第2話 正義の魂
戦の噂が広まった朝は、俄かにざわつき始めていた。
城下西倉には、収穫を早めて運び込まれた穀袋が幾重にも積み上がり、帳面役人の筆は休む間もなく紙の上を走っていた。干し肉、塩、薬草、油、布――戦に入れば、剣より先に尽きるものばかりだ。
その倉の中ほどで、アルフレッドが机上に広げられた地図を見下ろしていた。
「西街道の避難は、今どこまで進んでいる」
問われた文官が、慌てて木札を見下ろす。
「はっ。老人と幼子を先に、城下へ七割ほど……」
「遅い」
叱声ではないが、静かなひと言であった。だが、それだけで倉の空気は張りつめた。
アルフレッドは再び地図に目線を向けると、文官も身を乗り出す。
「アンブラージュはここほど土が豊ではないと聞く。デリシアは花の国である前に、豊穣の国だ」
「……では、奴らは……」
「来る」
断言であった。
「西の小国を噛み砕いた獅子が、このデリシアを見逃す道理はない」
言葉は短い。だが、その短さのうちに、戦の輪郭はすでに描き切られていた。
倉の入口で、それを見ていたアルベリックがいた。息を潜め、父を見つめていた。
父は剣の人であると、幼い頃はそう思っていた。戦場を駆け、敵を倒し、人々に白狼と称えられる英雄。そういう男なのだと。
だが今、目の前にいる父は違う。
剣を抜かず、声を荒らげず、それでいて人も物も、道も畑も水も、すべてを守るために動かしている。
アルベリックは胸のうちで思う。
父上は、ただ強いのではない。
この国そのものを、その双肩に負っているのだ。
「若君」
背後からの声に、アルベリックは振り返った。
オラスが立っていた。藍の房がかすかに揺れ、鎧の留め金が鈍く光る。
「……父上を、見ていた」
「ようございます。御父上の務めを見ることも、デランブル家を継ぐ者の務めにございます」
その言葉に、アルベリックはわずかに口を引き結んだ。
務め。
父の周りでは、あまりにも自然に口にされる言葉だった。民も兵も役人も、誰もが己の務めを知り、その中心に父がいる。
偉大な父は誇らしい。だが、その誇らしさは、少しだけ胸の内を苦しくした。
倉の外へ出ると、訓練場の方から怒号と剣を打ち合う音が響いてきた。朝の兵たちはすでに汗を流しており、その片隅では負傷兵が包帯を替えられていた。
アルフレッドは倉を出るなり、そちらへ向かった。
「肩はどうだ」
呼ばれた若い兵が、反射的に顔を上げる。先の戦で傷を負った、まだ年若い下級兵。
「は、はい!もう剣は振れます!」
「振れることと、振ってよいことは違う」
アルフレッドは包帯の巻き方を一目見るなり、医兵へ言った。
「締めすぎだ。これでは血が下りぬ」
「も、申し訳ございません」
「責めてはおらぬ」
アルフレッドは僅かに笑みを浮かばせると、若い兵へ向き直る。
「怖かったか」
「……っ」
若い兵は返事に詰まった。周囲の兵たちも、思わず手を止める。
「こ、怖く、ないとは申せません」
「それでよい」
アルフレッドは静かに言った。
「恐れぬ者は、己の命も隣の命も粗末にする。恐れを持つことが肝要だ」
「お、恐れを持つ……それで戦えるのでしょうか」
「ならば、守るべきものを心に持て」
訓練場に風が渡った。兵たちは誰ひとり口を開かない。
「己が倒れれば、誰かの畑が荒れる。誰かの子が泣く。誰かの明日が絶える。守るべきものを持つ人は、強くなれる」
若い兵は目を輝かせ、深く頭を垂れた。周囲の兵たちの面持ちも、わずかに変わる。
白狼を信じるのは、彼が勝つからだけではない。戦士としての“道標”を示してくれる存在だからだ。
やがて、褒賞の帳簿が持ち込まれた。
「西境で敵斥候を退けた者への下賜を」
「はい。こちらに――」
文官が名を読み上げようとしたところで、ひとりの老齢の士官が口を挟んだ。
「アルフレッド様、まずは家格ある者へ厚く賜るべきかと。戦時においては、諸家の顔も立てねば――」
空気が、わずかに濁る。
アルベリックはその男を見た。言っていることは乱世では珍しくない。だが、耳に心地よい話でもなかった。
アルフレッドは静かに士官に目線を移す。
「諸侯の顔を立てて、この国が強くなるのか」
「……」
「命を懸けて働いた者に厚く礼を返すのは、国として当然である」
声は低く、静かだった。それだけに、反論の余地がない。
「下賜は功に応じて配れ。遺族への取り分を先に分けよ。田畑を離れている者の家には、収穫補助も付けよ」
「はっ」
文官が深々と頭を下げる。兵たちの顔には、あからさまな安堵が浮かんでいた。
アルベリックの胸は熱くなった。
これが父だ。
誰かに諂わず、誰かを切り捨てず、正しさを正しさとして通す。
だが同時に、その背はあまりに遠かった。
父は自分の父であるはずなのに、兵のための父でもあり、民のための父でもあるように見える。その広さの中で、自分ひとりが占める場所の小ささを、アルベリックはふと感じてしまう。
追いつきたい。けれど、追うほど遠い。
その想いを呑み込むように、アルベリックは木剣の柄を強く握った。
その午後、城下へ避難してきた農民たちの列を、アルフレッドは自ら見て回った。
泣き疲れて眠る幼子に毛布を掛け、腰を痛めた老人の荷を兵に持たせる。薬草畑から来た娘が種袋を抱いて震えていれば、「それは持って来てよかった」と、ただ一言告げる。娘は泣いていた。種は来年の畑になる。戦のさなかにあって、その“来年”を口にしてくれる者がいたことに。
夕刻、再び兵が報告に来た。
今度の馬は、前のもの以上に息を荒げていた。鞍の脇には乾いた血がこびりつき、声は掠れている。
「申し上げます!アンブラージュ軍、さらに東進!焼かれた村、三つ!街道の要所にも兵を置き、荷の流れを押さえにかかっております!」
「……穀倉を狙っておりますな」
オラスの低い呟きに、アルフレッドは頷いた。
「獅子王は、戦の仕方を知っている」
そして、倉でも訓練場でもなく、ただ沈みゆく西日を見た。
そのとき、王都からの紋章旗を掲げた使者が、城門をくぐった。兵が道を開ける。役人たちが息を呑む。
使者は膝をつき、封蝋付きの書状を差し出した。
「王命にございます。西方防衛の要、ボルディオン城塞へ、アルフレッド・デランブル様の着陣を請うとのこと」
アルベリックは息を止めた。
ボルディオン。王都外縁を守る、最後の壁。
そこへ父が向かうということは、もはやこれは国境の小競り合いではない。
王国そのものの戦であった。
アルフレッドは書状を受け取り、封を切り、ひととおり目を通したのち、静かに閉じた。
「……承ったと伝えよ」
それだけだった。
だが、その場に居並ぶ誰もが理解した。白狼は、ついに国の最後の壁へ立つのだと。
西の空は赤く染まり、その色はどこか、まだ見ぬ戦火を思わせた。
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