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白狼の残影  作者: あかまる
前編 「白狼」

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第7話 白狼の咆哮

 夜明けとともに、角笛が裂けた。


 次の瞬間、空が黒く染まる。無数の矢が朝の薄明を覆い、ボルディオンの壁へ雨のように降り注いだ。


「伏せろ!」


「西壁、石弾前へ!梯子を近づけるな!」


 怒声が飛び、投石機が唸り、門前では破城槌が重く地を鳴らした。梯子は幾筋もの禍々しい脚のように壁へ掛けられてゆく。


 そのただ中を、白い外套が動いていた。


「第二列、下がれ!弓を構えよ!北壁、火壺はまだ使うな!門前の槍兵、間を詰めろ!」


 アルフレッドの声は、乱戦のただ中でなお不思議なほどよく通った。


 兵たちは恐れていた。手は震え、喉は乾き、顔から血の気は失せている。それでも崩れなかった。白狼が壁の上にいる。ただそれだけで、自分の持ち場を捨てることが恥になると知っていたからだ。


 西門へ破城槌が打ち込まれる。


 重い衝撃が城塞全体を揺らし、門扉の鉄帯が軋んだ。若い盾兵が一瞬たじろぐ。その肩へ、白い手が置かれる。


「震えるのはよい。だが、盾は落とすな」


「お、落としませぬ!」


「よい。ならばここは、まだ死なん」


 その一言で、若い兵は歯を食いしばった。


 アルフレッドはすぐに次の持ち場へ向かう。誰かを励ますために立ち止まりはしない。だが、声を掛けられた若い兵は、そのあとも最後まで盾を手放さなかった。


 やがて、雨が降り出した。


 はじめは細い雨であった。だが時を置かず、それは矢羽と血と煤に濡れた壁を叩き、滑りやすくなった石の上で、兵と敵の足音を等しく奪っていった。


 火壺が投げ落とされ、梯子の下で火が走る。油を浴びた攻城兵が喚きながら転げ落ちる。だが、その後ろから次の列が詰めてくる。獅子王の軍は、恐慌で崩れる軍ではない。焼け、潰れ、射抜かれても、沈黙のうちに次の列が前へ出た。


 ――ボルディオンは持たない。


 その見立てが正しいことを、戦は開幕と同時に示していた。それでも、白狼のもとで壁は機能していた。


「西門、第三槌まで耐えろ!」


「北壁、石を惜しむな!いまここで刻を稼げ!」


「負傷兵を下げろ!歩ける者から手を貸せ!」


 混乱と整然が、同時に城内を走る。泣き声があり、祈りがあり、血があり、それでも命令は途切れない。兵糧の箱は運ばれ、避難民の列は内郭からさらに東へ流れ、最後の荷車が細い道へ押し出されてゆく。


 正午近く、西壁の上に敵兵がひとり躍り上がった。


 若い兵が斬られ、倒れる。続けて二人、三人。槍先が壁上で乱れた、その一瞬だった。


 白い外套が翻る。


 アルフレッドは、崩れた箇所へただ一人で踏み込んだ。


 剣閃は速かった。最短で一人目の喉を断ち、二人目の肘を割り、三人目の足を払って壁外へ落とす。そして、すぐさま後列へ命じる。


「いまだ。梯子を落とせ!」


 兵たちが我に返る。鉤を外し、槌を振るい、梯子が軋んで傾いた。敵兵ごと石壁から剥がれ、悲鳴が地へ吸われてゆく。


 白狼は、死に向かっているのではない。


 前へ出るべき時にだけ前へ出て、ひとつの崩れを塞いでいた。乱れた糸を結び直し、壁が壁である時間を、なお一刻でも長く保つために。


 午後、内郭から伝令が駆け上がってきた。


「西倉の兵糧、移送ほぼ完了!」


「避難民、最終列が東路へ入りました!」


「王都道へ抜ける荷車、残りわずか!」


 その報せを受けたとき、アルフレッドは門前の攻防を見つめたまま、ただひとつ頷いた。


「よし」


 それだけであった。


 だが、その一言の重みを、傍らにいた兵は知った。守るべき時間が、尽きようとしているのだと。


 やがて、破城槌の第四打が門を裂いた。


 鉄帯が弾け、蝶番が悲鳴を上げる。西門の中央に亀裂が走り、そこへ獅子の軍勢が雪崩れかかる。兵たちの顔に、ついに死の色が濃く落ちた。


 それでも、誰も逃げなかった。


 我らには、白狼がいる。


 それが、最後の一歩を持ちこたえさせていた。


「門内へ下がれ!槍列を狭めろ!内郭の扉はまだ閉じるな!」


 アルフレッドは短く命じ、みずから門前へ降りた。


「アルフレッド様!」


「なりませぬ!」


 兵たちの声に、白狼は振り返らない。


「ここが要だ。持ち場を守れ」


 その背に、誰も次の言葉を口に出せなかった。


 砕けた門の狭間へ、白い影が立つ。


 血煙と灰と雨の中、その姿だけが異様なほど静かだった。敵はそこへ殺到し、白狼はそれを受け止めた。斬って、退き、受け、命じ、また一歩だけ前へ出る。何十人斬りの猛威ではない。だが、そこに立つ“白狼”がいるかぎり、突破口は道にならなかった。


 雨は次第に強くなる。


 血に濡れた石畳を洗うには足りず、ただ赤い色を広げるだけの冷たい雨だった。門前には敵兵の亡骸が折り重なり、盾は砕け、槍は折れ、獅子の軍でさえ前へ出るたびに代価を払わされていた。


