第7話:子どもが消えた午後
午後、陽が西に傾き始めた頃だった。
ユウトが井戸の修理を終え、庭先で手を洗っていたとき、村の方から、甲高い叫び声が響いた。
「エナがいないの! どこにもいないのっ!」
叫んでいたのは、まだ若い母親だった。
髪は乱れ、声は震え、必死で誰かを探すように視線を彷徨わせていた。
「……どうしたんですか?」
ユウトが駆け寄ると、母親は息を整えながら縋るように言った。
「娘が……エナが、木の実を採りに行って、そのまま帰ってこないんです! いつもなら昼過ぎには戻ってくるのに……!」
「森の中ですか?」
「はい、村のすぐ外れの……そんなに奥には行かないはずなんです。でも、もう何度も名前を呼んでも返事がなくて……!」
母親の瞳には、明らかに恐怖が滲んでいた。
昨日や一昨日のような穏やかな空気ではない。何かが、確実に“違う”。
「わかりました。すぐ探しに行きます」
ユウトの言葉に、母親ははっとして顔を上げた。
「え……でも、危ないかもしれないのに……」
「行かせてください。こういうのは、誰かが動かなきゃ間に合わなくなることもありますから」
真っ直ぐに返された言葉に、母親は口を押さえ、涙を滲ませたまま何度も頷いた。
ユウトは振り返らずに森へと駆け出した。
その背に、村の人々の視線が集まっていた。
心配と、希望。そして、確信。
――あの人なら、きっと連れて帰ってきてくれる。
それは、まだ始まったばかりの“信頼”が、“信仰”へと近づいていく最初の瞬間だった。
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森の入口は静かだった。
枝葉の影が長く地面に伸び、森の中は早くも夕暮れの気配を漂わせていた。
空気は妙に重く、ひと気のない静寂が森全体を包んでいる。
ユウトは呼吸を整え、慎重に歩みを進める。
(エナちゃん……どこだ?)
道端の草が小さく踏み倒されているのを見つけ、ユウトは足を止めた。
(これ……エナちゃんの足跡か?)
獣道を外れて草が擦れた跡が続いている。
かすかな手掛かりをもとに探していくと、生い茂った草が隠すように急な斜面があり、滑り落ちたような跡を見つける。
嫌な予感がして、斜面をのぞき込むが、幸いそこには誰もいない…
そのまま斜面を滑り降りて進んだその先で、木の根元に沈み込むような、小さな影を見つけた。
「……いた」
泥まみれの服、片方脱げた靴。
木の根に背を預けて、座り込んだまま動かない。
ユウトが駆け寄ると、彼女はびくりと体を震わせた。
「大丈夫だよ、エナちゃん。もう怖くないからね」
恐る恐る顔を上げたエナの頬には、乾いた涙の跡が残っていた。
「……ユウト、さん……?」
「そう。迎えに来たんだ。よく、ここで待っててくれたね」
エナは、小さく頷いた。
震える体に上着をかけ、ユウトは優しく抱き上げた。
(よかった。無事で……)
その安堵の隙間を縫うように、草の奥から微かな音がした。
……ザリッ。
ユウトは立ち止まり、音の方へ目を向ける。
茂みの奥、何かがじっとこちらを見ている。
(……気のせい、じゃない)
咄嗟に身を低くし、片腕でエナを守り、もう一方の手をゆっくり握る。
だが、次の瞬間にはその気配はふっと掻き消えた。
(なんだったんだ、今の……。動物じゃない。もっと……不気味で、息が詰まるような……)
ユウトは警戒を解かずにその場を離れ、慎重に森を引き返すのだった。