最終話 白狼の残影
あれから何年経ったのか。もはやそれすらも気にしていなかった。
影の仕事ばかりを、彼は請け負っていた。
荷を替える。札を偽す。人を隠す。追手の目を逸らす。潜み先を変える。口を塞ぐ。死体を片づける。
誰の手柄にもならず、ただ成功した時だけ跡形もなく消える。
アンブラージュ領ゼンブラ。
戦と流民と商いが、同じ泥の上で混ざり合う町だった。王都のような気高さはない。だが、戦で肥えた荷主と、国を失った者と、血の匂いを嗅ぎつけて寄ってくる傭兵とが、昼も夜も絶えず出入りしていた。
夕暮れの路地を、ひとりの若い男が歩いていた。
肩に担いだ荷は、ありふれた染布の束にしか見えない。歩幅は広すぎず、背も高く見せない。視線は低いが、何も見逃してはいない。曲がり角の先、窓の隙間、桶を抱えた女の足の止まり方、道端に腰を下ろす酔漢の指先にまで、静かに目を配っている。
もう誰も、彼をアルベリック・デランブルとは呼ばなかった。
その名を呼べる者もいない。
いまここにいるのは、ただ影のように出入りし、名もなく働く、単なるひとりの若者だった。
つい昨夜も、薬箱を抱えた若い娘へ闇で仕入れた薬を流した。
アン・カイザーハイン――。
そんな名だったか。礼を言われる前に立ち去ったから、その顔ももう曖昧だ。覚えておかない方がよい。名を残さぬ仕事とは、そういうものだった。
路地の奥、崩れかけた石倉の前で、荷車を押す老婆が車輪を溝へ取られていた。急げば、そのまま通り過ぎられる。実際、周囲の誰も足を止めてはいない。
だが若い男は一瞬だけ立ち止まり、荷の端を地へ置いた。黙ったまま車輪を持ち上げ、石を噛ませ、老婆が押し直せるところまで整えてから、何事もなかったように踵を返す。
「……ありがとうよ」
背に飛んだ掠れ声へ、彼は振り返らない。
ただその先、軒下にしゃがみ込む痩せた子どもの前でだけ、歩みがほんのわずかに鈍った。子どもは落ちた乾果を見つめていたが、拾えば店主に殴られるのだろう、指先を伸ばしきれずにいる。
若い男は、荷の陰から乾いた豆をひとつだけ転がした。
それ以上は何もしない。やりすぎれば目立つ。目立てば、生き残れない。
石倉の裏手に回ると、戸口の陰から女が現れた。旅装の上に粗い外套を羽織っているが、その立ち方は平民のものではない。腕には布で包んだ細長い箱を抱え、その後ろには顔色の悪い少年がひとり、壁に身を寄せていた。
「遅いよ」
女が低く言う。
「見張りが二人、表へ増えた」
若い男は荷を下ろし、染布の束の芯から薄い木札を抜き取った。荷札ではない。宿場の通行印に似せた偽札。さらに布の下から麻袋を出すと、中には薬包と乾パン、汚れた外套、安物の旅杖が二本入っていた。
「川沿いへは出るな。三つ目の角で左。干上がった用水路を渡った先に荷馬小屋がある。そこへ一刻だけ隠れろ」
「追手は」
「一度、南へ流す」
「あんたは」
問われても、若い男は答えない。
代わりに少年の肩口を見た。布の下から滲む血がある。
「歩けるか」
少年は青ざめながら頷いた。
「歩けぬなら、この先、生き延びることはできないぞ」
冷たい言い方だった。女は息を呑み、少年は唇を噛んだ。
「……歩けます」
「なら行け」
短く言い捨てる。
だが若い男は、最後に薬包をひとつ余計に押し込んだ。少年が夜を越えられる程度のものを。
女はその手元を見て、何か言いかけ、しかし結局は黙って頭を下げた。
二人が消えると、若い男は荷を担ぎ直し、別の路地へ出た。わざと兵の見張りの視界を横切り、南へ向かう荷運びを装って足取りを残す。途中で酒樽を積んだ荷車の陰へ潜り込み、外套を裏返し、帽子の形を変え、次に姿を現した時には、もう別人だった。
追う者に見つかる前に、見つかるべき影だけを置いて消える。それがいまの彼の仕事だった。
表に立つ器ではない。誰かに号令をかける才も、名の下に人を束ねる望みも、とうに持てなくなっていた。
あまりに遠く、孤高であり、完璧すぎた父の背を仰いだ白狼の子は、父のような立場になるなど想像もできずにいた。
だからこそ彼は、命じられる側に馴染み、影へ沈むことを覚えた。その在り方は、不思議なほど彼に馴染んだ。
