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チューベローズ食堂のルビア(2)

冷たく整った香りが、夜の空気の中に漂っていた。


月明かりに反射して、ほのかに輝く髪、そして——


「え……エデルベイン・カメリアス様!?」


驚いた私の声に、彼の視線がゆっくりとこちらへ向いた。

美しい青い瞳が、静かに私を見つめていた。

突然の登場に戸惑ったのは、どうやら私だけではなかったようだった。


彼の肩にかけられた騎士のエンブレムが、薄暗い街灯の光の下できらりと光った。

「エデルベイン・カメリアス」という名前を聞いた酔っ払いは、はっとしたような目で私たちを交互に見つめたあと、

私に向けられていた視線の隙を突いて、慎重に——だが慌てるように路地を立ち去っていった。


「ルビアさん、ご無事ですか?」


彼はゆっくりと私に近づきながら尋ねた。

闇に溶け込むようなその声は、いつものように落ち着いていたが、

どこか奇妙に温かいぬくもりを帯びていた。


「だ、大丈夫です……」


私は頭の上に高く掲げていた石をそっと下ろした。

力を抜くと、冷たい石が床に「トン」と音を立てて落ち、ゴミ袋の横を転がった。


「はは……危うくカメリアス様を攻撃してしまうところでした……」


ばつの悪い笑みを浮かべながら、私は軽く頭を下げて彼にお礼を言った。


「助けていただき、ありがとうございます。」


彼は私の手から落ちた石をしばらく見つめていたが、すぐに再び私の顔へと視線を移した。

ほんの一瞬だけだったが——彼の口元にかすかな笑みが浮かんだように見えた。


「自己防衛を考えておられたとは、賢明なご判断でした。」


彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認した後、さらに一歩私に近づいた。


「この時間にお一人でいらっしゃるのは危険です。私が食堂までお供いたします。」


彼が近づくと、ほのかな香りが鼻先をくすぐった。

一日中、料理の匂いや汗にまみれていた私とは違い、

長く宴席にいたにもかかわらず、彼はまるで風呂上がりのように清潔で整った香りをまとっていた。


『やっぱり、貴族って違うな……』


私は自分の体から漂う匂いが気になって、思わず一歩後ろへ下がった。


「ありがとうございます。でも大丈夫です。店もすぐ近くなので……お気持ちだけ頂戴します。」


距離をとるように控えめにそう伝えたが、彼は気にも留めず、さらに一歩前に進んだ。


「騎士として当然の務めです。お断りにならないでください。」


彼の言葉は断固としていた。

結局、私はぎこちなく微笑みながらうなずいた。

店までは徒歩で10分足らずだが——これ以上断るのも意味がないように思えた。


沈黙の夜道。

私たちを包むのは、暗闇と深い静寂だった。


彼は貴族で、私は平民。

こうして並んで歩いていること自体がおかしな話で、私はなかなか口を開けなかった。


そうして無言のまま歩いているうちに、

チューベローズ食堂の看板が視界に入ってきた。


私は歩みを止め、彼に向かってもう一度お辞儀をした。


「ありがとうございました、カメリアス様。おかげさまで無事に戻れました。すぐ目の前が店ですので……ここまでで十分です。」


彼は私を一度、食堂を一度見つめた後、静かにうなずいた。


私が最後のお辞儀をして店に背を向けたその時——


「今日はお疲れさまでした。」


と、背後から低く穏やかな彼の声が流れてきた。


私はもう一度振り返った。


「あ……はい、ありがとうございます。カメリアス様も、一日お疲れさまでした。」


言葉が終わると、再び気まずい沈黙が流れた。

私は冷や汗をこっそり手の甲で拭いながら体をそっと反転させた。


「そ、それでは……」


再び店に戻ろうとしたその瞬間——

彼が素早い足取りで近づいてきた。


「な、なに……!」


彼はさっきの路地裏の時のように、私の目の前にぴたりと立ち塞がり、

驚く私に向かって静かに言った。


「エデルベインと、お呼びいただいて構いません。」


その一言だけを残し、彼は軽く頭を下げると、

何事もなかったかのように静かに背を向けて去っていった。


