第5話 白狼は降らず
角笛が、ボルディオンの朝を裂いた。
その音は短く、だがあまりにも明瞭に、城壁の上に立つ者すべてへ意味を伝えた。
一時停戦の合図。
アルベリックは西壁へ駆け上がり、城外を見渡した。アンブラージュ軍は、すでに大地を埋めていた。
黒々とした甲冑の列。林立する槍。幾重にも重なる盾。岩稜の向こうからなお尽きぬ兵影。無数の軍勢でありながら、その布陣に乱れはない。
「白旗だ!」
物見の兵が叫んだ。
敵陣の前列が割れ、ひとりの老将が馬を進めてくる。従えるのは、わずかな護衛のみ。
城壁上にざわめきが走る。
「降伏の勧告か」
兵たちの声はひそやかでありながら、隠しきれぬ緊張を帯びていた。
老将は十分な距離を置いて馬を止め、兜を外した。白髪まじりの髪が風に揺れ、深く刻まれた皺の奥の眼だけが鋭く光る。
「アンブラージュ王国軍が名代として参った」
よく通る声だった。年を重ねても失われぬ、将としての響きである。
「私は獅子王陛下の言葉を預かっている。“白狼”アルフレッド・デランブル殿に、お聞かせ願いたい」
アルフレッドは一歩前へ出て、老将を見つめる。
「ここにおります」
老将は彼を見上げ、ほんのわずかに目を細めた。それは敵を見る目ではなかった。名声だけではない何かを確かめ、そして納得した者の眼差しであった。
「では、申し上げる」
兵も避難民も、負傷兵を支える医兵でさえ、今は手を止めている。誰もが、この一言で何かが定まると知っていた。
「アルフレッド・デランブル殿。陛下は、貴殿を惜しまれている」
アルベリックは息を呑んだ。
「東方諸国との戦の中にあっても、貴殿の名は幾度となく陛下の耳へ届いていた。そのような将が、滅びゆくデリシアと運命をともにして朽ちるは惜しい、と」
兵たちのあいだにどよめきが走る。
「貴殿ほどの器ならば、降将としてではなく、客将として遇することもありうる。いや、それ以上であろう。獅子王陛下は、力ある者を力として遇する御方だ」
獅子王は、本気で“白狼”を欲している。
城壁の上にいる誰もが、それを理解した。
老将は続ける。
「そなたほどの将が、ここで土に埋もれるのは惜しい。陛下はそう仰せだ。降られよ」
敵でありながら、この老将自身もまた、白狼の価値を知っているのだと分かる声音だった。
アルベリックは拳を握った。
父が、敵の王にまで惜しまれる。誇らしさに似た熱が胸に走る。だが同時に、それほどの言葉を向けられてなお退かぬ者の背が、ますます遠く思えた。
アルフレッドは、しばし黙した。
風が吹く。城壁の上の旗が鳴る。遠く、獅子の王旗が揺れる。
やがて白狼は、静かに口を開いた。
「獅子王陛下が、この身を惜しんでくださるというなら、それは武人として光栄に存じます」
その返答に、老将の目がわずかに動く。
拒絶ではない。まず礼を返した。そのこと自体が、“白狼”の器を物語っていた。
「ひとつ、お聞きしたい」
老将の目が少し開かれる。
「私が降れば、デリシアはこのままで存続できるのか」
アルフレッドは静かに問うた。
「それは、ない。アンブラージュ支配下に置かれる」
老将もまた、冷静な声色で返した。
アルフレッドは、ひとつ頷いた。
「ならば、答えは一つ」
次の一言で、その場に漂ったわずかな揺らぎは断ち切られた。
「……私は降らぬ」
声は大きくない。だが、晴れた冬空の下で、はっきりと響いた。
「私は、王のためだけにここへ立っているのではない」
兵たちが顔を上げる。避難民たちも、泣き腫らした目で壁上を見た。
「この国で実った穂を、私は知っている」
農夫たちが息を止める。
「土に手を入れ、季節を待ち、雨を祈り、ようやく実るその一粒の重みを知っている」
アルフレッドの声は、戦の理を説くものではなかった。
「この美しき国の民の暮らしを、私は知っている。朝に水路を見にゆく農夫の背を、花を摘む人の指を、幼子を抱いて夜を越える母の祈りを、私は知っている」
城壁の下で、ひとりの農夫が口元を押さえた。兵の列の中で、若い兵が唇を強く結んだ。
「民を捨て、国を捨て、忠義を捨て、私だけが生き残るのであれば――」
“白狼”の目が鋭く光る。
「――それはもはや、"獣"以下の存在である!」
兵たちの目には光るものが滲んでいた。
老将は黙って聞いている。その沈黙さえ、礼であった。
アルフレッドは遠く本陣の獅子旗を見た。
「獅子王陛下へ、お伝え願いたい」
そして、はっきりと言った。
「デリシアは、まだここにある!」
叫びにも似たその言葉は、城壁の上から下へ、下から内郭へと、ボルディオン全体に響き渡った。
それは滅びる運命だとしても、守るべきものが確かに残っているという宣言だった。
恐れが消えたわけではない。死の気配が遠のいたわけでもない。
だが、デリシア軍の空気に変化が生じた。
“白狼”が立つのなら、自分も立つ。
そんな覚悟が、恐怖の奥で静かに形を持ちはじめていた。
アルベリックは父を見上げた。
誇らしかった。胸が焼けるほどに。そして、あまりにも遠かった。
父は、敵に惜しまれ、民に縋られ、それでもなお、自分で立つ場所を選び取っている。
これが“白狼”なのだと、少年は思い知らされる。
老将はしばらく白狼を見上げていたが、やがて深く息を吐いた。
「……承った」
その声に、かすかな悔いが滲む。説得不能と悟った者の声であった。老将は兜を取り直し、一礼した。敵将への礼であり、ひとりの武人への礼でもあった。
馬首が返る。その背が遠ざかるあいだ、誰も声を上げなかった。
白旗が敵陣へ戻り、角笛が再び鳴る。今度の音は、停戦の終わりを告げるものだった。
遠く本陣で、獅子の王旗がわずかに揺れた瞬間、アンブラージュ軍の陣が動き始める。槍列が組み直され、盾兵が前へ出る。投石機が曳かれ、工兵が道具を運ぶ。整然と、無駄なく、総攻めの形へ。
「総攻めの備えだ!」
「持ち場へ戻れ!」
「避難の最終便を急がせろ!」
城内でも怒声が飛び交う。
負傷兵は奥へ。まだ歩ける者は手伝いへ。兵糧は配分のやり直し。矢束の点検。湯の確保。火薬壺の移送。すべてが一気に加速した。
アルフレッドは壁上から降り、何事もなかったように命を下していく。
「西門の盾兵を増やせ。北壁は石弾を前へ。避難の列は二筋に分けろ。泣く子は先に内郭へ入れろ」
父のその姿は、もはや城塞の主そのものだった。
その姿を見て、アルベリックは心に火を灯し、決意する。
父の隣で死す、と。
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