第2話:名も知らぬ子どもと、静かな森で
・・・戦いが終わり、周囲には異様な静けさが広がっていた。
「はぁ、はぁ……倒した、のか……?」
ユウトの手のひらには、まだ熱が残っていた。
異形の体が崩れた場所から、黒く濁った液体がじわじわと滲み出ている。
急に吐き気がこみ上げ、ぐっとこらえる。
戦ったというより、何かに動かされたような――そんな感覚が強かった。
そのとき、背後から気配を感じた。
ユウトが振り返ると、大樹の根元に少女が座り込んでいた。
泥まみれの足を折りたたむようにして、身を小さくしている。
両腕で体をかばうように抱え込み、息をひそめるように動かない。
それでも――その目だけは、こちらを見ていた。
驚きと恐怖が混ざったような、不安定な光をたたえた視線。
声は出せない。ただ、見つめてくる。
警戒と、本能的な期待とがないまぜになったまなざしだった。
ユウトはゆっくりとしゃがみ、目線を合わせて言葉をかけた。
「大丈夫……? もう怖いのは全部いなくなったよ」
少女は肩を小さくすくめたが、それ以外は動かない。
しばらくしてから、かすかに唇が動いた。
「……たすけて、くれて……ありがとう……」
それは、息のように弱い声だった。
けれど、確かな意思がそこにあった。
ユウトは小さく頷き、深く息をついた。
「……よかった。無事で」
膝をついて、その場に座り込む。ようやく、心と体が落ち着き始めた。
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しばらくの沈黙のあと、少女がぽつりと名を名乗った。
「……エリナ、っていいます」
その一言で、ようやく距離が少しだけ縮まった気がした。
「オレはユウト。よろしく」
エリナの目がちらりと動く。すぐにまた伏せられたが、そのまなざしにわずかな光が宿っていた。
少しずつ、言葉がこぼれはじめる。
エリナは、この森の外れにある小さな村で暮らす、ふつうの村娘だった。
母親の代わりに、薬草を採りに森へ来ていたのだという。
「いつもは……道の端っこだけしか行かないけど……今日は、少し奥まで来てしまって……」
そのとき、あの異形に出くわした。
転び、足をひねり、逃げることもできず――あとは、ただ待つ、しかなかった。
ユウトはその話を聞きながら、無意識に拳を握り込んでいた。
(あんな……あり得ない化け物が、本当にいるのかよ)
目の前で少女を殺しかけた異形の存在。信じられない光景。
けれど、それが現実だった。
(それに……こんな小さな子どもが……あんなものに――)
怒りだった。
この世界の環境や理不尽さに向けたものではなく――
“命が軽く踏み潰されそうになる現実”そのものへの、純粋な怒り。
自分の中に、そういう感情があったことに、ユウトは少しだけ驚いた。
だが、ふと視線を上げた先――
エリナが、ほっとしたように目元をゆるめた。
「……ありがとう、ユウトさん」
その声に、握っていた拳の力がすっと抜けた。
息を吐き、胸の奥にひとつ、柔らかな感情が灯る。
「……うん。助けられて、本当によかったよ」
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(あの人……魔物を、素手で……)
エリナの胸の奥では、まだぐるぐると感情が渦を巻いていた。
怖かった。けど、それ以上に――信じられなかった。
だって、あの魔物が目の前で吹き飛んだのだ。しかも、たった一人の、素手の男の手によって。
それは、絵本の中の“英雄”の姿と、重なって見えた。
(怖くないわけじゃない。でも……本当に、助けてくれた)
そう思ったとき、胸の奥に――
じわじわと、温かいものが満ちていくのを感じた。
自然と、表情が和らいでいた。
恐怖にこわばっていた顔が、ふと緩んでいた。
彼が自分の前にいてくれる――それだけで、わずかに心が軽くなった。