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白狼の残影  作者: あかまる
後編 「残影」

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12/12

最終話 白狼の残影

 あれから何年経ったのか。もはやそれすらも気にしていなかった。

 

 影の仕事ばかりを、彼は請け負っていた。


 荷を替える。札を偽す。人を隠す。追手の目を逸らす。潜み先を変える。口を塞ぐ。死体を片づける。


 誰の手柄にもならず、ただ成功した時だけ跡形もなく消える。


 アンブラージュ領ゼンブラ。


 戦と流民と商いが、同じ泥の上で混ざり合う町だった。王都のような気高さはない。だが、戦で肥えた荷主と、国を失った者と、血の匂いを嗅ぎつけて寄ってくる傭兵とが、昼も夜も絶えず出入りしていた。


 夕暮れの路地を、ひとりの若い男が歩いていた。


 肩に担いだ荷は、ありふれた染布の束にしか見えない。歩幅は広すぎず、背も高く見せない。視線は低いが、何も見逃してはいない。曲がり角の先、窓の隙間、桶を抱えた女の足の止まり方、道端に腰を下ろす酔漢の指先にまで、静かに目を配っている。


 もう誰も、彼をアルベリック・デランブルとは呼ばなかった。


 その名を呼べる者もいない。


 いまここにいるのは、ただ影のように出入りし、名もなく働く、単なるひとりの若者だった。


 つい昨夜も、薬箱を抱えた若い娘へ闇で仕入れた薬を流した。


 アン・カイザーハイン――。


 そんな名だったか。礼を言われる前に立ち去ったから、その顔ももう曖昧だ。覚えておかない方がよい。名を残さぬ仕事とは、そういうものだった。


 路地の奥、崩れかけた石倉の前で、荷車を押す老婆が車輪を溝へ取られていた。急げば、そのまま通り過ぎられる。実際、周囲の誰も足を止めてはいない。


 だが若い男は一瞬だけ立ち止まり、荷の端を地へ置いた。黙ったまま車輪を持ち上げ、石を噛ませ、老婆が押し直せるところまで整えてから、何事もなかったように踵を返す。


「……ありがとうよ」


 背に飛んだ掠れ声へ、彼は振り返らない。


 ただその先、軒下にしゃがみ込む痩せた子どもの前でだけ、歩みがほんのわずかに鈍った。子どもは落ちた乾果を見つめていたが、拾えば店主に殴られるのだろう、指先を伸ばしきれずにいる。


 若い男は、荷の陰から乾いた豆をひとつだけ転がした。


 それ以上は何もしない。やりすぎれば目立つ。目立てば、生き残れない。


 石倉の裏手に回ると、戸口の陰から女が現れた。旅装の上に粗い外套を羽織っているが、その立ち方は平民のものではない。腕には布で包んだ細長い箱を抱え、その後ろには顔色の悪い少年がひとり、壁に身を寄せていた。


「遅いよ」


 女が低く言う。


「見張りが二人、表へ増えた」


 若い男は荷を下ろし、染布の束の芯から薄い木札を抜き取った。荷札ではない。宿場の通行印に似せた偽札。さらに布の下から麻袋を出すと、中には薬包と乾パン、汚れた外套、安物の旅杖が二本入っていた。


「川沿いへは出るな。三つ目の角で左。干上がった用水路を渡った先に荷馬小屋がある。そこへ一刻だけ隠れろ」


「追手は」


「一度、南へ流す」


「あんたは」


 問われても、若い男は答えない。


 代わりに少年の肩口を見た。布の下から滲む血がある。


「歩けるか」


 少年は青ざめながら頷いた。


「歩けぬなら、この先、生き延びることはできないぞ」


 冷たい言い方だった。女は息を呑み、少年は唇を噛んだ。


「……歩けます」


「なら行け」


 短く言い捨てる。


 だが若い男は、最後に薬包をひとつ余計に押し込んだ。少年が夜を越えられる程度のものを。


 女はその手元を見て、何か言いかけ、しかし結局は黙って頭を下げた。


 二人が消えると、若い男は荷を担ぎ直し、別の路地へ出た。わざと兵の見張りの視界を横切り、南へ向かう荷運びを装って足取りを残す。途中で酒樽を積んだ荷車の陰へ潜り込み、外套を裏返し、帽子の形を変え、次に姿を現した時には、もう別人だった。


