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28 失いたくない人

「油断しましたね、兄上」


 フェリスには何が起こっているのかわからなかった。

 かたく目を閉じ、ピクリともせずに寝台に横たわっていたヴィクトールが跳ね起きたかと思うと、隠し持っていた細剣(レイピア)でアレックスの背を貫いたのだ。


「ヴィク、トール……ッ、貴様……」


 氷のように冷たい目をしたヴィクトールはレイピアを引き抜く。

 その胸を容赦なく突いた。


「俺の大切な人は返してもらいますよ」


 驚きに目を見開いたままでアレックスは倒れる。

 血を被って立つヴィクトールを、フェリスは床にへたり込んだままで見上げていた。


 やはりヴィクトールは優しいだけの男ではなかった。


 フェリスを責め立てていたことなんて、彼にとっては可愛らしいものだろう。本質は誰よりも冷酷に人を切り捨てられる人なのだ。

 そんなヴィクトールを怖いと思ってもおかしくはないはずなのに。


「ユーフェ」


 名前を呼ばれた瞬間、フェリスの目からはどっと涙が溢れた。


「生き、て……」

「生きてるよ。きみのおかげでね」


 いつものように微笑んで、ヴィクトールはフェリスを抱きしめた。


「……ヴィクトール様、あとは我々が」


 ロバートが低く呟き、血だまりに倒れ伏すアレックスに視線を落とす。つられてアレックスの状態を見ようとしてしまったフェリスの目をヴィクトールが塞いだ。覆われた視界の耳元でヴィクトールが囁く。


「ユーフェ、きみは――兄上を助けるの?」

「……」


 聖女なら。

 傷ついた人を癒すのは当然のことだ。

 アレックスの事など大嫌いだが、死んでしまえとまでは思っていない。

 しかし、ここでアレックスを治療したとしたら――また、ヴィクトールは命を狙われるのだろうか。フェリスだって恨みを買っている。生かしておくべきではない。


「兄はもう死んでる」


 ヴィクトールは静かに続けた。


「だから、助けないで」


 浅く聞こえる息はアレックスのもので、彼がまだ息絶えていないことは明白だったが、ヴィクトールはフェリスに助けるなと言った。

 もちろん、目隠しを振り払ってアレックスに駆け寄ることもできる。

 できるけれど……。


「助けないで。俺のために」


 ぎゅっとフェリスを抱きしめたヴィクトールは、そのままフェリスの身体を抱え上げた。こちらからはヴィクトールの顔が全く見えない。

 だからもしも彼が「フェリスを傷つけるなんて許さない」という名目でアレックスを始末したのなら、フェリスは責任を感じて治療をするだろう。

 しかし、ヴィクトールはそうは言わなかった。幼い頃からアレックスに辛酸を舐めさせられ続けたであろう彼の心の内はフェリスにはわからない。助けないでくれと言われ、迷った挙句に彼の言葉に頷いてしまう。

 ヴィクトールはほっとしたようだった。


「きみは何も悪くない。悪いのは全部俺だから」

(いいえ、わたしも同罪です)


 アレックスをここで見捨てていくのだから、多分一生、後ろ髪を引かれ続ける。

 それでもフェリスはヴィクトールの手を取る。

 同じ罪を共有し合い、生きていく道を自分は選んでしまう。


「あとは頼んだよ、ロバート」

「かしこまりました」


 医務室のような特殊な部屋を出ると、ヴィクトールは自室にフェリスを連れ込んだ。

 彼は返り血を浴びているし、フェリスも崖を転がり落ちた男装姿のままでズタボロの姿だ。ひどい有様のままベッドに下ろされると、ヴィクトールは後ろ手に縛られたままのフェリスの縄を解いてくれた。そして、脱臼させられたままだった肩も――「このままにしておけないし、ごめんね」と言って治してくれた。痛みで悲鳴を上げてしまったフェリスを泣きそうな顔で見つめている。


