チューベローズ食堂のルビア(5):影の中の真実
[本ストーリーからは三人称の観察者視点になります]
「今日は楽しかったです。お時間を割いていただき、ありがとうございました。」
ルビアの挨拶はいつになく静かだった。彼女は深く頭を下げると慌ただしく体を向け、まるで消えていくかのように歩き去った。エーデルバインはその後姿を見つめ、何か絶対に見逃せないものが遠くへ去ってしまうような不安に駆られ、慌てて一歩踏み出した。
「ルビアさん!」
だが、彼女は振り返らなかった。風に揺れる彼女の髪が遠ざかるほど、エーデルバインの胸の一角は冷たく締めつけられた。
その夜、エーデルバインは騎士団宿舎の個室にぼんやりと座っていた。机の上には未完成の報告書が積まれていたが、彼の視線は宙を漂っていた。ペンを握ってはまた置き、置いては握る――そのたびに、ルビアの最後の言葉が頭をよぎった。
彼は窓辺に歩み寄り、静かにカーテンを開けた。闇を貫いて淡く差す月光が、王国の庭園を静かに照らしていた。
閉塞感に耐えきれず、彼は腰に剣を差し、部屋を出た。
通りには人の気配がほとんどなかった。夜風は冷たく、首都の隅々は闇に閉ざされた小路に絡み合っていた。そのとき、視界の端に何かが動いた。まるで誰かが影の中で身を潜め、歩いているかのようだった。エーデルバインはすぐに身を低くした。
[…]
首都では最近、連続した失踪事件が発生していた。
エーデルバインは慎重に、しかし躊躇なくその影を追い始めた。
――一人ではない……二人、いや三人か?
影は迷路のような路地へと溶け込むように消えていった。エーデルバインは石垣の影に身を潜め、状況をうかがった。そしてまもなく、別の人物が誰かを追っていることに気づく。
【二重の追跡】
――疑わしい動きをする者と、その後ろを覆うように、二人――フードを被った人物、ルビアとケインが追っているのだ。ただし、まだフードの下に誰がいるかはわからなかった。
同時にルビアも背後に気配を感じていた。追跡者に追跡される状況。これは危険だった。
「後は私に任せて、ケインは引き続き追え。」
ルビアはケインに低く囁き、ケインは短く頷いて視界の先に消えた。
彼女は腰の剣を抜き、影を睨みつけた。
影は動かず、その場を警戒しているかのように立っていた。
剣を構えた相手——エーデルバインはすぐに姿勢を低くし、防御態勢をとった。
「私はエーデルバイン・カメリアスだ。フードを取って身元を明らかにせよ。」
彼の声は落ち着いていたが、その言葉には揺るぎない決意が宿っていた。
その瞬間、フードの奥から小さな声が漏れた。
「え…」
聞き覚えのある声。だが確信はできなかった。エーデルバインは一瞬、剣を離し、その人影のシルエットに目を凝らした。
'その声……まさか……ルビアか?'
彼は再び気を引き締め、剣に手を置き直した。
[newpage]
「首都で連続失踪事件が起きている。怪しい者は調査対象だ。協力を求める。」
彼が一歩前に踏み出すと、影の側も一歩後ずさった。
そのその瞬間、月光がくもの切れ間から路地を照らし、金髪と銀色の剣の輪郭が浮かび上がった。
そしてフードの奥に隠された顔も、徐々に姿を現した。
紫色の瞳――見慣れた輝き。
ルビアと目が合った瞬間、彼女は慌ててフードを直した。
エーデルバインの視線は彼女の目から指先、そして仕草へと移った。
すべてが記憶の中のルビアと重なって感じられた。
彼は慎重に言葉を紡いだ。
「もしかして…助けが必要なのでしょうか?危険にさらされているなら、言ってください。」
エーデルバインは剣を置き、片手をそっと差し伸べた。
「敵意はありません。私はただ、首都の秩序を守る者にすぎません。」
そのとき、ルビアの心は激しく揺れ動いていた。
'言葉を発せば、彼にバレるかもしれない。でも…逃げたとしても彼から逃れられるだろうか?'