「………………え?」


ぽつんと取り残された私は、彼が消えた方向をただ見つめていた。


残されたのは、静かな空気と——

ほのかに残る、彼の香りだけだった。


――それからの日々は、どこかおかしかった。


毎晩の営業が始まると、彼は必ず食堂に現れた。


うちは貴族が通うような店ではない(王国の騎士たちは例外だが)、

彼の来店は毎回、目立っていた。


貴族というだけでも目立つのに、

彼は何者か。


あの「エデルベイン・カメリアス」なのだから。


両親と弟のエドガーは、


「やっぱりうちの料理は美味しいよね!」


とご機嫌で、


妹のウェンディはイケメンが毎日来てくれることに幸せそうな笑顔を浮かべていたが、


私はどんどん落ち着かなくなっていった。


厨房にいるのに、なぜか目が合う。

まるで見張られているような——

そんな感覚があったから。


そうして二週間、彼は一日も欠かさず店に現れた。


最初は偶然だと思おうとしたが、

次第に彼の来店が「習慣」のように思え始めた頃、

私はウェンディの代わりに自ら料理を運ぶことにした。


私は慎重に料理を持ち、彼のテーブルへと向かった。

手にした器がやけに熱く感じられた。

そっとテーブルに置くと、彼は本を閉じ、顔を上げた。


彼の髪がかすかに揺れ、その下から青い瞳が真っすぐに私を見つめた。

目が合った瞬間、彼の目が少し見開かれた。


驚いたような表情だった。


私も笑顔を浮かべたが、目までは笑えなかった。


「……うちの料理、お気に召したようで何よりです。」


彼は一拍遅れて反応した。


「あ……はい。とても美味しいです。」


「それは良かったです。」


厨房に戻ると、ウェンディがふくれっ面で近づいてきた。


「お姉ちゃん!なんで私の仕事奪うのよ!私が渡したかったのに!」


私は笑って彼女の頭を撫で、何も言わずに自分の持ち場に戻った。

平然を装っていたが、心のざわつきは消えなかった。

彼の視線を、ずっと感じていたから。


その夜、彼が静かに食事を終えて店を出ていくのを確認した私は、

そっと厨房の裏口から外へ出た。


野花ひとつ。

店の脇の路地の塀の下で育つ、名も知らぬ花をあえて摘んだ。


彼が何かを落としていったと嘘をつくには、それで十分だった。


私は急ぎ足で彼の後を追った。


「すみません……! エデルベイン・カメリアス様!」


彼は立ち止まり、振り返った。

街灯の光の下、彼の影が長く伸びていた。


私は息を整えながら近づき、摘んだ花を彼の手に乗せた。


「これ……落とされたかと思いまして。」


彼は首をかしげながら、手の上の花を見下ろした。


そしてその隙を突いて、私は視線を彼の顔に固定し、冷たく口を開いた。


「それで……私に何かおっしゃりたいことでも?」


彼の青い瞳が、困惑したように私を見つめた。


だがその後すぐに、彼の表情にためらいが浮かんだ。


「……どうして分かったのですか?」


「そんな風に見られたら、誰でも分かります。」


その言葉に込められた苛立ちを察したのか、

彼は視線を落とし、気まずそうに謝罪した。


「……申し訳ありません。不快に思われたのなら……私の非です。」


そして再び私の目を見て、いつもより低い声で言った。


「つい、気になってしまって……」


アドニア王国では珍しい黒い縮れ髪と紫の瞳。

彼もまた、異質な私の外見が気になったのかと思い、私は顔をしかめながら言った。


「私の何が気になって、そんなに見つめておられたのか教えていただけますか?」


「そのような意味ではありません。」


彼の返答は素早く、はっきりしていたが、

私の不快感は簡単には収まらなかった。


「お食事にいらっしゃるのであれば、食事だけなさってください。

視線を感じ続けるのも、ついて来られるのも不快です。」


その言葉に、彼はしばらく沈黙した。

伏せた視線を再び上げたとき、

その目には以前よりもはっきりとした真剣さと、隠しきれない感情が宿っていた。


「……気になってしまう理由は……ルビアさんに好意があるからです。」


「……………………え?」

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