29 宵闇に沈むエピローグ
まだ日も昇らない早朝。
そっとベッドから抜け出したフェリスは、細心の注意を払って窓辺まで移動した。
衣擦れの音一つにも最新の注意を払ったし、ベッドも軋ませなかった。足音はふかふかの絨毯ですべて吸収されている。隣の部屋までは聞こえていないはずだ。
音を立てぬようにそっと、そうっと窓を開けたフェリスは、半開きの窓からあるものを投げ捨てた。できるだけ遠くに。薄闇の中に飛んでいった軌跡も追わない。
そして再び窓を閉めようとしたところで――
「――どこへ行くの? ユーフェ」
続き間になっているヴィクトールの寝室から声がかかった。
小さな物音でも彼は必ず起きる。フェリスが何度もいなくなろうとしたことがよほどトラウマらしい。これまでも何度も同じように声を掛けられていた。
「どこにも行きませんよ、ヴィクトール様。少し暑かったので窓を開けようとしただけです」
「そっか。ごめんね、疑っちゃって」
そして、こつん、と扉をノックされる。
「……開けてもいい?」
「ダメです。夜は開けないという約束ですよね」
「けち。ちょっとだけ。顔見るだけ」
「…………」
「ユーフェ~。お願い~。きみの顔を見て安心したいだけなんだよ」
そうして渋々扉を開けることになるのだ。
ヴィクトールの肩下まであるダークブロンドの髪はしどけなく下ろされ、滑らかな夜着からは太い首筋と鎖骨が覗いている。紫の瞳を細め、彼は甘い声でフェリスの偽名を囁く。
「良かった、ユーフェ。ここにいた」
顔を見るだけと言ったくせに、ヴィクトールはフェリスをぎゅうっと抱きしめる。
「……あーあ。早く一緒のベッドで寝たいなあ」
呟かれた言葉にフェリスは真っ赤になった。
「っ……、何言ってるんですか……」
「そうしたら、早起きしようって気も起こさせないくらいとろとろに甘やかしてあげるのに」
甘い声が耳朶をくすぐる。
これ以上愛を囁かれたらどうなってしまうのかと思うと怖い。
(……わたしは『ユーフェ』。ユーフェ・エバンス)
フェリスと言う名前はもう一生使わない。
聖ポーリアには帰らない。
フェリスが――否、ユーフェが窓から捨てたのは、ノクトに渡されたカメオのペンダントだ。もちろん、中に入っていたヨハンからのメッセージは燃やした。カメオは暖炉に投げ込んでも燃え残ってしまうため、「どこかに落としてしまった」ということにする。そして、「兄とは喧嘩して絶縁した」のだ。この国にユーフェ・エバンスの家族はいない。
(嘘で塗り固められた人生だけど、これでいいの。ヨハン様ごめんなさい。『フェリス』は任務に失敗して死にました)
これからはひっそりとヴィクトールの側にいられればそれでいい。
彼が結婚を望むなら、側妃として側にいようとも思っている。
「愛しいユーフェ。ずっと俺の側にいてね」
「はい、ヴィクトール様。わたしはずっとお側にいますよ」
皇妃にはなれませんから、あなたが素敵な令嬢を娶る気になるまでは側にいますから。
ユーフェは今日も、心を込めて嘘をつく。
◇
次期皇帝任命の儀が迫っている中でも、ヴィクトールはユーフェとのお茶の時間を欠かさなかった。
ヴィクトールに比べればユーフェの忙しさなんてたいしたことのないはずだが……、それでもマナー講座やら最低限の国史やら当日着る衣装のチェックやらでくたくたなのに、疲れを一切見せないヴィクトールは超人すぎやしないか。
そんなヴィクトールがユーフェにいそいそと見せてきたのはドレスのデザイン画だった。
「ユーフェはどれがいいと思う? 今仕立てているのは聖女らしい清楚なデザインだけど、裾に贅沢にレースをあしらったものも可愛いし、こっちの肩を出したものも綺麗だと思わない?」
「えっ⁉ またドレスを作るんですか? 今も何着も仕立ててもらっているのに勿体ないですよ」
「何言ってるの。結婚式用のドレスは作るのに時間がかかるんだから今のうちにどんどん決めておかなくちゃね」
「どなたかの結婚式にわたしも参加するんですか?」
これからヴィクトールの公務にはユーフェも同伴して欲しいと言われていたため、ユーフェは「正装」をたくさん仕立ててもらっている最中なのだ。この国で数少ない聖女は珍しいし、多くの貴族からも招待を受けていた。
(どっかの国の結婚式にでも来賓で呼ばれたのかなあ……)
国花が刺繍されていたり、贅沢にレースや宝石をあしらうつもりらしいデザイン画を眺めていると、ヴィクトールはにこやかに――いや、ちょっとどす黒いオーラを滲ませながら告げた。
「やだなあ。俺とユーフェの結婚式に決まってるじゃないか」
「……え?」
「俺たちが結婚するってことは近いうちに公表するからね? 式は一年以内――いや、可能なら半年以内には挙げたいから、近隣諸国に向けての招待状も作り始めているし」
「え? え?」