彼はアドニア王国で最強と称される人物だ。
戦って勝てばいいが、逃げ切ることは限りなく不可能に近かった。
二人の間には、息すら飲み込まれるような沈黙が流れた。
ルビアはまだフードを脱がず、言葉も行動も起こさなかった。ただじっと立ち尽くし、心の中の波を抑えていた。彼女は目を閉じた。
――逃げられるだろうか?
――彼を欺くことはできるだろうか?
――私を見破ってはいないよね?
心臓は恐ろしく高鳴り、手に握る剣は汗で濡れていた。
彼から数歩ほど吋距離を置いたエーデルバインは、静かに彼女を見つめていた。
以前のような鋭さは消え、そこにあるのは疑問と心配の色だった。
ルビアは唾を飲み込んだ。
彼の視線は鋭い剣よりも胸に突き刺さった——。
'今…私はどうすればいいのだろう。'
胸が崩れ落ちるような感覚。
その瞬間、彼女は決断した。
剣から力を抜き、そっと一歩前に踏み出す。
まるで協力する意思を示すかの動きだった。
しかし、それは猛獣の前で最後のタイミングを窺う獲物のしなやかな動きでもあった。
その瞬間、彼女は素早く剣を振り、彼に向かって突進した。
エーデルバインは反射的に剣を抜いて防御姿勢を取った。
だが予想とは異なり、彼女は正面から飛びかかるのではなく、身体を素早く横にねじって隙間を縫い、路地の外へと逃げ去った。
「止まってください!」
だが彼女は声を無視し、息を押さえて走った。
エーデルバインは迷わずその後を追った。
長い脚を活かして距離を縮めるエーデルバイン。
彼は壁や障害を器用に乗り越えながら彼女の背後を追い続けた。
目の前に広がる影のシルエットに、どこか見覚えのある印象を覚えた。
衣のはためき、走る姿勢、歩幅、息遣い――
エーデルバインは無意識に、指先に込み上げる感情を感じていた。
彼の追跡は、単なる容疑者を追うだけではなかった――
その姿の奥に隠れた一人を見つけようとする切なる願いだった。
その瞬間、ルビアの頭の中にも無数の計算が走った。
'あの距離と速度のままでは、すぐに捕まる。これでは駄目。
戦わずして逃げられる方法は…'
彼は私を殺したりはしないだろう。断言はできないが…信じたい。
彼女は決断した。
側面にあった木を利用して進路を変え、彼の視界外を滑るように曲線を描いて逃れようとした。
しかしー“二度は通じない”とはまさにこのことか。
エーデルバインはそのタイミングを逃さず身体を素早くひねり、彼女に手を伸ばした。
その指先が彼女のフードの縁に触れ、生地が揺れた。
'まずい…!'
