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白狼の残影  作者: あかまる
前編 「白狼」

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第4話 最後の壁

 青い空の下に、灰色の城塞が聳えていた。


 ボルディオン――王都外縁を守る、最後の防衛拠点。


 山あいを縫って東へ伸びる街道は、この城塞都市を通らなければ先へは進めない。両脇を岩稜に挟まれた狭路の先にのみ、王都へ至る道がある。ゆえにここは、ひとつの都市である以前に、王国そのものの門であった。


 ここが落ちれば、デリシアは終わる。


 城門へ至る坂を馬で上がりながら、アルベリックはその意味を目で知った。


 高く積み上げられた外壁。鋭く張り出した稜角。狭く絞られた進入路。上から見下ろす射場の配置。敵が押し寄せるたび、何度でも血を払わせるために築かれた形であることが、一目で分かる。


 だが今、その堅牢さは誇りよりも切迫の色を帯びていた。


 城門の内外では、荷車が絶え間なく出入りしている。穀袋、干し肉の樽、薬草籠、帳簿箱、礼拝具。避難民は背負いきれぬ荷を前に目を伏せ、負傷兵たちは壁際に座り込み、包帯に滲む赤黒い色を隠しきれぬまま次の命を待っていた。


 アルベリックは、喉の奥に苦いものを覚えた。


 怒声が飛ぶ。泣き声が混じる。車輪が軋み、鉄の触れ合う音が乾いた空気を刻む。


 そのただ中で、アルフレッドは馬を降りた。


 白い外套には旅塵が積もっている。だが、その立ち姿に揺らぎはなかった。


「白狼様が来た!」


「アルフレッド様だ……!」


 誰かが叫んだわけでもない。だがその名は、火が走るように城塞の中を伝わっていった。


 沈みかけていた人の心が、わずかに持ち上がる。


 父は、ただここへ来ただけで、人々にまだ終わっていないと思わせる。


 アルベリックは、それを肌で知った。


 城門の奥から、ひとりの老将が現れた。


 厚い外套の下に鎧をまとい、白髪を風にさらしながらも、その眼にはなお刃の光がある。年老いてなお背は折れず、立つだけで古き武門の気配を纏う男。


 ウェンロック・デートリッヒ。


 亡き母コーデリアの父であった。すなわち、アルフレッドの義父であり、アルベリックの祖父だ。


「来たか、アルフレッド」


「ウェンロック様。お待たせいたしました」


 短いやりとりののち、ウェンロックは踵を返した。


「来い。見ながら話す」


 門から内郭へ向かう道は幾重にも折れ、壁上には弓兵と石弾兵が並び、補修中の石積みでは工兵が黙々と槌を振るっている。歩きながら、ウェンロックは低く告げた。


「兵は合わせて千に届かん。満足に立てる者は八百ほどだ。あとは負傷兵、補給要員、雑兵だ」


「兵糧と援軍は」


「西方の兵糧はアンブラージュに奪われてしまった。切り詰めて数日。よく見積もって六日。援軍はない。王都も外縁の備えで手一杯だろう」


 兵は足りず、糧は少なく、援軍はない。もはや勝てる戦ではない。


 それでもここへ残る意味があるとすれば、敵を打ち破るためではなく、後ろへ流すべきものを流しきるまで、ここで時を稼ぐためだけだ。


 つまりここは、もはや勝つ場所ではない。


「時間を稼ぎます」


 アルフレッドが言った。


「民と穀を一刻でも早く王都へ退かせましょう」


 ウェンロックは短く頷く。


 アルフレッドは周囲を一通り見たのち、静かに言った。


「門前の流れを分けましょう。兵糧と避難民を混ぜれば、混乱による遅延が必然。負傷兵は内側へと」


「……分かった。お前の見立てで組み直してくれ」


 それだけで十分だった。役人も兵も、白狼が来たことで、この城塞がただ滅びを待つだけの場所ではなくなったと知った。


 オラスがすぐさま周囲へ声を飛ばす。


「聞いたな。門前を分けろ。負傷兵は内へ運べ。荷車は止めるな、流し続けろ!」


 現場が動き出す。


 アルベリックの胸は熱を帯びた。この壁の上に立ち、父の隣で剣を抜けるなら、自分もようやく守る側へ立てるのではないか――そんな思いが、喉もとまでせり上がる。


「父上」


 気づけば声が出ていた。


「私は何をすればよいでしょうか。戦の覚悟は、すでに出来ております」


 アルフレッドは息子を見た。


「伝令に回れ」


 一瞬、喉が詰まった。


「北壁、西門、内郭倉、東廊の寝かせ場。その四つを結べ。情報を集め、整理せよ」


「ですが、私は――」


「今のお前に必要なのは、剣を振るうことではない」


 ぴたりと、言葉を断たれた。


「戦場は斬る者だけで回らぬ。何が尽き、どこが詰まり、誰が倒れたか。それを繋ぐ者がいなければ、壁は半日で死す」


 正しい。


 だが、正しいことと、飲み込めることは違う。


「……承知しました」


 そう答えるしかない自分が、なおさら悔しかった。


 そのとき、西方の物見台から鋭い声が落ちた。


「土煙多数!旗影、数え切れず!」


 壁上の兵たちが、いっせいに顔を上げる。


「白百合の旗を確認!前列、重装!その後方にも列が続いております!数、多し!まだ尽きませぬ!」


 ざわめきが、城塞を深く沈ませた。


 アルベリックも壁上へ駆け、岩稜の向こうを見た。


 西の彼方、大地を覆うように土煙が立っている。その中を、黒々とした鉄の列が進んでいた。槍が林のように揺れ、重い甲冑が鈍い光を返し、白百合の旗が幾重にも風に靡いていた。いくつもの小国を噛み砕いてなお勢いを失わず、それでいてよく統制された獣の群れそのものだった。


 思った以上に多く、思った以上に屈強。


 ここで受け止めるには、あまりに重い。避難民は祈りの句を噛み、兵たちは無意識に槍を握り直した。


 アルフレッドは壁上へ上がり、その土煙の彼方をしばし見据えた。


 長くはない沈黙だった。


「来たか」


 ただ、それだけ言った。


 恐れも驚きもない。来るべきものが、来るべき時に来た――その程度の静けさだ。


「今宵のうちに備えを。眠れる者は交代で眠れ。明日からは、眠りたくとも眠れぬぞ」


「はっ!」


 返声が、冷えた空へ揃って響いた。


 その光景に、兵たちの面差しがわずかに変わるのを、アルベリックは見た。


 この人が最後の壁であってほしい。


 誰も口にはしないが、この場の多くが同じことを思ったに違いなかった。


 アルベリックは、吹きつける風の中で理解した。


 ボルディオンはただの城塞ではない。


 王都へ至る最後の壁であり、国の残り火が集められた最後の器であり、そして“白狼”アルフレッド・デランブルが、その命を懸けて立つ場所なのだ。


 西の彼方で、白百合の旗が夕闇の中に揺れていた。


 明日にも、敵はこの壁の前へ現れる。あるいは、その前に使者が来るかもしれない。


 アルベリックは拳を握った。


 戦いたい。守る側に立ちたい。だが今の自分は、まだその最中へ押し入れてはもらえない。


 その焦りと悔しさを抱えたまま、少年は父と白百合の旗とを交互に見た。


 白狼は白百合の旗から目を逸らさず、ただ、立っていた。


 ならば、自分もまた現実から目を逸らしてはならないと、アルベリックは思った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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