 ボルディオンは、滅びに向かいながらも、獅子の喉へ牙を立て続ける。


 夕刻、東の物見から鐘が三つ鳴った。退避完了の合図。最後の車列が王都道へ抜け、民がボルディオンを離れたことを示していた。


 その鐘を聞いたとき、アルフレッドは初めて、ほんのわずかに目を閉じた。


 ――役目は果たした。


 ボルディオンは落ちる。デリシアはここで実質的に終わる。だが、守るべきものを守り切れぬまま死ぬのではない。国の最後を、明日へ渡すことには成功したのだ。


 次の瞬間、槍が脇腹を貫いた。


 白い外套が、赤く染まる。


 アルフレッドは槍の柄を握って迷いなく引き抜く。


 自らの血で染まったその槍先を、敵兵に突き返す。


“白狼”は崩れない。膝も折れない。


 ただひとつ、声だけがさらに低くなる。


「内郭を閉じよ!」


「ですが……!」


「閉じよ!ここから先、敵を流すな!」


 兵たちは歯を鳴らした。従えば、この人を残すことになる。だが、従わねば、この人が命を賭して稼いだ刻を無駄にする。


 結局、誰も節義を失わなかった。彼らは泣きながら命令に従い、最後の障壁を閉じ、白狼のいる門前へ敵を集めた。


 炎が上がる。


 梁が砕ける。


 雨はなお降りつづき、それでも火は消えぬまま、赤く燃え広がっていく。


 アルフレッドは最後まで、“デリシアの壁”であり続けた。


 倒れるためではない。その身が崩れる寸前まで、そこへ敵を吸い寄せ、後ろへ一歩も通さぬために。


 遠く、アンブラージュの本陣で、あの老将がそれを見ていた。


 火と雨の中、白い外套がなお立ちつづける。人の身でありながら、城塞そのもののように。


 幾つもの傷を負いながらも、ただ一振りの剣で、アルフレッドはなお前へ出てくる幾多の兵を斬り伏せていく。


 アルフレッドの白い外套が次第に赤く染まって行く。


 それでもアルフレッドは剣を振るい続ける。


 激しい攻防が続いたあと、白い外套が真紅に染まりきった。


 そして、その真紅の外套が大きく揺らいだあと、ゆっくりと地に沈んだ。


 “白狼”を討ち取った兵が、歓喜の雄叫びを上げた。


 それを聞いた老将は深く息を吐き、低く、痛むような声で言った。


「……我らは、類なき名将を討ってしまった」


 その傍らにいた若い将校たちが、思わず顔を上げる。老将はなおも、燃える門前から目を離さぬまま続けた。


「もし“白狼”が我らの軍にいたならば、陛下の東征はさらに早く、さらに確かなものとなっていただろう」


 雨が兜を打つ。


「“白狼”の名は、誇張ではなかった。まさしく戦場の鬼神だ。ボルディオンは落とせたが、我らに甚大な損害を与えた」


 老将は祈るように静かに目を伏せた。


「そして彼は、民のために生きた、誠の忠義の将であった」


 老将はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、燃える門前を見つめつづけた。


 *


 地下の退路を進むアルベリックは、頭上から響く震動に何度も足を止めていた。


 石の軋む音、遠い怒号、鐘。そして、どこかで何か大きなものが崩れ落ちる轟き。


「父上……」


 振り返っても、見えるのは闇だけだった。


 オラスは何も言わず、ただアルベリックの腕を取って前へ促す。


 やがて退路の果て、小さな割れ目のような出口から外へ出た時、ボルディオンはすでに炎を噴いていた。


 城塞が燃えている。


 崩れかけた門のあたり、火と煙と雨の向こうに、白いものが見えた気がした。あれが外套だったのか、ただ濡れた石灰の光だったのか、アルベリックには分からない。


 分かったのは、もう戻れぬということだけだった。


 ボルディオンは落ちた。デリシア王国は、ここで終わる。


 アルベリックは父の最期を見届けられなかった。見えたのは、炎と、鐘と、崩れる門と、遠い白い影だけである。


 その断片だけが、かえって胸へ深く刺さった。


「……お進みください、若君」


 オラスの言葉は、震えていなかった。震えていたのは、その声の奥に押し殺されたものの方だった。


「アルフレッド様の“最後”のご命令を、ここで絶やしてはなりませぬ」


 炎の向こうに父を残し、アルベリックはなお一度だけ振り返った。


 そのとき、天が裂けた。


 雷光が、燃え上がるボルディオンを一瞬まるごと白く照らし出す。遅れて落ちた雷鳴は、山々を震わせ、谷を揺らし、空そのものが吼えたかと思うほどの咆哮となって響き渡った。


 それはまるで、最後の壁に立ちつづけた白狼が、死の間際に天地へ放った一声のようであった。


 激戦となったボルディオン戦役は、こうして幕を閉じた。


 後のアンブラージュ王国の記録には、こう残されている。


 ――ボルディオン戦役はアンブラージュに激甚な損害を与え、ローザリア東方統一への大きな足枷となった。


 ――デリシアの将、“白狼”アルフレッド・デランブルは、まさに戦神の化身であった。――と。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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『白狼の残影』前編・完結、拝読しました。 雨と炎の中、真紅に染まりながらも「最後の壁」として立ち続けたアルフレッドの最期に、胸が熱くなりました。 自らの死を賭して「来年」の種と民を守り抜いたその姿は…
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