第2話:トロールとの出会い
追放されてから、どれほどの時間が経っただろうか。人目を避けて禁足地である『嘆きの山脈』の麓に辿り着く頃には、私の豪華なドレスはボロ布のように成り果てていた。
(……お腹空いた。喉も乾いた。これ、復讐とか考える前に詰んでない?)
空を仰ぐ。前世で読んでいた物語の令嬢たちは、もっとこう、隠し財産があったり、親切な隣国に拾われたりしていたはずだ。泥水をすすり、野草を噛み締めながら山を登る悪役令嬢なんて聞いたことがない。
ガサッ、と背後で大きな音がした。心臓が跳ね上がる。振り返った先にいたのは、岩の塊のような、巨大な影。身長は二メートル強はあるだろうか。筋骨隆々の身体に、節くれだった土色の肌。こちらの世界でも物語の挿絵でしか見たことのないトロールだ。
トロールと言えば棍棒と相場が決まっているものだが、目の前の怪物がその大きな手に握っていたのは、鋭く磨き上げられた人間用の『長剣』だった。
「……あ」
声が出なかった。膝が震え、その場にへたり込む。トロールは重い足取りで近づいてくると、身を屈めて私の顔をまじまじと見つめてきた。刃を向ける様子はなく、ただ珍しい置物でも観察するように、首を傾げている。
(……っ!)
私は震える手で、ドレスの隠しポケットに忍ばせた護身用の短剣に触れた。だが、指先がガタガタと震えて、柄を握ることすらできない。たとえこれを取り出せたとしても、この岩の塊のような怪物相手に何ができるというのか。殺される――絶望的な現実が私の思考を塗り潰した。……せめて、棍棒で叩き潰されるよりは、その鋭そうな剣で一突きにされたほうが楽に死ねるだろうか。
「……ニンゲン、ツイテコイ」
地響きのような、低い声。驚いて目を開けると、トロールの黄色の瞳が私をじっと見つめていた。それは捕食者の視線ではなく、野良猫を観察するような、不思議な光を宿している。
「……え?」
私が恐怖で硬直していることに気づいたのか、トロールはふいっと視線を外すと、手にした長剣を腰の鞘に収めた。ガチャリと重厚な金属音が響く。
「オデ、イイヤツ。コワクナイ。……ココ、アブナイ」
そう言ってトロールは、私の小さな肩をそっと大きな手で叩いた。力加減はされているようだが、それでも岩にぶつかったような衝撃だ。私は呆然としながらも、促されるままに彼の大きな背中を追いかけた。
険しい岩肌を抜け、生い茂る蔓をかき分けて辿り着いたのは、切り立った崖の中腹にある大きな洞窟だった。中には使い込まれた焚き火の跡や、石でできた粗末な机、そして古びた書物が山積みにされている。
ありがたいことに、洞窟のすぐ脇には岩の間を縫うようにして清らかな小川が流れていた。喉の渇きを潤すことで、ようやく人心地がついた気がした。
「ココ、ネロ。メシ、ヤル」
怪物が不器用に指し示したのは、岩を削って作ったような無骨な寝床と、その上に置かれた古びた毛布だった。どうやら本当に、私を襲うつもりはないらしい。
(……ここは、昔誰か人間が住んでいたのかしら。世捨て人か、あるいは……)
洞窟の奥に広がる、静かで埃っぽい空間。公爵令嬢としての記憶にある、豪華な天蓋付きのベッドや、きめ細やかなシルクのシーツとは対照的だ。
焚き火の爆ぜる音だけが響く中、トロールが不意に口を開いた。
「……ムウ」「え?」「オデ、ムウ」
彼は自分の分厚い胸板を指先で示した。どうやら、それがこの怪物の名前であるらしい。
「ムウ……。そう、ムウっていうのね。わたくしは……エリザベラ」
「エリ、ザ……?」
ムウは眉間に皺を寄せ、慣れない言葉の発音に苦労しているようだった。
「難しいわよね。……リサでいいわ。リサよ」
「……リサ」
ムウが低く、その名を呟いた。
(いいわ。しばらくここで居候させてもらうわよ。クソ王子もクソ聖女もいない。あるのは、静かな洞窟と、変なトロールだけ)
私はトロールが投げてよこした硬い干し肉を齧った。何の肉なのかすら分からなかったが、疲れ果てた体の空腹に染み渡っていった。




