第3話 母の残影
ボルディオン出立の前日。花の香りは、まだこの家に残っていた。
デランブル家の屋敷、その北廊の奥。朝の光がやわらかく差し込む小さな一室に、アルベリックはひとり立っていた。
戦が近づく中、この部屋をもう一度見ておきたいと、ふいに思ったからだ。
大きな部屋ではない。窓辺には白い花を活けた花瓶があり、棚には古びた祈祷書と、小箱に納められた銀の留め具が置かれている。椅子の背には、淡い青を織り込んだ薄衣が丁寧に掛けられたままだった。まるで時が止まっているかのような静けさ。
誰も、この部屋を整理することはなかった。
ここを形づくるひとつひとつに、亡き母の息遣いが残っているように思われたからだ。
アルベリックは棚へ歩み寄り、銀の留め具へそっと指を触れた。
「コーデリア様は、その留め具をことのほかお気に入りでございました」
振り向くと、老侍女が控えめに頭を下げていた。
「母上は、よくここにおられたのか」
「ええ。お加減のよろしい日は、窓辺でよく読書をされておりました」
老侍女は懐かしむように、花瓶の白花へ目をやった。
「コーデリア様は、武門の棟梁デートリッヒ家の娘として、幼き頃より馬も弓もお学びになったとか。それでも本来は、読書や花の手入れを好まれるお方でありました」
アルベリックは黙って聞いていた。
母の記憶は、幼い日のぬくもりと、やわらかな手の感触のようなものばかりである。こうして誰かの口から母の輪郭を与えられるたび、知らなかった一面が胸の内に灯ってゆく。
「……婚約の後にお病を得て、お顔に痕が残ったことで、ウェンロック様がアルフレッド様へ婚約破棄をお申し出になったそうでございます」
老侍女は言葉を選ぶように、ひと呼吸置いた。
「ですが、アルフレッド様はただ一言、“私はこの方の顔ではなく、心に惹かれたのだ”と。ウェンロック様は涙を流され、感謝なされたとか」
アルベリックは息を呑んだ。その言葉は、いかにも父らしいと思った。
「母上は……どのようなお方だった」
問えば、老侍女は少しだけ微笑んだ。
「優しいお方でございました。けれど、それ以上に、気遣いのお方でございました。ご自分のことよりも、常に周りの者のことを案じておられました」
母はもういない。けれど、その人がどのようにこの家に在ったのかは、まだ消えてはいない。残された人々の記憶に、今なお鮮やかに刻まれている。
アルベリックは留め具を元の場所へ戻し、小さく頭を垂れた。
そのとき、廊の向こうに人の気配がした。
振り返れば、扉口にアルフレッドが立っていた。
「父上」
老侍女が一礼して下がると、室内に静けさが落ちた。
「母上のことを聞いておりました」
アルベリックが言うと、アルフレッドは短く頷いた。
「そうか」
たったそれだけの返答だった。だが、その声はわずかにやわらいでいた。
「父上は……母上を、どのような方だと思っておられたのですか」
問いは幼かったかもしれない。だが、聞かずにはいられなかった。
アルフレッドはしばし黙し、窓辺へ歩いた。朝の光が、その横顔に淡く差す。
「強いお方だった」
やがて落ちた言葉は、それだけだった。
アルベリックは思わず目を見開く。家格でもなく、優しさでもなく、父はまずその一語を選んだ。
「人は、傷を負えばそこへばかり目を向ける。己も、周りもな。だが、あの方は違った。失ったものではなく、残されたものを見ておられた」
アルフレッドは窓辺の花へ視線を落とした。
「病に伏したあとも、侍女が曇った顔をしていれば先にその者を気遣い、私が戦支度の顔をしていれば、“帰る場所の顔を忘れてはなりません”と申された」
ほんのわずかに、アルフレッドの目元がゆるんだ。その一瞬だけ、”白狼”ではない、ひとりの男の面差しがそこにあった。
