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彼女のちょっとした浮気。

作者: 白煙モクスケ

MotoGP2023も終わったので、ちょっと書いてみた。

 真っ青な空が寒々しい2月は14日の朝。


 逢見和花はフルフェイスヘルメットを脇に置き、駐車場の端に停められたマシンのシートを剥がす。

 大柄な青白ツートンカラーのマシンは、スズキGSX-R1000R。2001年モデル。


 名門スズキが発表したリッター・スーパースポーツの嚆矢であり、デビューした年に数々のレースでタイトルを獲得した年間最優秀マシンである。


 その大柄な容貌はなんというか全体的にむっちりとした丸みがある。比較的角度の浅いスラントノーズアッパーカウルに単眼と左右エアインテークを配した顔立ちは、少々のっぺりしていた。リア回りがスリム化される以前のマシンのため、お尻が少々大きい。


 ただし、むっちりぽっちゃりな容貌とは裏腹に、その走力性能は凄まじい。水冷4ストローク直列4気筒エンジンは乾燥車重170キロに対して最高出力160PS、最高トルク11キロ超。パワーウェイトレシオは1・1。この数字は最新スーパースポーツと同格である。


 加えて高いコストパフォーマンスと頑健なタフさが評価され、世界中のプライベーターやアマチュアレーサーに絶賛され、改造範囲が限定的なレースでは圧倒的強さを誇った(強すぎてR1000Rのワンメイクマッチが生じたほど)。さらに、太い低速トルクと操作性からツーリングを愛する人々からも高く評価された。


 この傑作機は和花が生まれる以前、父が購入したマシンだった。

 父が社会人一年目の初ボーナスで購入した思い入れのあるマシンで、翌年に母と出来ちゃった結婚(和花を身ごもった)した際、母から『結婚と出産費のために売れ』と言われても頑として売らなかったらしい。


 家庭を持ってからも、父は大事にこのマシンを乗り続け、バックステップや社外マフラーにETCなど細々とカスタムしつつ、大きくなった和花や弟を後ろに乗せてミニツーリングしたりしていた。

が、40半ばを過ぎた今、父はGSX-R1000Rをほとんど乗らず、中古で購入したホンダのCB400SFをドンドコ走らせている。


 父曰く『スーパースポーツの搭乗(ライディング)姿勢(ポジション)はオヤジの腰にキツい』。

 母が『乗らないなら売っちまえ』と度々小言を訴えるも、父は思い出のバイクだから売りたくないらしい。


 おかげで、和花が大型自動二輪の免許を取った時、『俺のマシンを娘が乗り継ぐって悪くないなぁ』と快く乗ることを許してくれた(コカすなよ? コカすなよ? とうるさくもあったが)。


 和花はキーを回してハンドルロックを外し、R1000Rを駐車場から家の前へ押していく。乾燥重量170キロ+燃料その他だ。女子大生には軽くない。


 口元から白い吐息を盛大にこぼしながら、R1000Rを家の前に出し、キーを回した。バッテリーから電気を注がれた電装系が目を覚ます。


 エンジンをスタートし、エンジンの暖気開始。大排気量の直列4気筒エンジンの力強い鼓動と、アルミ製排気管が奏でる快音が住宅地に響き渡った。

 御近所迷惑だが、少しばかり勘弁願おう。


 和花は駐車場の脇に置いた名門アライ製のヘルメットを手に取ってR1000Rの許へ戻り、シートに跨った。

 和花は身長160代半ば。R1000Rのシート高83センチはちと高かったため、リアショックを弄って少しシート高を落としてある。


 右のミラーを覗き込んで髪型とメイクの塩梅を確認。

 くりっとした双眸。鼻筋の通った顔立ち。大学に進学してから少しばかり茶味を加えるようにした長髪は走行時の邪魔にならないよう三つ編みに結いまとめてある。


 トップスは赤と黒の冬季用アルミインナー・ナイロンジャケット。ボトムはスリムなプロテクター付きライダーパンツと股引染みた防寒レギンスの重ね着。寒さ対策は大事。足元は足首までしっかり覆うタイプのライダーブーツ。手元はプロテクター付き防寒グローブだ。

 最後に、背中のリュックサックの具合を確認。荷物がブレる感覚ナシ。


 暖気が終わり、和花はアライ製のヘルメットを被る。

「よしっ! 行くぞっ!」


 クラッチを切ってシフトペダルを一速に入れ、クラッチをリリース。アクセルを開けずともR1000Rがそろそろと歩み始める。スコーンと勢いよく走り出したいところだが、これ以上の御近所迷惑(とそれに由来する母の小言)は避けねばならぬ。ちょろちょろと進み、自宅からワンブロックほど離れてから、和花はアクセルを開けた。


 どかん!