「ユーフェは俺のことが好きで側にいてくれるんでしょう? プロポーズに了承してくれたものだと思ってたけど……、俺の勘違いだった?」
「か、勘違いではないですが! でも、側妃相手に来賓客を招いての結婚式なんて必要ないのでは……」
「正妃だよ?」
首を傾けたヴィクトールが、不思議そうにユーフェを見つめる。
「俺の妃はユーフェただ一人。側妃も娶るつもりはない」
「…………」
茫然とするユーフェにヴィクトールは尚も続けた。
「そうそう。聖ポーリア国の王太子にも招待状を送ったんだ」
「はい⁉」
「停戦を申し込んだ『友好国』だし、招くのは普通でしょ? どうかしたの、ユーフェ? ……何か問題でもあった?」
――アレックスがいなくなってすぐにヴィクトールが行ったのは、聖ポーリア国への侵略をやめさせることだった。
元々アレックスが先導して吹っかけた戦争だ。
強硬派のアレックスがいなくなったことで旗頭がいなくなり、おまけに第一皇子派の主だった貴族にはなぜか次々に不祥事が降りかかった。
奪った土地はすべて聖ポーリアに返還、今後は友好国として交流していきたい、という次期皇帝ヴィクトールの申し出をヨハンは受けた。大国であるアンスリウム皇国側がかなり下手に出た申し出だったため、他国から狙われやすい聖ポーリア国にとっては大きな庇護を得られることになるのだ。
故郷との問題が平和に解決するのなら良かった、とユーフェもひそかに胸を撫でおろしていた。もっとも、ヴィクトールには自分が聖ポーリア側のスパイだったとは打ち明けていない(ヴィクトールのことだ。ひそかに調べ上げて突き止められているとは思うけれど)。だからユーフェが、「聖ポーリアの王太子を招かないで」なんて言うのはおかしなことで……。
結婚式の招待状を手にしたヨハンの姿を想像するとぞっとした。
ノクトは――アレックスが死んで逃げ帰ったのだろうか。ノクト相手に、ヨハンは招待状を見せて笑うかもしれない。
『ははは、見てくれノクト。あの役立たずのフェリスが、アンスリウム国の皇妃になるらしいぞ』
ユーフェの出自は伏せられているが、――ヨハンの言ったことを鵜呑みにするのであれば、聖ポーリア国の王家の血を引いた娘なのだ。ヨハンの支配下から抜け出したユーフェがうっかりそのことを公表してしまえば、聖ポーリア国の王位継承権問題にも今後関わってくる可能性だってゼロではないわけで。
『やっぱり十年前に殺しておくべきだったな』
美しい笑みを浮かべて、招待状を踏みつぶしていそうなヨハンに会うのか……。結婚式で……。
(何食わぬ顔をして「この度はおめでとうございます、皇妃殿下」とか言いに来るヨハン様を迎えないといけないわけ? で、わたしも素知らぬ顔で「初めまして、聖ポーリア国の王太子様にお会いできて光栄です」とか言わないといけないわけ? 結婚式が暗殺会場になったりしない?)
恐ろしすぎる想像しかできないユーフェに、ヴィクトールは微笑む。
「顔色が悪いね。どうしたのユーフェ?」
「い、いいいえっ、なんでもないです……」
そしてヴィクトールには一生強請られ続ける、と。
「――きみは嫌かもしれないけど、きみを守るためには皇妃になってもらったほうが良いんだよ。簡単に手出しができない地位にいてくれた方が安全だし、何より俺が、きみと対等な関係でいたいしね。……というわけで、ユーフェ。どのドレスが良い?」
着々と結婚式の準備を進めようとするヴィクトールにユーフェももう諦めた。
アレックスがいなくなってからユーフェの護衛は増えたし、エミリーの一件で怪我の跡を癒して欲しいという令嬢がひそかに頼ってきた後に後ろ盾になってくれたり、そしてどうやら近いうちに法的に夫婦の契りを結ばされそうだし……。囲い込まれて逃げ場はない。
それを嬉しいと思ってしまっている自分もいる。
聖ポーリアにいた頃、心はずっとヨハンに捕らわれていた。
今はヴィクトールに捕らわれてはいるけれど、愛され、必要とされることで満たされている。
「……ヴィクトール様はどのドレスが良いと思いますか?」
「俺が選ぶの? こういうのはユーフェが選んでこそ意味があるんだよ。俺が選んで着せるよりも、きみが俺のために選んでくれたっていう事実が嬉しいんだから」
「せっかくならヴィクトール様に綺麗だって思われたいじゃないですか」
目をしばたたいたヴィクトールは破顔した。
嬉しそうな顔をされるとユーフェも笑ってしまう。
(こういうのを幸せっていうのかな?)
こうして、スパイを命じられた聖女は敵だった国の皇子に寵愛され、波乱万じょ……いやいや、幸せに暮らすことになりました。
fin.
本編はここまでですが、明日、後日談として『第二皇子は聖女の能力向上を許さない』『世界で一番くだらない結婚式』を投稿させていただきます。あと2話ほどお付き合いくださると嬉しいです。