 追う者に見つかる前に、見つかるべき影だけを置いて消える。それがいまの彼の仕事だった。


 表に立つ器ではない。誰かに号令をかける才も、名の下に人を束ねる望みも、とうに持てなくなっていた。


 あまりに遠く、孤高であり、完璧すぎた父の背を仰いだ白狼の子は、父のような立場になるなど想像もできずにいた。


 だからこそ彼は、命じられる側に馴染み、影へ沈むことを覚えた。その在り方は、不思議なほど彼に馴染んだ。


 夜が深まり、仕事を終えた彼は川べりの裏道へ出た。ここから先は消えるだけだ。依頼主も、運んだ相手も、今夜の彼を思い出すことはない。


 それでよかった。名を残す生き方は、もう終わっている。


「消え方が上手いな」


 不意に、声がした。


 若い男の足が止まる。


 振り向けば、石橋の欄干にもたれるようにして、ひとりの男が立っていた。外套は旅塵に汚れ、腰には実戦向きの剣。年はまだ若い。だが、その目だけが獣のように静かだった。


 若い男は何も答えない。


 ただ逃げ道と間合いを測った。


 相手もまた、それを見ている。足の置き方。呼吸。袖口に残る癖。沈黙の長さ。人そのものを値踏みする目だった。


「さきほどの荷だ。南へ偽装したな」


 男は欄干から身を起こした。


「兵の目線も、町の流れも、追う側の手順も分かっている」


 若い男は、無言を貫く。


「役に立つかどうかを見ていた」


 その言葉に、若い男の眉がわずかに動く。


 救う、ではない。憐れむ、でもない。


 役に立つかどうか。


 あまりに乾いたその値踏みが、かえって信用に足った。飾りのある言葉より、ずっとましだった。


「お前は誰に雇われている」


「答える義理はない」


「そうか」


 男はそれ以上、追わなかった。過去を暴かない。名を急かさない。だが視線だけは外さない。


「私はここゼンブラで人を集めている。傭兵団を結成するためだ」


 短く言う。


「戦える者も要る。荷を運べる者も要る。情報を扱う者も必要だ」


 若い男は黙った。


「お前のような人間を探していた」


 それは甘い誘いではなかった。ただ必要だから拾う。使えそうだから連れていく。


 そういう声だった。


 若い男は初めて、その男をまともに見た。


 まだ若い。だが、立ち方に無駄がない。何を背負うか、どこで切り捨てるかを、すでに知っている者の静けさがある。


 そしてその静けさの底に、ほんのわずかだけ、覚えのある気配があった。


 あまりに遠く、高く、ついに超えることの叶わなかった白い背。


 父そのものではない。似てもいない。だが、情で鈍らず、必要なものだけを見て、迷わずそれを選び取る気配だけが、戦場で誰より静かだったあの人に、かすかに重なる。


 胸の奥が、痛む。


 男は続けた。


「人を率いる顔ではないな」


 若い男の目がわずかに細まる。


「だが、それでいい。前へ立つ者ばかりでは、傭兵団はすぐ潰れる。命じられたことに忠実で、余計なことを喋らず、必要な時だけ手を動かせる人間は貴重だ」


 男は若い男の反応を見ながら、静かに語る。


 若い男は、小さく息を吐いた。


「私は団体行動には向いていない」


 若い男は断ったつもりだった。男は一歩だけ近づいた。


「残念ながら、私は人を見誤ることはない」


 その言い切り方や男が纏う雰囲気、やはり父を彷彿とさせる。


 ――心が揺れた。


 若い男は黙ったまま、川面へ目を落とした。


「……傭兵団か」


「そうだ」


 男は短く答え、そこでようやく自らの名を告げた。


「私の名は、グラーフ・ヴァンダーヒルト」


 その名が、静かに闇に沈む。


「お前の名は」


 若い男はゆっくりと顔を上げた。


 一拍、沈黙が落ちる。


“アルベリック・デランブル”は、もういない。


 白狼の子として、まっすぐ立つことはできなかった。守るために正面へ立つ父のようには、ついになれなかった。


 だが、新たな道を生きるための、新たな名をつけるなら、自分で選びたかった。


 誰にも謳われず、名誉は捨て、ただ命令に従い、ただ役目を果たす――影の狼。


「グロワール・ハイダーウルフ」


 父の“栄光”を胸に残すために。


“名を隠して生きる狼”となるために。


『生き延びよ。お前の成すべきことは、これから先の未来で必ずある』


 ――“白狼”の最後の命令に、“白狼の残影”としてそれを全うする、そう決意した。

これでこの「白狼の残影」は終了となります。

「双貌のローザリア」に続く、短編のスピンオフ的な立ち位置の作品でしたが、皆様の心の片隅に残る物語になってくれたら幸いです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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