 かつて世界を席巻したエンジンが本領を発揮。朝の冷たい大気を引き裂くようにR1000Rが走り出す。


「さむぅいっ!!」

 ヘルメットの中で悲鳴染みた声を上げる和花だが、その顔は笑顔だった。


 目指すは隣県某市。

 いざ行かん。遠距離恋愛中の彼氏の許へ。


       〇


 朝日の注ぐ鴫津市桃ノ坂峠を青白のGSX-R1000Rが疾駆していく。


 緻密かつ大胆なスロットルワークに合わせ、総排気量998cc水冷4ストローク直列4気筒エンジンが歌い、アルミ製排気管が吠える。


 名門アライのフルフェイスヘルメットの中はゾッとするほど静かに感じられ、ハンドルを握る和花は瞬きを忘れるほど運転に集中していた。


 路面は公道らしく粗い。細かな歪み。小さな凹凸や起伏。路肩際は堆積した砂利や落ち葉。それに、コーナーごとに敷かれた減速帯やセンターラインに並ぶキャッツアイも、サーキット紛いの速度で走行中の二輪にとって、命を狩る罠と同じだ。


 頑健な倒立フォークとリアショックが接地衝撃を和らげるべく屈伸を繰り返し、強烈な旋回荷重と遠心力でアルミ製ツインスパーフレームがしなり、スイングアームがたわむ。


 和花はコーナーへ飛び込む度に腰を落とし込み、旋回荷重と遠心力へ抗うべくマシンを大きく倒しこむ。体捌きは些か荒々しく、卸金みたいに荒れた路面で膝のプロテクターをガリガリと削らせながら、マシンを右へ左へぐいぐいと曲がらせる。


 些か手荒で強引なコーナリング。

 デジタル式速度計の数字とアナログ式回転計の針が目まぐるしく踊り、エンジンの駆動音とマフラーの排気音が忙しなく音色を変える。水温計がラジエーターの冷却水が煮えているぞと訴え続けていた。

緩やかなコーナーをぶち抜くように走り抜け、迎える下りのストレート。


 距離は長くないが、一気に加速。リッタースポーツ特有の暴力的な加速荷重と走行風圧、減速帯を踏み越える接地衝撃にカウルがバタバタと震え、ヘルメットのシールドが微かに軋む。


 そして、時速160キロで迎えるコーナー。

 コーナー突入のぎりぎりでフロントブレーキを、がつん。


 速度計の数字が吹っ飛ぶように減退。ニッシン製6ポットブレーキキャリパーの強力な制動に荷重が車体前方へ移る。その刹那、一気にシフトダウン。荒々しい急制動に対して丁寧なクラッチワークとリアブレーキコントロールを行い、リアタイヤをハーフロック。


 一連の操作と路面の凹凸を拾った結果、マシンのリアタイヤがめりめりと横滑りしていく。


 刹那の危険性も委細無視。和花は迷うことなくコーナー突入に合わせてシートから腰を落とし込み、マシンを深く倒しこむ。フルバンクのコーナーダイブ。路面に削られるプロテクターの感触が伝わってくる。


 01年式GSX-R1000Rにはアンチロックブレーキシステムやトラクションコントロールなど乗り手を助ける機構が存在しない。速度。回転数。荷重。遠心力。バンク角。タイヤのグリップ。全てを乗り手自身が把握し、制御し、操縦しなければならない。


 和花は些か危なっかしくも、全てを成し遂げる。

 車体を倒しこんだことでリアタイヤが路面を強くグリップ。タイヤ端のビバンダム君が削られていく。


 ハンドルやステップから伝わるリアタイヤの駆動と感触を知覚した瞬間、スロットルを開ける。ロングストークのエンジンが猛々しく吠え、激増する回転数と出力に合わせてリアタイヤが地面を強く強く強く蹴りつける。


