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チューベローズ食堂のルビア(3)

月明かりが静かに降り注ぐ通り。


食堂から少し離れたその場所には、私とカメリアス様、二人だけが立っていた。


彼の手には、私が渡した野の花が一輪、揺れていた。


彼は深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。


無表情だった顔には、説明し難い感情がうっすらと滲んでいた。



「これまでの私の行動について、お詫びしたいと思います」


その声は低く、優しかった。


「あなたを困らせているとは思いもしませんでした」


彼の言葉に、私は口を閉ざした。


この静かな夜の空気のように、私の心も穏やかだったが、どこかで微かに震えていた。


「ルビアさんを初めて見たときから...ずっと目が離せませんでした」


彼は一度視線を落とし、再び私を見つめた。


月の光を浴びた彼の青い瞳が、静かにきらめいた。


「いつも一生懸命に働く姿や、時折浮かべるその微笑みが...美しかった」


緊張感が漂う通り。


彼の金髪は月明かりにほのかに輝き、広い肩と整ったシルエットが絵のように浮かび上がった。


彼が言葉を重ねるたびに、周囲の音が止んだかのように感じられ、葉が揺れる音だけが二人の空間を満たしていた。


正直に言えば、私は戸惑っていた。


今まで一度も直接会話をしたことのない人だったから。


「えっと…ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」


私は小さく息を整え、彼を見つめた。


「でも…今日が初めて言葉を交わす日で…それにカメリアス様は伯爵家の次男でしょう?そんな方が平民の私に…こうした感情を持ってくださるなんて、ちょっと信じられなくて。だから…戸惑っています」


彼は笑いもせず、かといって暗くもない表情で頷いた。


「初めて話すというのは事実です。私も遠くから見ているばかりで、声をかける勇気が持てませんでした」


彼の視線は夜空へと向けられた。


月明かりに照らされた彼の横顔ははっきりとしていて、静かな夜の中でより一層印象深かった。


「貴族と平民、その違いを知らないわけではありません。でも……私は“カメリアス”ではなく、“エデルベイン”という一人の人間として、あなたと向き合いたいんです」


彼の言葉には慎重さがあったが、真心が感じられた。


けれど、私は簡単には心を開けなかった。


貴族の好奇心から来る関心は、平民にとって時に傷になる。


私も、そんな話を何度も耳にしてきた。


私はただ静かに彼を見つめた。


私の沈黙に、彼の瞳がわずかに揺れた。


カメリアス様は静かに目を閉じてから開き、とてもゆっくりと私の方へ身体を傾けた。


「私が望んでいるのは、ただあなたを知る機会だけです。焦るつもりはありません」


その言葉は、私の心に静かに染み入った。


正直、彼の態度からは誠意が感じられた。


でも、それをそのまま信じるわけにはいかない。


『何度か会えば、すぐ飽きるはず』


私は小さくため息をつき、彼を見上げた。


「わかりました……じゃあ…お互いを知っていく時間を持ちましょう、私たち」


彼は驚いたように目を見開き、すぐに柔らかい微笑みを浮かべた。


「カメリアス家の次男でも、王国の騎士でもない、ただの“エデルベイン”として、あなたと向き合う機会をくださり、本当にありがとうございます」


彼の微笑みは小さなものだったが、そこには本心がこもっていた。


彼の瞳が三日月のように細まり、きらきらと輝いた。


私は呆然とその姿を見つめた。


すると彼は小首をかしげて私に声をかけた。


「ルビアさん?」


「はっ!あ、いえ…その…ゴホン…そ、そこまで感謝しなくても…」


「でも、本当に嬉しいことですから」


……危ない人だ。


私は彼の笑顔に思わず一歩下がった。


「そ、そんな…カメリアス様」


「エデルベイン」


「えっ?」


「エデルベインと呼んでください」


「あ……はい、エ、エデルベイン様」


「はい、ルビアさん」


……この人って、こんなに笑う人だったっけ?


また呆然としていた私に、彼はさらに言葉を投げかけた。


「ルビアさんさえよろしければ…お休みの日を教えていただけますか?可能であれば、その時間に合わせて伺いたいと思います。ゆっくり、丁寧に」


その口調は穏やかだったが、耳の先がほんのり赤く見えた。


「えっと…今週は午後6時くらいから大丈夫そうです」


「午後6時、覚えておきます。無理のないように伺いますね。遅くなりましたので、そろそろ戻りましょう。お送りいたします」


彼と一緒に店へ戻る間、特に会話はなかった。


周りの夜風がそっと吹いて木の葉を揺らし、その音が静寂の代わりになってくれた。


店の前に着いたとき、彼は静かに私を見つめた。


彼の影が私を包んだ。


彼は、普段の冷たい表情ではなく、優しい笑みを浮かべていた。


「ルビアさん、今日は短い時間でしたが、ご一緒できて本当に嬉しかったです。次にお会いする時には、もっとたくさんお話ができたら嬉しいです。私のことも、あなたのことも」


