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白狼の残影  作者: あかまる
後編 「残影」

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第10話 別れの朝

 朝と呼ぶには、あまりにも冷たい光だった。


 夜を凌いだ森の浅い窪地には、まだ湿った土の匂いがこもっていた。火はとうに落ち、草の先には白く鈍い霜が浮いている。空は低く、雲は重い。夜のあいだ吹きつづけた風だけが、何事もなかったように枯れ枝を鳴らしていた。


 街道の様子を窺っていたオラスが、藪の向こうから戻ってくる。


「検問が増えております」


 声は低く、事実を置くだけの調子だった。


「若い男に対し、荷を下ろさせて腕や肩まで見ているようでございます」


「……そうか」


「“白狼”の子を探しているのでしょう」


 あまりにも平坦な言い方だった。


「若君」


 オラスは振り返った。いつもと変わらぬ敬語で、だからこそ刃のようだった。


「ここから先は、ご一緒できません」


 アルベリックは目を見開いた。


「……何を言っている」


 喉が強張る。


 オラスはアルベリックに目線を移し、少しだけ目の色を変えた。


「私がいる限り、若君は“ただの若い流民”にはなれませぬ。私はアルフレッド様の側近として、デリシアの内外で顔を知られております。ボルディオンから落ち延びた兵、捕虜となった者、寝返った者、占領下で恩を売ろうとする者――誰の目に触れても、おかしくはございません。その点、若君は先日、初陣を果たしたばかり。それほど広くは知られておらぬはずです」


 オラスは、ただ淡々と告げた。


「“若い男と中年の兵”という言葉。昨夜の時点で、追手はすでに我々を追っております。二人で動き続ければ、若君は“白狼の子”として疑われましょう」


「オラス、お前はどうするのだ」


 オラスはしばし黙し、やがて低く言った。


「……私も生き延びねばなりませぬ」


「父上の最後の命令か。“生き延びて、このローザリアの行く末を見届けよ”という」


「泥水を吸ってでも」


 オラスは目を伏せた。


「二人が生き延びるためには、こうするほかございません」


 その言葉に、アルベリックは返す言葉を失った。だが、胸の奥には別の疑念が浮かんでいた。


「お前は……どうしてそこまで命令に従うのだ。もう父上はおらぬ。従う理由は、ないはずだ」


 オラスは、その問いを受け止めたまま、ゆっくりと膝をついた。


「若君。ひとつだけ、お話ししておきましょう」


 その口調に、アルベリックは息を呑んだ。


「私は、もとよりデリシアの生まれではございません。……東の小国の、王族の末端に連なる者でございました」


 オラスの目は、森の薄明の向こうにある、遠い昔を見ていた。


「戦乱の中、祖国は滅びました。父も、母も、兄弟も、皆失い、私は流民となりました。名も捨て、泥をすすり、盗みを覚え、奪われぬために先に奪うことまで考えました。そして、私は“人”から“獣”に成り下がった」


 予想にもしていなかった。


 だが、納得した。


 これまでのオラスの行動は、そうした過去の経験から来るものだったのだと、はじめて理解できた。


「その折、アルフレッド様に救われたのでございます。謂わば、命の恩人にございます。そして、私は再び“人”に戻れたのです」


 そこで初めて、オラスの喉がわずかに詰まった。


「ゆえに、アルフレッド様のご命令は、私にとってこの命そのものでございました。あの方にいただいたものを返す術は、従うこと以外にございませぬ」


 アルベリックは言葉を失った。


 昨夜からの冷たさ。検問での侮り。見捨てろと言い切ったこと。すべてが、この男自身の喪失と、父の命令を守るために、自らの情を殺した結果なのだと、ようやく繋がる。


 オラスは包みを差し出した。


「銀貨が三枚。南へ下れば、川沿いに朽ちた祠がございます。その裏に小径があり、二日で灰岳のふもとへ出られます。そこまで出られれば、デリシアの者とは疑われませぬ」


 地図の余白には、水場の位置、検問の時刻、避けるべき宿場、そして山小屋まで記してあった。別れを告げる男の用意ではない。どうにかして生かそうとする者の手際だった。


 それが余計に、アルベリックにはつらかった。


「若君、私を恨んでいただいて構いません」


 オラスは、何か決定的に泥をかぶる覚悟を示していた。


 アルベリックは一歩踏み出した。掴み止めようとした。だが、空腹と疲労で膝がわずかに崩れ、湿った地へ手をつく。


 オラスはその一瞬に立ち上がった。


「行ってはならぬ!」


 オラスは踵を返し、街道へ向かう。


「……オラス!」


 絞り出した声に、返事はない。


 ただ藪の向こう、朝とも昼ともつかぬ淡い冬光の中へ、あの男の背が静かに溶けていく。


 振り返らなかった。


 それが忠義であることを、頭では分かる。


 分かるのに、心はただ、また置いていかれたとしか感じられなかった。


 やがて足音が消える。


 森の浅い窪地には、アルベリックだけが残された。


 濡れた土、冷えた風、押しつけられた包み、そして、あの男が置いていった未来だけがそこにある。


 包みの下には、もう一枚、小さな紙切れが挟まれていた。


 ――白狼の御子が、飢えと寒さで果てることを、アルフレッド様はお望みになりませぬ。


 ――アルベリック様。どうか、生き延びてくださいませ。


 それを見た瞬間、アルベリックは紙を握り潰した。


 怒りなのか、喪失なのか、感謝なのか、自分でも分からない。


 ただ、胸の内に空白だけが広がっていった。


 それでも、その空白の底に、消えきらぬものがあった。


 あの男は、最後まで父の命令に従ったのだ。


 そして、自分を生かすために、自ら泥をかぶって去っていったのだ。


 アルベリックは握り潰した紙を、ゆっくりと胸へ押し当てた。


 泣くこともできなかった。


 ただ、冷えきった朝の中で、言葉にならぬまま、感謝だけが胸の底へ沈んでいった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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