第3話:受け継がれた剣
「……いってらっしゃい、ムウ」
翌朝、洞窟の入り口で私はムウを見送った。ムウは「メシ、トル」とだけ短く言い残し、腰に吊るした鞘を軽く叩くと、驚くほど軽やかな身のこなしで崖を下りていった。二メートルを超える巨体が、森の緑の中に溶け込んでいく。どうやら日中は主に食料を求めて狩りに出かけているようだ。
(さて……まずはこの『家』をまともにしましょうか)
私は大きく息を吸い込み、洞窟の整理を始めた。社交界のダンスや刺繍、お茶会の作法。かつて叩き込まれた貴族教育は何の役にも立たないが、前世の知恵ならある。
小川の辺りで拾った手頃な太さの枝と、しなやかな蔓を使い、束ねた枯れ草を固定して簡易的な箒を作る。埃まみれの床を掃除し、散らばっていた道具を種類ごとに分ける。使い古された毛布を叩き、枯れ草を集めて寝床のクッション性を高める。
掃除の最中、私は洞窟の隅に山積みになっていた書物に手を伸ばした。湿気でページがくっついているものも多いが、何冊かはまだ読めそうだ。
「……これは、日誌?」
一番上にあった古びた皮表紙のノートを開く。そこには、アステリア王国の古い文字で、ある老騎士の隠居生活が綴られていた。名はガル。かつて王宮の騎士団で名を馳せた男が、政争に明け暮れる宮廷に嫌気が差し、死に場所を求めてこの山に辿り着いたこと。そこで出会った一匹の幼いトロール――ムウを、奇妙な隣人として受け入れたこと。
『この怪物は、人間よりもよほど純粋だ。言葉を教えれば、拙いながらも返してくる。私が死んだ後、誰がこいつの孤独に寄り添うのだろうか。せめてこの剣と、生きるための知恵だけでも遺しておこう』
日誌の最後は、ガルが死の直前にムウへの感謝を綴った言葉で途切れていた。
(そうだったのね、ムウ……)
ムウが帯びているあの長剣は、彼にとって単なる武器ではない。自分を慈しんでくれた唯一の人間、「ガル」からの、大切な贈り物だったのだ。
夕暮れ時。ムウが大きな猪を担いで戻ってきた。
「リサ、メシ!」
ドサリと獲物を置き、ムウは得意げに鼻を鳴らした。私は彼が腰に差した剣に目を向け、そっと尋ねた。
「ムウ、その剣……ガルの形見なのね?」
ムウは驚いたように目を見開いたが、すぐに寂しげに目を細め、不器用な手つきで鞘を撫でた。
「……ガル、ケン、クレタ。ガル、コトバ、オシエル。オデ、ワカル」
ムウの言葉は、昨夜よりも少しだけ滑らかに響いた。言葉を教えてくれたガルを亡くし、彼は一人でこの洞窟を守り続けてきたのだろう。
「わたくしも……リサも、ガルと同じ。あっちから、追い出されたの」
私は王国のある方角を指差して笑った。数日前までは公爵令嬢としてのプライドに固執し、聖女の陰謀と王子の寵愛を失うことに怯えていた。けれど今は、泥にまみれて洞窟を掃除をし、怪物の隣で猪の肉を焼こうとしている。
「ムウ、わたくしも言葉を教えるわ。ガルの続き、してあげる」
ムウは首を傾げ、私の顔をじっと見つめた。
「リサ、イイヤツ」
(……ふふ。変なトロールに、褒められちゃったわね)
焚き火の爆ぜる音が心地よく響く中、不思議と悪い気分ではなかった。