アルベリックは、初めて知った気がした。
”白狼”と呼ばれるより前に、ひとりの夫であった時間が、たしかにあったのだと。
「お前は、あの方に似ている」
不意にそう言われ、アルベリックは息を止めた。
「……私が?」
「剣ばかりを見ているようでいて、実のところ、お前の眼は人の痛みに向く」
胸の奥が、熱く痛んだ。
「父上のように強くなりたいと、ずっと思ってきました」
気づけば、言葉がこぼれていた。
「けれど……私は、父上のようにはなれぬ気がします」
アルフレッドは振り返った。
「私のようになる必要はない」
その声音に、曇りはなかった。
「剣を学べ。戦を知れ。だが、それだけの者になるな。何を見て、何を守りたいと願うか――」
アルフレッドはアルベリックの肩を軽く叩く。
「それを失えば、ただの”獣”と成り果てる」
アルベリックは唇を結び、深く頷いた。
そのとき、屋敷の門のほうから鋭い馬蹄の音が響いた。
屋敷の空気が変わる。
アルフレッドの眼差しが、一瞬で戦時の鋭さに戻った。
まもなく、オラスが足早に現れた。その顔つきは、すでに報せの重さを語っている。
「アルフレッド様。急使にございます」
「ここへ」
通された使者は、泥と灰を浴びたような有り様だった。片腕には裂傷があり、衣の裾には焼け焦げた跡がある。膝をついたその姿からは、道中の苛烈さがありありと知れた。
「申し上げます……西方の前線、さらに後退!近隣の砦ひとつ、城ふたつ、すでに陥落……アンブラージュ軍は進軍を緩めず、ボルディオン前面の街道を狙っております!」
室内の空気が冷えた。
「獅子王の旗も確認されております」
アルフレッドは目を細める。
「王都よりの使者は」
「すでに城下へ入っております。ボルディオン着陣の期日を早めるとのこと」
オラスが告げると、アルフレッドは頷いた。
「出立の支度を急がせよ。兵は本日中に再編し、夜半までに発てる者から順次送り出す」
「はっ」
「西倉の兵糧は三分を先行させる。残りは避難民と王都外縁の備えに回せ」
「承知いたしました」
「屋敷の者にも伝えよ。不要な荷は持たせるな」
命が、次々と下されていく。
オラスは即座に踵を返した。すでに頭の中で、必要な人員と馬、車列と護衛の配置が組み上がっているのだろう。
アルベリックは父を見た。
「父上。私も参ります」
言葉は、思うより先に出ていた。
アルフレッドは息子を見た。その目は冷たくない。だが、容易に頷く目でもなかった。
「遊びではないぞ」
「承知しております」
アルフレッドは長くは見つめず、やがて静かに頷いた。
「ならば、私の背だけを見るな」
「……え」
「兵を見よ。民を見よ。泣く者、怯える者、傷つく者を見よ。お前が守りたいものから、目を逸らすな」
アルベリックは深く頭を下げた。
「はい」
それが許しであり、同時に試しであることを、少年は本能で悟っていた。
支度のため、人の行き来が慌ただしくなる中、アルベリックはもう一度だけ北廊の小部屋へ目を向けた。
窓辺の花は、朝と変わらぬ顔で揺れている。祈祷書も、銀の留め具も、薄衣も、静かなままだ。
けれど、その静けさの意味だけが変わってしまった。
ここは帰る場所だった。今日までは。だが、もう同じままではいられない。
家の外では、馬の嘶きと兵の呼び声が重なり、車輪が軋む音が鳴り響く。
穏やかだった日常が、ひとつひとつ戦の景色へと塗り替えられていく。
アルベリックは小さく息を吸い、母の部屋へ向けて胸の内でだけ別れを告げた。
この家に、もう戻れないかもしれない。
アルフレッドは最後の壁へ向かい、その子もまた、戦の影の中へ足を踏み入れようとしていた。
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