第11話 最後の命令を果たす者
槍も、鎧も、旗も、この身にはいまだ馴染まなかった。
アンブラージュ軍の列に紛れて歩きながら、オラスはそう思っていた。胸当てに打たれた白百合の紋。濡れた革帯。粗い鉄の匂い。肩へ食い込む槍の重み。どれも兵として長く生きてきた身には知った感触のはずなのに、いま纏っているそれらは、ことごとく異物であった。
アルフレッドから受け取った藍の房も、裂けたものを細く残すのみ。
いまの彼は、帳面の上ではアンブラージュの一雑兵にすぎなかった。
アルベリックと別れたのち、オラスはアンブラージュの軍門に下った形を取っていたのだ。
軍へ入ってからというもの、汚れ仕事も、荷役も、死体運びも、検問も、流民の選別も、何でもやった。生き残るためではない。生き残った先で、なお命令を果たすために。
人の顔をして立ってはいるが、鏡があれば、もはやかつてのオラス・ベルガルドではない。
それでも、足だけは止めない。
“白狼”の最後の命令だけが、いまだこの身を動かしていた。
若君は、まだどこかで生きているはずだ。そう信じているからこそ、オラスはここまで落ちてもなお、死ねなかった。
デリシアが滅んだ後も、アンブラージュはローザリア東方の小国を次々と飲み込んでいった。
そして、今宵の侵攻対象は、東方ではなかった。
北に位置し、外界との接触を断ってきた“謎の国”。
――デラヴイユ王国。
丘上に連なる白亜の楼が、投石機の火を浴びて崩れてゆく。尖塔が裂け、回廊が砕け、城都の輪郭はいまや炎の色に塗り潰されていた。見上げれば美しかったはずの都は、ただ燃えながら崩れ落ちていくばかりである。
怒号。泣き声。逃げ惑う影。砕ける門。
まただ、とオラスは思った。
ボルディオンの夜が、脳裏の奥で裂けた。雨に濡れた石畳。燃える門。白い外套。
生涯の主である“白狼”を失ったあの夜の痛みは、時が過ぎても薄れはしない。
獅子王は、国を滅ぼしているのではない。
――同じ夜を繰り返している。
父が子を逃がし、兵が民を踏みにじり、名ある国がひと晩で亡国になる、その夜を。
何度、この夜を繰り返せば気が済むのだ。
その思いを喉の奥へ押し込み、オラスは列から外れた。正面の攻めに回る役ではない。いま与えられているのは、崩れた外壁沿いの巡視と、裏手の逃走路封鎖である。逃げ延びる者を狩り、潜む影を炙り、残党を片づける。汚れ仕事だ。だが、もはやそうした役目のほうが、この身には似合っていた。
排水路の脇を進む。石壁には煤がこびりつき、水は赤黒く濁っていた。焼けた木片が流れ、どこかで女の悲鳴が短く上がって、すぐに消えた。
オラスは槍を握り直す。
逃げる者がいるなら、この先だ。
そのときだった。
側道の並木の切れ目で、影が走った。
若い男と、その傍らに寄り添う騎士風の男。そして、腕に抱かれた小さな布包み。
オラスの足が止まる。
向こうもまた、息を呑んで立ち尽くした。
咄嗟に騎士が半身となり、若い男と赤子を背に隠す。腰の剣へ手を添える所作に迷いはない。若いほうは息を切らしていたが、その眼差しの奥に、折れない決意のようなものが垣間見える。
ああ、とオラスは思った。
また父が子を逃がす夜か。
抱かれているのは、まだ生まれて間もない赤子なのだろう。布の端から覗く頬は白く、小さな喉がかすかに鳴っている。
その光景が、容赦なく別の夜を刺し返した。
ボルディオンの高みに立つ、白き外套を纏った“白狼”の姿。
地下へ落ちていく冷気。
振り返れば城が燃えていた。
年齢が違うのに、あの時のアルベリックの面影が、その小さな命の輪郭と重なった。
槍先が、わずかに下がる。
「……赤子か」
喉から出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
若い男が息を強く呑む。騎士はなお剣へ手をかけたままだ。斬るなら一太刀と言わんばかりに、火の粉が舞う夜気の中で鋭く立っている。
オラスは、燃え落ちる都をひと目見た。
崩れる門。炎に照らされた石壁。逃げ惑う影。
ボルディオンも、同じだった。
「獅子王は……何度、この夜を繰り返す」
言葉は、ほとんど吐息のように零れた。
その一瞬で十分だった。向こうの二人もまた、この中年兵がただの追手ではないと悟ったのだろう。沈黙が走る。槍を構えたまま、オラスは目を閉じる。
白狼に顔向けできる生き方など、とうに失った。
それでも、最後まで命令に従うなら。
守るべきものを見失わぬなら。
この夜に限っては、まだ”人”でいられるかもしれない。
オラスは目を開いた。
「……先へ参られよ」
短い言葉だった。だが、それで足りた。
若い男が息を呑み、騎士の指が剣から離れる。二人の目に、驚きと警戒と、それでも押し返せぬ必死さが同居していた。
「このご恩、忘れません」
若い男が頭を垂れる。
オラスは答えない。ただ道の脇へ身を引き、槍の石突きを地へ軽く落とした。
二つの影とひとつの小さな命は、並木の奥へ消えていく。
見送ったあと、オラスはしばし動けなかった。
これでよかったのだと、誰が言えるだろう。敵兵として見逃せば、それは裏切りに等しい。だが忠義とは、旗の色に従うことではない。あの夜、アルベリックを生かすため泥へ沈んだ時から、この身の忠義はすでに美しい形を失っていた。
ならば、せめて今宵だけは。
背後で兵の怒鳴り声が上がる。別の持ち場から、逃走者なし、の声。ほどなく、この側道も見張りが増えるだろう。長く留まれば、自分が怪しまれる。
オラスは槍を取り直し、炎のほうへ向き直った。
救いはない。
あるのは、また闇へ戻ることだけだ。
それでも足は前へ出た。獅子の紋を胸に付けたまま、オラスは燃える都のほうへ歩き出す。忠義を捨てたのではない。忠義を果たすために、こうして敵の側へ落ちただけだ。その答えだけを抱え、炎の中へ還っていく。
やがて彼の背は、火と煙に呑まれて見えなくなった。
*
それから幾十年の後。
聖都ルクス=アークで催された二国間の和平合議にて、ローザリアは一つの結果を示す。湧き上がる大観衆の片隅に、オラスは立っていた。
『生き延びて、このローザリアの行く末を見届けよ』
生涯の主たる“白狼”アルフレッド・デランブルから受けたこの“最後の命令”を、オラスは果たしたのである。
泥にまみれ、忠義の形を失い、それでもなお、生き延びたことによって。
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