「……痛い思いをたくさんさせちゃってごめんね」


 フェリスの汚れた頬に触れられた。

 よほど自分はひどい姿をしているのだろう。泣きそうな顔のヴィクトールに、フェリスはぶんぶんと首を振る。


「こんなの平気ですよ。すぐ治せますから」

「治せないよ」

「え?」

「痛かった気持ちまでは治せない。傷ついた心までは癒せないでしょう? 嫌なことをいっぱい言われて、怖い目に合わせて――きみをたくさん傷つけてしまったね」


 優しく頭を撫でられてびっくりした。


 そうか、わたしは傷ついていたのか。役立たずと罵られ、死の恐怖にさらされることに。

 ヴィクトールの手は肩の辺りで無残に切られた髪を惜しむように止まる。


「……元はといえば、わたしが、お側を離れてしまったからで……、ヴィクトール様が謝ることなんて何もないですよ。ヴィクトール様こそ、どうしてわたしなんかを追ってきたんですか?」


「きみのことが好きだからだよ」


「……またそれですか。おかしいですよ、ヴィクトール様。死ぬかもしれないのに一人で飛び出してきて、実際死にかけて、もう助からないかもって思ったし……、わたしなんかのために、そんなに、必、死になるなんて……っ、おかしすぎますよ」


 まるで本当に、フェリスがヴィクトールを誑かし、冷静な判断能力を失わせてしまったようではないか。


「ごめんね」


 ぽろぽろ涙をこぼすフェリスの額に額をくっつけ、ヴィクトールは笑った。


「でも、ああでもしないと、きみは俺の事を信じてくれなかったでしょ? 前にきみを追い詰めてしまったから失ってしまった信頼を取り戻したかったし。それに……」


 唇の端を上げたヴィクトールは言う。


「これで、きみの心に居座っていた誰かをやっと追い出せた」

「!」

「あの時、俺の事だけを考えて癒してくれたんだよね。結構な勢いで毒が回っていたから、俺、本当だったら死んでたんだ。兄上も俺があのまま死ぬって思って疑わなかったみたいだし、だから『俺が死んだ』って報告に大喜びで飛んできちゃったんでしょう?」


 腹黒い微笑みだ。

 彼の性格が悪いということはフェリスも身を持って知っている。


 さんざん怖い目にも遭ったし、きっとまたフェリスが逃げ出すようなことがあれば容赦はしないだろう。アレックスを容易く騙して追い落とすのと同じように、フェリスの事もいとも簡単に追い詰めるような人だ。それなのに……。


「ねえ、ユーフェ。きみが俺を二度生かしたんだよ」


 フェリスの眦に唇を寄せたヴィクトールに涙を吸われた。


「本当だったら死ぬはずだった俺を生かしたのはきみだ。だから俺は、きみのために生きてみようって思ったんだ。……これまでたくさん傷ついて頑張ってきたんだね。これからはきみを傷つける何者からも守ってあげる。きみだけに愛情を注ぐって誓うよ。だから、俺と一緒に幸せになろう?」


 重すぎる。

 ヴィクトールを生かしたのはフェリスだから責任をとれと言われているみたいな告白だ。


(わたしの頭もだいぶおかしい)


 すっかりヴィクトールに絆されてしまった。


 聖ポーリアに帰りたくないと思うほどになってしまったし、ヴィクトールが死んだら生きていけないと大泣きしてしまうほどにこの人を好きになってしまった。

 ふらっと死んでしまいそうなこの人を繋ぎとめておかないと、なんておこがましくも思ってしまう。


「ユーフェ」


 フェリスの偽名を、ヴィクトールは愛おしそうに呼ぶ。

 口づけられたフェリスは縋りつくようにヴィクトールの胸にしがみついた。

 ぞくぞくと痺れるような感覚が背筋を駆け抜ける。もう快楽か恐怖かわからない。逃げられない感情の流れにフェリスは居て、ヴィクトールに翻弄されるだけだ。


「ね、俺の事を好きだと言ってくれる?」


 睦言のような甘い脅迫に、フェリスは遂に「はい」と答えてしまったのだった。


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