第8話:忍び寄る影と村の不安
少女と共に村へ戻ると、母親が泣きながら娘を抱きしめた。
「あぁ、ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございました……!」
ユウトは静かに頷き、エナの頭を軽く撫でる。
「もう大丈夫。……怖かったね」
その言葉に、母親だけでなく、心配していた周囲の村人たちまでもが胸をなでおろしていた。
「ユウトさんがいてくれてよかった」
「本当に、安心できるわ」
「なんて頼もしい……」
ささやきが広がっていく。
それは安堵であり、感謝であり――希望だった。
彼は“高名な冒険者”などではない。ただの一旅人。
けれど、人々の心には、確かに――英雄のように映っていた。
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その夜、村の代表がユウトのもとを訪れた。
「ユウト殿。……本日は本当にありがとうございました。皆、貴方様に感謝しております」
ユウトは首をかしげた。
「いえ、自分ができることをしただけです」
「なんと謙虚な……いや、流石の心構えというべきですかな……ユウト殿、もしよろしければ、この村にもう少し留まっていただけませんか。貴方様のような方がいてくださるだけで、人々は安心できるのです」
ユウトはしばし考える。
もともと行く宛などない。
ましてや、ここがまだどんな世界なのかもわからない。
今の環境でもう少しこの世界のことを学びたい…
やがて頷いた。
「……はい。いつまでかはわかりませんが、もうしばらくの間、お世話になります」
その返答に、代表は深く頭を下げた。
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翌朝、ユウトは村の井戸の前で顔を洗っていた。
広場には人が出始めていたが、どこか空気が重い。
昨夜、エナを助けたあとの静けさが、まだ村全体に残っているようだった。
「おはようございます、ユウトさん」
声をかけてきたのは、村の若い男、カイルだった。
「昨日のこと……ありがとうございました。俺の妹も、前に森で危ない目に遭ったことがあって……他人事じゃなかったんです」
ユウトは微笑んで頷いた。
「無事でよかったですよ。何かあったら、また遠慮なく言ってください」
「……はい。あの、実は今朝、畑の裏で……動物の足跡みたいなものを見つけたんです。でも、形がちょっとおかしくて……蹄みたいなのに、爪痕が混ざってて……」
ユウトは、少し言葉に詰まった。
(蹄と爪……? そんな形の足跡、見たことない)
案内された畑の裏手、湿った地面には、確かに奇妙な足跡があった。
蹄のような形の中央に、裂けるような鋭い爪の跡が走っている。
その瞬間、ユウトの頭に昨夜の出来事が蘇る。
草の奥に潜んでいた何かの、息が詰まるような気配。
そして、思い返す。
昨夜、エナが語っていたこと。
「木の実を取っていたらね、急に変な音がしたの… 何も見えなかったけど、でも、急にすっごく怖くなって、急いで逃げたの… 木がぞぞぞって揺れてて…… 声じゃないのに、何か聞こえる感じ足して、耳の奥がざわざわして……」
彼女の体は、小さく震えていた。
斜面を滑り落ちてでも逃げようとしたのは、ただの偶然ではなかった。
(エナは、”何かの気配”を感じていた……)
ユウトの背筋に、薄く冷たいものが這い登る。
「……これは、普通の動物じゃないかもしれません」
カイルが息を呑む。
「ま、魔物……ですか?」
「まだ確定じゃありません。ただ、昨夜――森で、妙な気配を感じたんです。重たく、鋭くて……普通の獣とは違いました」
「……じゃあ……」
「念のため、村の皆さんには警戒するよう伝えておいたほうがいいですね」
ユウトは周囲を見渡す。
朝日が昇る中、村人たちはいつもどおりの一日を始めようとしていた。
しかしその平穏は、すぐそこまで迫る“異形の影”によって、いまにも破られようとしていた。