ルビアは反射的にフードを掴もうと手を伸ばした。
しかしー
足元に隠れていた、見落としていた木の根が彼女の歩みを阻んだ。
「あっ…!」
彼女はそのまま前にすっ転んだ。
その姿を見て、エーデルバインは走るのをやめた。
「あなたが誰であれ、なぜ逃げているのか話してください。危険にさらされているなら、私があなたを守ります。」
エーデルバインは息を整えながら、ゆっくり彼女に近づいた。
'くそ…私も動きは速い方なのに…'
ルビアは倒れた体を起こし、座った。そのとき、エーデルバインがフードを掴んだ手の動きの跡で、フードが力を失い―
彼女が焦ってフードを押さえようとしたが、ゆっくりと、重たげにー
そのままフードは力なく地面へと滑り落ちた。
冷たい月光が彼女の顔に降り注ぎ、風がそっと吹いて黒い巻き毛を揺らした。
その間から、紫水晶のような瞳が光を帯びていた。
「ル…ビアさん…?」
エーデルバインの胸には、疑問と混乱が交錯した。
その衣の文様は、既に王国に知られている秘密組織「ルケオ」の印章を帯びていた。
なぜ—
今、この瞬間に、彼女がその姿のまま自分の眼前にいるのか―。
彼は慌てた表情で一歩後ろへ退いた。
ルビアはゆっくりと頭を上げ、静かに彼を見つめた。
彼の顔には心配と困惑が満ちている。
その姿を見た彼女は、小さく吐息を漏らした。
'もう隠し続けるのは無理か……'
ルビアは体を起こし、ぎこちない笑みを浮かべてエーデルバインへと向き直った。
「こんばんは、エーデルバイン様。
この時間にお会いするとは、思いもよりませんでした。」
彼女は手にした剣をゆっくりと鞘に納めた。
「私、問題を起こしたいわけではありません。
ただ……エーデルバイン様が知っていらっしゃる、
普通の食堂の娘で、ありふれた平民の“ルビア”として、私を見過ごしてくださるわけにはいきませんか?」
エーデルバインは深く息を吐いた。
淡い金髪が夜風にそっと揺れた。
「私が知っていたルビアさんとしては、
あなたをただ送り出すわけにはいかないようです。」
彼は慎重にルビアへ一歩近づいた。
「その文様は…“ルケオ”ですね?
不正を正し、弱きを助けると知られた組織…
当局ではその動きを注視しています。
あなたはその組織と関わっているのですか?」
エーデルバインの表情には驚きと心配、騎士としての責任感と、理解しようとする気持ちが混在していた。
その複雑な感情は、ルビアにも同様だった。
「ルケオ」という名前は、すでに王国では危険視されていた。
私たちと周囲の安全のため、
私たちの存在を知った者、顔を見た者は誰であれ、
とくに王国と関係する者であれば――
必ず始末されるべき存在だった。
だが、エーデルバインの蒼い瞳と、彼が追ってきたせいで額に滲んだ汗を見て、
――どうしても、その道を選ぶことができない自分に気づいた。
静寂の中で心臓が激しく鼓動した。
彼の手の感触がまだ耳元をくすぐり、
彼の言葉が胸の奥を深く刻む。
'…この方は、私が知っているエーデルバイン様なら……'
私は彼を欺くわけにも、その剣の前で膝を折るわけにもいかない。
いや、ルケオのリーダーとしてではなく、ルビアという名の「私」として――
その瞳の中で、消えたくなかった。
だから、彼女は決意したように、視線を逸らすことなく、真っすぐ彼と対峙した。
そしてゆっくりと、彼の傍へ歩み寄った。
「私の名前はルビア。秘密結社【ルケオ】のリーダーです。
私の命令のもと、ルケオは貴族を含め、問題を起こした者たちを攻撃してきました。」
彼は視線を外さずに、突然近づいてくるルビアを避けようと一歩ずつ引いたが、やがて木に遮られてそれ以上後退できなくなった。
ルビアはエーデルバインの目の前まで近づいた。そして静かに、そっと彼の手の甲を指先で撫でた。
「私を捕らえるおつもりですか?」
そして、彼へやわらかく微笑んだ。
「エーデルバイン・カメリアス様?」
彼は動揺を隠せなかった。
彼女の指が自分の手をすり抜けていく瞬間、身体が硬直したが、手を退かなかった。
エーデルバインはしばらく沈黙すると、ゆっくりと自身の指を動かし、ルビアの指を優しく包み込んだ。
そして彼女を見つめながら、柔らかな笑みを浮かべた。
「捕まってくださいますか?」
声は穏やかだったが、指先が少し震えていた。
その瞳には深い混乱と…ひょっとすると愛しさのような感情が滲んでいた。
二人の間を渡る夜風がそっと通り抜け、黒い巻き毛が風に揺れ、彼の頬をかすめた。
エーデルバインは静かに口を開いた。
「そう簡単には…あなたを見逃せません。」
彼はなおも彼女の手を離さず、じっとルビアの顔を見つめた。
そしてその瞬間――
ルビアは初めて、自分の“本当の姿”で誰かに見つかったという実感を得た。