励ましもない。ただ、生きるために必要なことだけを言う。
アルベリックは怒鳴り返したかった。だが、その気力すら尽きかけていた。
震える手で乾パンを受け取り、ひと口だけ噛む。味がしない。
火が小さく音を鳴らす。
外では風が唸り、遠くでなお、ボルディオンが燃えている気配がした。
「若君」
オラスが、不意に呼んだ。
アルベリックは顔を上げない。
「今宵のうちに、お休みください。少しでも」
「眠れるものか」
「それでも、横になっていただきます」
その言い方に、柔らかさはなかった。敬語のまま、しかし容赦なく、生き残るために必要な行動だけを強いてくる。
アルベリックは、火の向こうに座る男を見た。
この人も父を失ったはずだ。
自分が生まれる前から父に仕え、そして最後の命令を受け、置いてきた。その痛みがないはずがない。
それでも、この男は泣かない。振り返らない。
父の言葉を、美しく抱いたままでは生きられない。
オラスはもう、その場所へ踏み込み始めている。
やがて、オラスは火を見つめたまま静かに言った。
「これからは、身分を捨てていただきます。名も、装いも、歩き方も。そうせねば、生き残れませぬ」
アルベリックの指先が強ばる。
「何を……言っている。誇り高きデランブル家の名を捨てよというのか」
火の向こうで、オラスの横顔は石のように硬かった。
「ここから先は、逃げるだけでは足りませぬ」
外で風が吼えた。
その音は、まるで燃える城の背から、まだ何かが追ってくるようであった。
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