夜が深まり、仕事を終えた彼は川べりの裏道へ出た。ここから先は消えるだけだ。依頼主も、運んだ相手も、今夜の彼を思い出すことはない。
それでよかった。名を残す生き方は、もう終わっている。
「消え方が上手いな」
不意に、声がした。
若い男の足が止まる。
振り向けば、石橋の欄干にもたれるようにして、ひとりの男が立っていた。外套は旅塵に汚れ、腰には実戦向きの剣。年はまだ若い。だが、その目だけが獣のように静かだった。
若い男は何も答えない。
ただ逃げ道と間合いを測った。
相手もまた、それを見ている。足の置き方。呼吸。袖口に残る癖。沈黙の長さ。人そのものを値踏みする目だった。
「さきほどの荷だ。南へ偽装したな」
男は欄干から身を起こした。
「兵の目線も、町の流れも、追う側の手順も分かっている」
若い男は、無言を貫く。
「役に立つかどうかを見ていた」
その言葉に、若い男の眉がわずかに動く。
救う、ではない。憐れむ、でもない。
役に立つかどうか。
あまりに乾いたその値踏みが、かえって信用に足った。飾りのある言葉より、ずっとましだった。
「お前は誰に雇われている」
「答える義理はない」
「そうか」
男はそれ以上、追わなかった。過去を暴かない。名を急かさない。だが視線だけは外さない。
「私はここゼンブラで人を集めている。傭兵団を結成するためだ」
短く言う。
「戦える者も要る。荷を運べる者も要る。情報を扱う者も必要だ」
若い男は黙った。
「お前のような人間を探していた」
それは甘い誘いではなかった。ただ必要だから拾う。使えそうだから連れていく。
そういう声だった。
若い男は初めて、その男をまともに見た。
まだ若い。だが、立ち方に無駄がない。何を背負うか、どこで切り捨てるかを、すでに知っている者の静けさがある。
そしてその静けさの底に、ほんのわずかだけ、覚えのある気配があった。
あまりに遠く、高く、ついに超えることの叶わなかった白い背。
父そのものではない。似てもいない。だが、情で鈍らず、必要なものだけを見て、迷わずそれを選び取る気配だけが、戦場で誰より静かだったあの人に、かすかに重なる。
胸の奥が、痛む。
男は続けた。
「人を率いる顔ではないな」
若い男の目がわずかに細まる。
「だが、それでいい。前へ立つ者ばかりでは、傭兵団はすぐ潰れる。命じられたことに忠実で、余計なことを喋らず、必要な時だけ手を動かせる人間は貴重だ」
男は若い男の反応を見ながら、静かに語る。
若い男は、小さく息を吐いた。
「私は団体行動には向いていない」
若い男は断ったつもりだった。男は一歩だけ近づいた。
「残念ながら、私は人を見誤ることはない」
その言い切り方や男が纏う雰囲気、やはり父を彷彿とさせる。
――心が揺れた。
若い男は黙ったまま、川面へ目を落とした。
「……傭兵団か」
「そうだ」
男は短く答え、そこでようやく自らの名を告げた。
「私の名は、グラーフ・ヴァンダーヒルト」
その名が、静かに闇に沈む。
「お前の名は」
若い男はゆっくりと顔を上げた。
一拍、沈黙が落ちる。
“アルベリック・デランブル”は、もういない。
白狼の子として、まっすぐ立つことはできなかった。守るために正面へ立つ父のようには、ついになれなかった。
だが、新たな道を生きるための、新たな名をつけるなら、自分で選びたかった。
誰にも謳われず、名誉は捨て、ただ命令に従い、ただ役目を果たす――影の狼。
「グロワール・ハイダーウルフ」
父の“栄光”を胸に残すために。
“名を隠して生きる狼”となるために。
『生き延びよ。お前の成すべきことは、これから先の未来で必ずある』
――“白狼”の最後の命令に、“白狼の残影”としてそれを全うする、そう決意した。
これでこの「白狼の残影」は終了となります。
「双貌のローザリア」に続く、短編のスピンオフ的な立ち位置の作品でしたが、皆様の心の片隅に残る物語になってくれたら幸いです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!