彼は一瞬躊躇ったが、そっと言葉を重ねた。


「もし……明日もお会いできるでしょうか?無理なら断っていただいても大丈夫です」


その言葉に、息が詰まるような感覚がした。


気まずさと一緒に、胸の奥がくすぐったくなる不思議な気持ちだった。


「はい……エ…エ、エデルベイン様…」


やっと名前を呼んだだけなのに、顔が熱くなっていくのが自分でも分かった。


彼の顔をまともに見ることもできず、急いで店のドアノブを掴んだ。


そしてそっと顔を向け、慎重に言った。


「では…また明日」


そう言って、急いで店の中へ入った。


「お姉ちゃん!! いきなりどこ行ったの!? びっくりしたんだから!!!」


「ごめんね……。忙しかった?」


「ううん、そうじゃないけど、急に飛び出していったからみんな驚いてたよ。」


「ごめんね。ちょっと急用を思い出して……」


私はウェンディが持っていたホウキを受け取りながら言った。


「後は私がやるから。ウェンディは先に休んで。」


戸惑う彼女の背中をそっと押して階段の方へ向かわせた。


最初は渋っていたウェンディも、「早く上がってきてね」と言い残して、2階へと上がっていった。


食堂の上の階は、私たち家族の生活空間だった。


後片付けを急いで終えた私は、2階の廊下の一番奥にある自分の部屋のドアを開けた。


淡い月明かりが部屋の中に差し込んでいた。


私は静かにベッドに腰を下ろし、窓の外を見つめた。


表面上は静かだったけれど、私の心臓はまだざわついていた。


翌朝は、やけに慌ただしい一日の始まりだった。


眠っていた私を起こしたのはウェンディの手。私は急いで顔を洗い、すぐに食堂の仕事を手伝った。


気づけば、あっという間に時間が過ぎ、もうすぐ午後6時になろうとしていた。


そこでようやく、昨日の彼との約束を思い出した。


「まさか、本当に来るのかな……?」


そう思った瞬間、食堂の扉が開いた。


彼だった。


店内をゆっくり見渡してから、視線が私の方に向けられた。


隅で息を整えていた私と目が合うと、彼は優しく微笑んで近づいてきた。


そして突然、私の手に何かを握らせた。


小さな花束だった。


派手ではないが、野花が丁寧に束ねられていた。


「もうお食事は済まされましたか? もしよろしければ……ご一緒にどうですか?」


昨日よりもずっと落ち着いた雰囲気だった。


金髪はいつもと少し違って整えられており、制服ではなくきちんとした私服姿は、どんな豪華な衣装よりも目を引いた。


――まさに、“光って見えた”。


私はぼんやりと花を見つめた後、彼の顔へと視線を移した。


そしてふと、周囲の視線を感じて、我に返った。


「お、お花……ありがとうございます!」


食堂内は突然静まり返った。


家族も、客たちも、皆が私たちを見つめていた。


“王国の輝ける剣”、カメリアス家の次男が……


平民の私に花を渡すこの状況は、誰にとっても信じがたいものだった。


ただ一人――彼を除いて。


「い、いったん外へ行きましょう!」


私は彼の手首を取って、店の外へと向かった。


私よりずっと背が高く、体格も大きいのに、彼は素直に従ってくれた。


外に出ると、顔が熱くなっているのを感じた。


手に持った花束を見ると、胸がくすぐったくなるような気がした。


「ありがとうございます……お花、本当に綺麗ですね」


そしてふと――まだ彼の手を握ったままだったことに気づいた。


私は慌てて手を離し、意味不明な言い訳を口にした。


「す、すみません!! あの……お花が綺麗で、じゃなくて……急に触ってしまってごめんなさいっ」


私が手を離すと、一瞬彼の表情がわずかに揺れた気がしたが、すぐにいつもの落ち着いた顔に戻った。


「大丈夫ですよ。むしろ……自然に接してくださって、嬉しいです」


彼は私の動揺した様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「気に入っていただけて、良かったです」


周囲を見渡した彼は、少し静かな路地を指差した。日差しに照らされた彼の金髪は、夜とは違う輝きを放っていた。


「少し散歩しませんか? こんなに天気がいいのに、中にいるのはもったいないでしょう?」


彼の足取りに合わせて、静かな道を歩き出した。


日差しの下で、私たちの影が並んで長く伸びていた。


手に持った花束がそよ風に揺れ、彼の青い瞳は陽光を浴びてさらに鮮やかに光っていた。


私たちはゆっくりと――そして、思ったよりもずっと自然に会話を交わした。


近くの小さな食堂に立ち寄って食事をし、また話を続けながら、夜が更ける前に食堂へと戻った。


――その後も、彼は毎日のように花束を持ってやって来た。


ある日は私服、ある日は制服姿で。


毎回違う姿だったが、いつも変わらない笑顔で私の前に立っていた。


私は、この関係がすぐに終わると思っていた。


貴族の一時の好意、あるいは気まぐれな戯れ。


ただそれだけの話だと信じていた。


でも、彼がくれた温かい言葉たち。


毎日手渡される小さな花束。


そのすべてが、軽く流せない重みとなって、私の心に積み重なっていった。


それでも私は思っていた。


これはただの――


平民のルビアと、王国の騎士エデルベインの


すれ違いのような、短い物語だと。


本当に、そう思っていた。



「ルビア……さん?」


暗い路地。


荒い息の合間に、彼の声が聞こえた。


月明かりに照らされた顔。


頭巾の下からこぼれた紫の瞳が、ひやりと光っていた。


緊張感が漂うこの異質な空気の中、


私は息を潜めて立ち尽くしていた。


――まさか、こんな形で関わることになるなんて……


あの時の私は、心から、


想像すらしていなかった。

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