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白狼の残影  作者: あかまる
前編 「白狼」

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第6話 最後の命令

 夜のボルディオンは、不思議な静けさに包まれていた。


 アンブラージュの総攻めを明日に控えた城塞。壁上では弓弦の張り直しが続き、石弾を運ぶ軋みが絶えず、内郭では鍋が煮え、傷兵のうめきが風にまぎれていた。


 アルベリックは西門近くの控え場で、伝令の記録板を抱えていた。北壁の矢束の不足、寝かせ場の水の追加、負傷兵の移送。伝えるべきことは尽きない。足は重く、喉は渇いていたが、不思議と眠気はなかった。


 自分も明日は戦うのだと、そう覚悟していた。


 伝令で終わるはずがない。壁が破られれば剣を抜く。その時こそ、父の隣で立つのだと、半ば祈るように信じていた。


 遠く、壁上を巡る火が揺れる。


 その灯の向こうに、アルフレッドの姿があった。白い外套は夜の中でもなお淡く浮かび、総攻め前夜とは思えぬ静けさで兵の間を歩いている。肩を震わせる若い兵へひと言を置き、負傷兵の寝顔へ毛布を引き、投石機の縄の具合にまで目を配る。


「若君」


 呼ばれて振り向くと、オラスが立っていた。


「アルフレッド様がお呼びでございます」


「父上が?」


 オラスは頷いた。いつもの敬語、いつもの顔。だが、その声の底には、わずかに硬いものがあった。


 アルベリックは記録板を脇へ置き、オラスのあとを追った。


 通されたのは、内郭のさらに上、城塞の頂へ通じる狭い石段だった。風は高みへ行くほど鋭さを増し、松明の火は幾度も横へなぎ倒されそうになる。やがて最後の段を上りきると、そこにはボルディオン全体を見渡せる物見の場があった。


