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ハクモクレン

 窓から滴り落ちるように、秋の憂いをたっぷり蓄えた柔らかな光が、ベッドに静かに降り注いでいた。日が雲間から顔をのぞかせた途端、くぐもっていた光は鮮やかに転じた。


 その光を背に浴び、煌々と咲いている花がある。

 庭のハクモクレン――祖父の好みで植えたそれは、仄かな香りを漂わせながら、窓辺に寄り添い、穏やかな気流に乗って花弁をふわりと揺らしていた。


 祖父は病床にあって、折にふれてこの花の様子を私に尋ねた。


「いくつか芽を出しましたよ」


 そう報告すると、祖父は何も言わず、目に涙をためて窓の外を見やった。

 その頃になると、室内には花の香りがほんのりと満ち始める。

 上向いた目と口が揃って、いつものように言う。


「ハクモクレンの枝を、取ってきておくれ」


 私は細い枝を選び、可憐な花を見つけては、根元から優しく、けれど勢いよく折る。そしてそれを静かに、祖父の枕元へ横たえた。


 ハクモクレンは、ハクモクレンらしく、置かれた途端に花をややもたげる。たった四枚の葉を、ゆらゆらと風に揺らしながら。


 祖父の涙が、つうと目尻を伝い、ちょうど萼に触れんばかりのところまで落ち、最後にはそっと布団へ零れ落ちた。


「ああ、可愛いや……ああ、可愛いや……名前をつけてあげようか。どんな名前がよいかねえ」


 花は風に揺れながら咲いていた。

 ぎゅっと詰まった雄蕊たちが並び、こちらを見上げている。


「ごらん、けなげで、色がいい。空の青さに染まらず、土の黒さにも負けずに咲いている。そんな白を、覚えているか」


 祖父は花から目を離し、ふっと天井を仰いだ。蒼い顔に黒眼が静かに映る。


 止まらぬ涙の粒を数えながら、私は静かに祖父を見守った。

 やがて、点のような雫は線となり、線は水面のように広がっていった。


 ハクモクレンは、それを見ている。風に揺られ、笑っている。

 水に触れても、なお笑っている。

 絶えず水面は広がり、絶えずハクモクレンは笑っていた。


 私は部屋の隅の丸椅子から、そっと立ち上がる。

 体の内を、音のない血潮の呻きが駆け巡った。


「私が見えますか。私が、聞こえますか」


 静かに問いかけると、祖父は小さく頷いた。

 左手には、折った枝。右手には、ペン。


「書くものをくれ。すぐに、書くものを」


 私は上着の内ポケットにしまってあった薄いメモ帳から、一枚を剥ぎ取った。祖父は、それに私には読めぬほどの達筆で、するすると数文字を書き記した。


「これを、あいつに見せてくれ。それから……これには水をやってくれ」


 私はハクモクレンの枝をそっと抱え、水を与えた。すると、花は元気を取り戻したように、再び葉を揺らした。


 祖父は、そのあいだ、ただ静かに横たわっていた。


「うむ、これでじゅうぶんだ」


 そう言って、祖父は目を閉じた。

 祖父はそこで一時間を過ごした。

 私もまた、同じ時間をそこで過ごした。


 やがて私は目を伏せ、再び上着のメモ帳を取り出す。祖父の手からペンを抜き、書き始めた。十分ほど書き綴り、次のページに差しかかったとき、ふと、手が止まった。


 一文字も書けない。

 一文字も、何も聞こえない。

 一文字も、何も、浮かばない。


 筆記は面にもならず、点にも線にもなれず、ただ白目と白目が赤く滲んだ。


 ハクモクレンは揺れている。

 誰にも染まらずに、揺れている。

 四枚の花弁は、せわしなく、けれど静かに揺れている。


 私はその中の一輪をそっと取り上げ、布団の真ん中へ置いた。


 それは今度、静かに笑っていた。


―― ああ、花よ。お前はさっき、食ったろう。

 しょうがない。今からご飯をあげよう。

 泣くなよ、泣くな。そんなに泣くか。

 ……おお、泣くなよ。泣くな。わかったから。


 実は、私も泣きたい気分なのだ。

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