異世界カフェ・パーチ〜元地球人のダークエルフは異世界でも人の悩みが変わらない事を知っている〜
水と太陽の都ウディーツァ。
職人と冒険者が行き交う下街の一角に、一軒の小さなカフェがある。
表通りから外れた路地裏。
風が吹き抜けるその場所に、木の香りをまとった明るい窓を持つお店が顔を見せる。
――カフェ・パーチ。
目的地にするには少し分かりにくく。
立ち止まるには、ちょうどいい場所だ。
異世界情緒あふれる客が、今日も気まぐれに腰を下ろす。
鎧を脱いだ冒険者、工具袋を提げた職人、役所帰りの者。
彼らは皆、少しだけ疲れた顔で、ここを止まり木に選ぶ。
カウンターの内側に立つのは、ダークエルフのバリスタ――セシル。
銀の髪に、静かな翠の瞳。
落ち着いた所作で豆を挽き、湯を注ぐ。
異世界に転生してから二十五年。
ようやく手に入れたこの店は、彼にとって何よりの宝物だった。
世界が変わっても、人の営みはそう変わらない。
悩み、迷い、誰かに話したくなる気持ちも同じだ。
今日もセシルは、コーヒーと一緒に。
その「変わらないもの」を受け取る準備をしている。
日が傾き、下街の喧騒が少しだけ和らぐ頃。
カフェ・パーチの扉についたベルが、軽やかな音を立てた。
入ってきたのは、サイナンスロープ――犬獣人の若い女性だった。
淡いカフェ・オ・レのような色合いの髪と毛並み。
普段なら忙しなく揺れているはずの尻尾は、今日は力なく左右に揺れている。
「今日も疲れた〜」
カウンターに肘をつき、そのまま椅子に身を預ける。
「てんちょ〜、きっついの頂戴〜」
セシルは微かに口元を緩め、何も言わずに豆を量った。
アリシアの好みは、フルーティーな浅煎り。
そこにたっぷりのミルクと、角砂糖を三つ。
湯を注ぐと、軽やかな香りが店内に広がる。
差し出されたカップを手に取ったアリシアは、まず深く息を吸い、
それから一口だけ口に含んだ。
「……にっが〜い」
言うが早いか、ミルクを足し、角砂糖を一つ、二つ、三つ。
迷いなく放り込んで、スプーンで勢いよくかき混ぜる。
「あっま〜い」
満足そうに息を吐くその様子に、セシルの胸も少しだけ温まる。
さっきまで元気そうに振られていた尻尾は、
しかしすぐにぺたりと力を失った。
「てんちょ〜。聞いてくださいよ〜」
「今日は、どうされましたか?」
穏やかな問いかけに、堰を切ったように言葉が溢れる。
「もう、あの主任の下で働くのやだ〜」
「ただでさえ、毎日、まいにち! 冒険者さんのセクハラやパワハラに、耐えに耐え抜いてるのにですよ!」
「ま〜〜〜〜たっ! あの主任が、ぶつくさぶつくさっ!」
「も〜〜〜〜っ、耐えられません!」
がしゃん、と荒っぽくカップが音を立てる。
「あ、いけない!」
舌を出して慌てるアリシアに、セシルはただ微笑みで返した。
「冒険者のアイドル、美人受付嬢のアリシアさんにしては、らしくありませんね」
軽い毒を含んだ一言に、アリシアは仏頂面を作る。
「でも今回は酷いんですよ!」
「いつも私が出してる、冒険者の報告書の査定!」
「ほとんど、支給される時には主任が勝手に書き換えちゃってるんです!」
はぁ〜、と盛大な溜息。
「私、信用されてないんですよ〜」
「落ち込んじゃうな〜……」
「おやおや。アリシアさんには、心当たりがないんですか?」
セシルの穏やかな声に、アリシアは勢いよく首を振った。
「私、ちゃんと規定通りにやってるんですよ〜」
「でも今日、何気な〜〜く過去の支給記録を見たら、微妙に変わってるのがあって」
「別に冒険者さんから文句が出てるわけでもないし、主任にはその権限があるから……いいんですけど〜」
納得していない声音だった。
セシルは口元に手を当て、少しだけ考える。
「それは、特定の冒険者だけを優遇している、ということですか?」
「違うと思う」
すぐに否定したあと、顔をしかめる。
「けど、あの陰険眼鏡が若い女性冒険者に色目を使ってると思うと……」
「うげ〜。気持ち悪〜」
「ふむ。では、特定のタイミングで増減するとかは?」
「それも無いかな〜」
アリシアは指を折りながら考える。
「でも、そのままの時もあったんだよね〜」
「やっぱり、嫌われてるのかな〜……」
耳までぺたりと伏せてしまう。
セシルは新しくコーヒーを注ぎ、カップを静かに置いた。