 アルフレッドはそこに立っていた。


 風が白い外套を鳴らしている。背後には、岩稜の向こうへ沈んだ闇がある。その姿はもはや一人の人間というより、この城そのものが白い形を取って立っているようであった。


「父上」


 呼びかけると、アルフレッドは静かに振り返った。その眼は昼と変わらず澄んでいる。だが、すでに何かを決意した者の眼に見えた。


「来たか」


 夜風が吹きつける。アルフレッドは、まっすぐに息子を見た。


「ボルディオンは持たぬ」


 あまりに静かな声だった。


 アルベリックは一瞬、その意味を掴めなかった。いや、掴みたくなかったのかもしれない。


「……まだ開戦前です」


「戦えば分かる、では遅い」


 父の声に、揺らぎはなかった。


「兵は足りぬ。糧も尽きる。壁は高いが、永遠にはもたぬ。ここは勝つための城ではない。退かせるべきものを退かせるための、最後の壁だ」


 アルベリックは拳を握った。


「ならば、私も戦います!」


 当然のように言った。そうでなければならないと思った。


「お前は、ここから逃げよ」


 短いひと言に、アルベリックは目を見開く。


 その一語は、小さな棘よりも深く、少年の胸へ食い込んだ。


「……なぜです!」


 誇りとして抱いてきたものが、音を立てて崩れ落ちるような気がした。


「デランブル家は、デリシア王家に代々仕える武門の棟梁です!そのデランブルの子がここから逃げるなど、末代までの恥となる!」


 夜気を裂くように、声が高みへ響いた。


「私は父上の背だけを見て生きてきた!“白狼”の子であることを誇りとしてきた!それなのに最後の時に、なぜ私は逃げねばならないのですか!」


 松明の火が、風に煽られて大きく揺れた。


 アルフレッドは怒らなかった。ただ、深く息をついた。その眼差しは厳しい。けれど、冷たくはなかった。


「アルベリック」


 名を呼ばれただけで、喉が詰まる。


「お前が、ここで死んではならぬ者だからだ」


 アルベリックは唇を噛んだ。そんな理が、今は何より残酷だった。


 父は続ける。


「デランブルの名を残せ、とも言わぬ。家を継げ、とも言わぬ。仇を討て、とも言わぬ。国を取り戻せと、お前に託しもしない」


 その言葉に、アルベリックは顔を上げた。


 託されるのだと思っていた。復讐か、再興か、せめて遺志か。だが父は、そのどれも与えなかった。


「では、何を……」


「生き延びるのだ」


 それだけだった。


 あまりに短く、あまりに重い一言が、吹きさらしの高みへ落ちた。


 アルフレッドは一歩、息子へ近づいた。


「この国が何を守ろうとして、滅びるのかを、心に刻み込むのだ」


「……父上」


 その声が、ほんのわずかに掠れた。アルベリックの胸の奥で、何かが軋んだ。


 それは戦場の教えではない。もっと遠く、もっと深く、人生そのものへ差し込まれる言葉だった。


「私は、お前に私のようになれとは言わぬ」


 アルフレッドの目に、ひとときだけ柔らかな光がよぎった。


 ふと、母コーデリアの部屋で聞いた言葉が胸を掠める。


 帰る場所の顔を忘れてはなりません――母が生きていたら、今の父を見てどう思うだろう。


「憎しみを持つな。命令を、ただ人を縛る鎖にするな。お前はお前の人生を生きろ」


 アルベリックは首を振った。


「そんなことを言われても……生きるだけでは、私は……!」


 何者にもなれぬではないか。父のように戦って死ぬことすら許されないのなら、自分は何のためにここまで来たのか。


 その叫びは言葉になりきらず、ただ荒い呼吸となって零れた。


 アルフレッドは、しばし息子を見つめたのち、低く、しかしはっきりと言った。


「アルベリック・デランブル」


 その呼び方に、少年の背が強ばる。


「生き延びよ。お前の成すべきことは、これから先の未来で必ずある」


 風が吹き、壁に落ちた影がかすかに歪む。


「これをもって、お前への最後の命令とする」


 その一言は、祈りではなかった。慰めでもなかった。抗う余地のない、刃のような命であった。


 アルベリックの胸に、父の声が深く打ち込まれる。


「父上……!」


 叫びは、もはや願いに近かった。


 だが、アルフレッドは目を逸らさない。その静けさが、なおさら残酷だった。


 そのとき、父の視線がオラスへ向いた。


「オラス」


「はっ」


 オラスは、ひざまずくように頭を垂れた。


「城塞の地下に抜け道がある。古い退路だ。そこを使え」


「……」


「生き延びて、このローザリアの行く末を見届けよ」


 沈黙が落ちた。


 オラスは答えなかった。ただ、その背だけが、耐えるように微かに震えていた。


「……承知いたしました」


 最後の命令。


 オラスはアルフレッドの言葉をそう受け取り、無言のまま目を伏せた。


 そして、かつてアルフレッドから与えられた藍の房を、強く握りしめた。


「嫌だ!」


 アルベリックが叫ぶ。


「私は行かぬ!父上を置いて、どうして――」


 半歩踏み出した瞬間、オラスの腕がアルベリックの腕を軽く掴む。


「若君」


「離せ、オラス!」


「なりませぬ」


 その一言に、苦痛が滲んでいた。


「これは、アルフレッド様の“最後”のご命令でございます」


 オラスの目は鋭かった。忠義だけではない。自らもまた、ここに残りたいと叫んでいる目だった。


 すると、アルフレッドが静かに手を伸ばす。


 大きな手だった。


 幼い頃、転んで泣いた時に頭へ置かれた手。


 木剣を握りはじめた日に、肩へ触れられた手。


 熱を出して眠れぬ夜に、額へそっと触れた手。


 その手が、今、アルベリックの頭に静かに置かれる。


「お前は、私の誇りである」


 アルベリックの喉が焼ける。胸が張り裂けるようだった。


 誇りも、悔しさも、恐れも、すべてが押し寄せて来て、声にならない。


「父上……!」


 アルフレッドは微かに頷いた。笑ってはいない。だがその目には、確かに父の光があった。


「行け」


 オラスの手が、今度ははっきりとアルベリックの腕を取った。


「若君、こちらへ」


 敬語のまま、しかし抗わせぬ力で引く。アルベリックはなお振り返る。石段へ押しやられながらも、何度も父を見る。


 アルフレッドは追ってこない。ただ城塞の頂に立ち、白い外套を夜の灯に淡く浮かべていた。その姿は、すでに城そのものだった。誰かの父である前に、最後の壁として立つ者の姿だった。


 石段を下り、内郭の裏を抜け、さらに人目を避けるようにして古い石室へ入る。そこには、湿った土の匂いがこもっていた。床の一部には重い石蓋があり、その下へ闇が口を開いている。


 ボルディオンの地下にあった、古い抜け道だった。


 石蓋の向こうからは、地の底を渡るような冷気が上がってくる。


「参りましょう、若君」


 オラスの声は低い。だがその低さの奥に、押し殺した何かが激しく揺れていた。


 アルベリックは動けなかった。


 まだ振り返れば、父がいる。まだ駆け戻れば、あの高みへ戻れる。


 ボルディオンの夜は、なお燃えぬまま、明日の炎を待っている。


 その背後で、白狼は最後の壁に残った。


 そしてアルベリックは、守られる側へ押し戻されたまま、地下の闇へ足を踏み入れた。


 次に振り返る時、あの城はまだ立っているのか。


 父の最後の命令だけが、夜気よりも冷たく、胸の奥に沈んでいた。

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