 凄まじい勢いでマシンが旋回し、コーナーのチョッピングポイントをぐいぐいと突破。

 コーナー出口を目指し、車体を立ち上がらせながらギアを上げ、アクセルをどかん。

 GSX-R1000Rの誇るゴツいトルクがマシンを一気に加速させていく。


 強烈な加速圧と荷重移動に体の血が引っ張られる。後輪の駆動力に負けてフロントが浮き上がりかけるが、ハンドルに体重を預けて挙動を抑え込む。


 そのマシンコントロールと体捌きはどこか危うい。さながら怒り狂う猛牛に乗っているような。

 その荒々しく強引な激走は、まるで荒れ馬を無理やり走らせているような。


 しかしながら、和花はヘルメットの中で喜色を湛えていた。

 スリリングな走りを行う爽快感。頭蓋に分泌される大量のアドレナリンとエンドルフィン。電流のように体内を走る刺激的な快楽。


 ああああ気持ちぃいいいいいいいいいいいっ!!


 逢見和花はバイク乗りだ。

 少し頭のネジが外れかけた類の、道路交通法違反者ともいう。


     ○


 背後から排気音が迫ってくる。

 その攻撃的な音色は水冷V型4気筒高回転型エンジンのもの。


 バックミラーに映る小さな影。フルカウルに施された青白黄の特徴的な配色は80年代末に勇名を馳せたホンダ・ロスマンズカラー。車体左右から伸びるマフラー。

 ホンダのミドルスポーツRVF400だ。


 RVF400-NC35はレーサーレプリカブームの掉尾を飾った4スト・レプリカの名機。カタログ公証53PSだが、某社製エンジンパーツと電装ユニットを組み込み、吸排気系を換装することで70PS以上に増強できることは、走り屋の常識である。


 そんなRVF400を駆るライダーは男性で、名門ショウエイ製のスポーティなフルフェイスヘルメットを被っている。ダークグレーのライダーパーカーとキャメル色のライダーパンツを着こんでいた。


“彼”は一年半くらい前から鴫津市内で見かけるようになったライダーで、名前はおろか顔も知らない相手だ。が、桃ノ坂峠や鴫津バイパスなどで遭遇する度、レースごっこを興じている相手だった。一度、市内の高校の制服を着ているところを見た覚えがあるから、まだ高校生だろう。


 ミラー越しにRVFを駆る少年ライダーと目が合った気がした。

 向こうはフルフェイスヘルメットにミラーシールドで、顔どころか目も窺えないはずなのだが。


 RVFが翼をはばたかせるように加速を始めた。いつものようにレースごっこを御所望らしい。

 マシンの排気量は向こうが半分以下、出力も50PS近く低い。パワーウェイトレシオの差もある。しかし、タイトなコーナーが多い桃ノ坂峠では、パワーを活かせる機会はそう多くない。


 となれば、後は技量の勝負。これまで幾度かレースごっこをした経験を踏まえて言うなら――


 受けて立ーつっ!!

 和花はフルフェイス内で控えめに微笑み、スロットルを開けて加速。


 桃ノ坂峠の麓を目指し、二台のマシンが鮮烈に峠道を駆けていく。

 和花の駆るGSX-R1000Rがブルライドのように荒々しく、マシンパワーで強引にコーナーを駆け抜けていく一方、ロスマンズカラーのRVFは水面へ飛び込むようにコーナーへ突入し、プロライダー顔負けの美麗なコーナリングを披露する。


 くぅっ! 相変わらず上手いっ!!