そして、もう一つだけ質問を重ねる。
「書き換えられているのは、アリシアさんの書類だけですか?」
「あっ」
声を上げて、アリシアは鞄から書類束を取り出した。
「よく見たら……他の人のも、変えられてる」
セシルの眉間に、わずかに皺が寄る。
「主任さんは、真面目な方だったんですよね?」
「うん。遊んでる姿も、サボってるところも、見たことないかも」
「では、支給額と出金額、ギルドの残高に違算は?」
「まさか!」
慌てて書類に視線を落とし、すぐに肩の力が抜ける。
「勘弁してくださいよ、てんちょ〜」
「さすがに、それはありませんでしたよ〜」
湯気の向こうでアリシアの顔を静かに見つめた。
セシルはすぐに答えを口にしなかった。
カフェ・パーチには、夕暮れの光が差し込んでいる。
大きな窓から伸びる影が、木の床にゆっくりと形を変えていった。
豆の残りを確かめ、ポットを持ち替える。
こういうとき、手を動かすと考えがまとまりやすい。
書類は正確。
帳簿も合っている。
冒険者からの不満もない。
それでも、数字は「少しだけ」変わっている。
悪意があるなら、もっと露骨になる。
怠慢なら、辻褄が合わない。
誰かを陥れる意図も感じられなかった。
セシルは、前の世界で過ごした日々を思い出す。
会議室、資料、表計算。
誰もが正しく、だからこそ噛み合わないことがあった。
アリシアは黙って、カップの中を覗き込んでいた。
表面に映る自分の顔が、ゆらりと歪む。
「……てんちょ〜?」
「少しだけ、考えさせてください」
セシルはそう言って、トリュフの箱を棚から下ろした。
蓋を開けると、一粒一粒、形も大きさも微妙に違うチョコレートが並んでいる。
揃っているようで、揃っていない。
それでも、箱全体としては、きちんとまとまっている。
セシルは一粒を手に取り、しばらく眺めてから、そっと元に戻した。
「……なるほど」
小さな呟きが、コーヒーの香りに溶けた。
「アリシア。少し、その書類を見せてもらってもいいですか?」
ぴん、とアリシアの耳が跳ね上がった。
「えぇ〜〜〜」
露骨に嫌そうな顔をしながらも、しばらく書類とセシルの顔を見比べる。
やがて観念したように、小さくため息をついた。
「……内緒ですよ〜」
そう言って差し出された書類に、セシルは静かに目を通した。
数秒。
それから、くすりと小さく笑って、書類をそのまま返す。
きょとん、としたまま、アリシアはセシルの顔を見つめていた。
「大丈夫ですよ」
柔らかな声で、セシルは言う。
「貴女の上司は、とても素晴らしい方ですね」
「……え?」
まだ言葉を飲み込めないアリシアに、セシルは続ける。
「ギルドでは基本的に、冒険者さんの活動を表にまとめて、平均値を算出し、それを元に報酬を決めているようですね」
アリシアは口を挟めず、こくこくと頷く。
「ですが――平均値というのは、必ずしも平等な評価とは限らない」
セシルはカウンターに手を置いた。
「ほんの一部の極端な結果が、全体を引っ張ってしまうことがある」
「だから主任さんは、別の指標を考えたのでしょう」
「……別の?」
「中央値、です」
アリシアは首を傾げる。
「真ん中に位置する数値を基準にする方法ですね」
「多くの冒険者さんの実態に、より近い数字になる」
「貴女の書類は、規定通りで、何一つ間違っていない」
「主任さんはそれを否定したわけではありません」
「ただ、現場を守るために、もう一段階、調整しただけです」
「……う〜〜ん」
アリシアは腕を組み、唸るように考え込む。
「明日、主任さんと少し話してみてはどうですか?」
そう言って、セシルは棚から小さな手提げ袋を取り出し、カウンター越しに差し出した。
中には、いくつかのトリュフチョコレート。
「数字の話をした後は、甘いものがあったほうがいい」
アリシアは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「……主任、甘党なんですよね」
袋を受け取り、ぴんと立った耳が、少しだけ柔らかく揺れる。
水と太陽の都ウディーツァ。
今日もまた、喧騒と静けさを抱えたまま、街はゆっくりと夜の帷に染まっていく。
カフェ・パーチの灯りは、その片隅で誰かの止まり木として、静かに残っていた。




