第1話 白狼の騎士
朝の光を受けて、豊穣の大地は黄金色に輝きながら、果てなく波打っている。
大地には色とりどりの花が群れている。実りへ向かう麦穂はやわらかに揺れ、その間を縫うように細い水路が走っていた。澄んだ流れは青空を映し、果樹園では淡い果実を宿した枝々が静かに揺れている。少し離れた薬草畑では、朝露を抱いた葉が静かな光を返していた。
美しい――ただその一語では尽くせない景色。
ローザリア東方に位置するデリシア王国。
人はいつしか、この国を“花の国”と呼ぶようになった。
その豊かな地を、ひとりの男が歩いていた。
白い外套が朝風にはためく。身に着けた鎧は軽く、腰には一振りの剣。武人の装いではある。だが、その姿には無用な威圧がなかった。歩みは静かで、眼差しは遠くまで向けられている。
農夫たちが鍬の手を止め、荷車を引く者が道を空け、花摘みの娘たちがそっと頭を垂れた。
「アルフレッド様」
「白狼様、おはようございます」
呼びかけに、男は短く頷いた。
デリシア王家に代々仕える武門の棟梁。白き狼の家紋を掲げる名門デランブル家の当主。
“白狼”――アルフレッド・デランブル。
この国の守護神とまで謳われるその男は、ローザリア大陸屈指の名将としても知られていた。
「水は足りているか」
問われた農夫は、はっと背を伸ばした。
「はい。今年は西の用水もよう流れて来ております」
「次の雨が遅れれば、土はすぐに痩せる。堰の石組みは今月のうちに見直しておくがよい」
「承知しました!」
命じられたからではない。見てもらえたことそのものが、男には誇らしかった。
アルフレッドはそのまま歩み、花畑の脇で白花を摘んでいた老女へ目を留めた。
「膝はどうだ」
ただ一言。それだけを聞く。
「……おかげさまで、今日は痛みも穏やかでございます」
「無理はなさらぬよう」
それだけで、老女は笑顔を見せる。
アルフレッドはただ剣を振るう男ではない。この国の土を知り、水の流れを知り、人の暮らしの重みを知る男だった。
畑の向こうから、小さな足音が駆けてくる。
「父上!」
振り返れば、少年が朝日に目を細めながら走ってきた。鍛錬帰りなのだろう。額には汗が光り、背には木剣がある。まだ頬には幼さが残る。だが、その眼差しの奥には、まっすぐすぎるほどの熱が宿っていた。
アルベリック・デランブル。
アルフレッドのただ一人の息子であり、名門デランブル家の後継者。
「アルベリック。鍛錬だったか」
「はい!」
弾むように答えたあと、少年は背筋を正した。
そのときだった。
乾いた土を打つ馬蹄が、遠くから近づいてきた。
振り向けば、ひとりの中年兵が馬上から素早く身を降ろす。年季の入った鎧の継ぎ目には歴戦の傷が幾筋も走っていた。藍の房が、わずかに風に揺れる。
オラス・ベルガルド。
アルフレッドに長く仕える古参兵であり、デランブル家を内から支えてきた男だった。
「アルフレッド様」
一礼ののち、オラスはすぐにアルベリックへ向き直る。
「若君、おはようございます」
「おはよう、オラス」
オラスはアルベリックに対しても決して敬語を崩さない。アルベリックに一礼したあと、アルフレッドに目線を移す。
「西の街道より報せが入りました」
その一言で、和やかな朝の空気にわずかな緊張感が走る。
花を摘んでいた娘たちの指が止まり、倉番の男が顔を上げる。遠くで鳴いていた鳥が、ひときわ高く飛び去っていった。
アルフレッドは表情を変えずに、先を促す。
「申せ」
「西境を越えて流れてくる者が増えております。街道筋では、焼けた荷車も見つかりました」
「……戦か」
「恐らくは」
オラスは低く続けた。
「白百合の旗を見た、と申す者もおります」
その名が落ちた瞬間、誰もが息を潜めた。
白百合の旗――。西に位置するアンブラージュ王国。
“獅子王”――シャルル・ド・アンブラージュ。
先代王の崩御を受けて即位した若き王。自らを獅子と称し、戴冠よりも早く領土拡張を掲げた男である。西ではすでに、いくつもの小国がその牙に噛み砕かれたと伝わっていた。
時を同じくして、街道の方角から、疲れ切った馬が一騎、半ば転がるように駆け込んできた。騎手の肩には破れた外套、馬の腹は泥と泡にまみれている。門前で落ちるように鞍を離れた男は、声を張ろうとして激しく咳き込み、それでもなお叫んだ。
「西の砦が……落ちました!アンブラージュ軍が迫っております……!」
畑のあちこちで小さなどよめきが起こる。誰かが祈りの文句を噛み、誰かが我が子の肩を抱いた。
アルベリックは拳を握りしめた。
「父上。私も――」
言いかけた息子を、アルフレッドは見た。その眼差しは厳しく、そして深い静けさを湛えていた。
「逸るな、アルベリック」
声は大きくない。だが、不思議とその場のすべてに届いた。
「剣を抜くのは、守るものを見失わぬ者だけだ」
アルベリックは唇を引き結ぶ。アルフレッドは視線で、周囲を示した。
「よく見るのだ。この国の、何を守るのかを」
アルベリックは息を呑み、視線を巡らせる。
黄金の穂、朝日にきらめく水路、果樹の列。花を抱えた娘、祈りの糸を指に絡める老女、袋を運ぶ子ら。恐れを飲み込みながら、それでも今日という日を始めようとしている人々。
そして、アルベリックは気付く。
守るとは、敵を斬ることだけではない。この景色を、明日へと繋ぐことなのだと――。
アルフレッドはオラスへ向き直る。
「急使に宿を手配せよ。馬にも水を」
「はっ」
オラスは即座に踵を返した。躊躇いがない。命令が下る前から、内容を見越していた者の動きである。
アルフレッドは最後に、西の方角へ目線を移す。
風が吹くと、麦穂の海が一斉に揺れ、その波の向こうにいつもと変わらぬ朝がある。
変わらないはずの、民の暮らしがある。
アルフレッドは誰に向けたとも分からないほどの低い声で、しかし確かに言った。
「……獅子王か」
そのひと言だけで、朝はもう、先ほどまでの朝ではなくなった。
白い外套の裾が、風に翻る。
アルフレッドは民と子の前に立ち、その静かな目で国の西を見据えた。
「備えよ」
短い命が落ちる。
「デリシアにも、戦が来る」
花の国へ、戦の影が差した。
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