 RVFを駆る少年ライダーの美妙な走りに、和花はヘルメットの中で歯噛みしてしまう。

 仲良く踊るようにひらりひらりと軽やかにコーナーを超え、手と手を取って舞うように差しつ差されつ。


 スリルと危険と昂奮と恐怖の共有。デートみたいと揶揄うには生々しい、睦み合いのような官能さを伴う競走。


 一つ間違えばマシンの損壊と自身の死傷を招く危険なワルツ。世間一般に御迷惑な道交法違反行為。それでも、和花と“彼”にスピードを緩めるという選択肢はなく。


 梢の隙間に鴫津市街が覗き見え、遠望に鴫津湾がうっすら。

 そして、2人を迎えるストレートと緩く湾曲したロングコーナー。


 リッタースポーツを駆る和花が出力に物を言わせ、レーサーレプリカを追い抜いてコーナーへ先行。

 続いて、青白の大きなテールと和花のフィルシーな尻を窺いつつ、“彼”もロングコーナーへ突入する。


 和花がブレーキング。テールランプを赤々と輝かせた。


 が、“彼”はまだブレーキを掛けない。

 ぎりぎり、本当にぎりぎりの一瞬まで速度を落とすことなく突っ込み――


 がつん。

 ブレーキディスクが焼けそうなほど強烈な急制動。荷重が完全にフロントへ移り、RVFは俄かにリアが浮きかけるが、 “彼”は気にも留めずマシンを深く大きく倒しこむ。


“彼”はリアタイヤの接地を感じ取り、車体を寝かせながらアクセルを開けた。水冷4ストV型4気筒DOHCエンジンが雄々しく歌い、マフラーが猛り吠え、マシンが身を捩るように加速する。


“彼”のRVFがアウト側から和花のGSX-R1000Rをぬぅっと追い抜き、ロングコーナーの出口に先んじていった。


「くぅううううううっ!」

 年下かつたかだか排気量400㏄のライダーに抜かれる悔しさに、和花は思わず唸り声が漏らす。同時に、“彼”の美しいライディングとキレのある速さに見惚れてしまう。


 そして、敗北に悔しさを感じる以上に、“彼”と走ることにスピードの快感を共有しているような感覚を抱き、どこか生々しい背徳感と艶めかしい罪悪感を覚える。


 彼氏に対して浮気をしているような、そんな疚しさを。


 それでも、和花は“彼”と走ることを止めない。止められない。


 スピードの多幸感を求め、“彼”と走ることで得られる快楽感を求め、桃ノ坂峠を走り続ける。

 そうして、ストレートでマシンパワーに物を言わせ、和花が先んじたところで桃ノ坂峠の麓に到着。ゴールを意味する信号が赤々と光っている。


 和花は小さく息をこぼし、スロットルをリリース。回転数を落として減速を始め、順次ギアも落としていく。


 エンジンが拗ねたように鳴き、マフラーが不満げに唸る。速度計と回転計がぐんぐんと数字を落としていく中、上体を起こしてブレーキ。右手中指と薬指でブレーキレバーを握り込み、右爪先でブレーキペダルを踏みこむ。

 前後輪のディスクブレーキによって滑らかに減速。停止線に合わせてぴたりと足を停めた。


 ギアをニュートラルへ入れ、和花は緊張を抜くようにフッと一息こぼす。外気は鳥肌が生じるほど冷たく寒いのに、体は火照って汗ばんでおり、心が酷く弾んでいる。


 アライのフルフェイスヘルメットの中で、和花はうっとりと呟く。

「気持ちよかった……」


 と、RVFがやってきて隣に停車した。ミドルスポーツに跨る少年ライダーはヘルメットのミラーシールドを上げぬまま和花を見て、誘うように対向車線を指さす。

“彼”はまだ走り足りないらしい。


 和花は小さく笑い、首を横に振る。

“彼”と走ることは楽しいけれど、今日は隣県の彼氏の許まで行かねばならない。


 フラれた“彼”は小さく肩を竦め、信号が変わると共に、和花へ小さく手を振ってから桃ノ坂峠の反対車線へUターン。


「またね」

 和花は去っていく“彼”へ向け呟き、桃ノ坂峠を後にした。


 浮気の時間は終わり。

 さあ、ゆかん。彼氏の許へ。

他作品。

更新頻度低下中の『転生令嬢ヴィルミーナの場合』

エタり中の『彼は悪名高きロッフェロー』

短編『佐竹君は如何にして人生初のバレンタインデーチョコレートを貰ったか』


よろしければどうぞ。

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[良い点] 週末ライダーかつ道交法を守る身としては、理解不能なテクニックとアドレナリンに溢れたお話。 峠を攻めてた友達は皆事故って全治半年だの一年だのやらかすのでビビってました。 羨ましいけど下手する…
[良い点] 最初っから最後まで趣味全開で、風が吹きつけてくるような文章が素敵です。 [一言] 学生当時、VFR400Rのロスマンズカラーが大好きでした。あの片側アームが格好良くって、もう。 なんだか若…
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