25 さよならも言えないまま
……バタバタと三人の足音が遠ざかっていくのを、
「むぐっ……」
店の扉の裏側で、男に口を塞がれたまま連れ込まれていたユーフェは確認した。
「サンキュ。謝礼だ」
「……まいどあり~」
男は金貨の入った袋を無造作に床に置いた。
そちらのほうを見もせずに店主は笑う。ユーフェは男に手を掴まれ、素早く店のバックヤードに連れ込まれた。
「一分で着替えろ。すぐに出る」
「……ノクト」
「手を動かせグズ。時間がねえ」
服を放ってよこされる。
久しぶりに会う「兄」は労働者風の格好をして、長く伸ばしていた前髪は短く刈り込まれていた。そして、ユーフェが何かを言うよりも早く、ノクトに髪を掴まれたかと思うと……。
――ジャキン!
ハサミで髪を切られた。
肩の辺りでバッサリと。
長く伸ばしていた黒髪はぱらぱらと床に落ちる。
「早く着替えろ。あと四十秒。裸でも連れていくからな」
「……っ……」
聞きたいことは山のようにあったが、ユーフェは黙って手を動かした。
下町の少年が来ているようなぶかぶかのチュニックとズボンを着る。
ノクトは部屋の隅でごそごそとやっていたかと思うと、ユーフェの顔を両手で包み込んだ。
「顔が白すぎて目立つ」
……泥を擦りつけられた。そしてくしゃくしゃに乱した髪にキャスケット帽を目深に被らされ、店の裏口に誘導される。幌のない荷馬車が止められており、ノクトが手綱を握った。ユーフェは積み荷の間に座るように命じられる。
「目ェつぶってろ。働き疲れたガキみてーに寝たふりしてろよ。いいな」
ノクトは煙草を咥えて馬車を走らせた。
ガタゴトと激しく積み荷が揺れる。
目を瞑ったユーフェの耳には聞きなれた声が聞こえてきた。
「……ェ様? ユーフェ様ーっ!」
ネリが必死に自分を探している声がする。
(ネリ)
このまま、「さようなら」なの?
起き上がりたい衝動に駆られるのをぐっとこらえる。
何も知らないネリはずいぶんと良くしてくれた。毎日毎日丁寧に髪を梳き、身支度を手伝い、ユーフェの話し相手になってくれた。それに、知り合ったばかりのエミリーとアネッサ……。楽しかった日々を思い出すと涙が滲んだ。
だけど――ユーフェは一度脱出に失敗している。まさかノクトがまだ城下に潜伏しているなんて思いもしなかった。彼にとっては命がけの行動のはずで、もしもここでユーフェが「嫌だ」とか「残りたい」なんて言おうものなら、きっと即座に始末されるだろうと思った。
(わたしは敵国のスパイなのよ)
出て行かなくちゃ。
この国から。
ガラガラと石畳を走った馬車は城門へと差し掛かる。
「おねがいしゃーす」
ノクトが軽薄な声を出す。
「ん。通ってよし」
「あざーっす」
通行証のようなものを見せたノクトは何も咎められることなく城門をくぐり、皇都を後にした。薄目を開けると城が遠くに見える。
(……ヴィクトール様は……、怒る、かしら……)
勝手にいなくなったと知ったら、また……。
責められた時のことを思い出すとぞっとしたが、あんなにも執着されたのは初めてだった。今ならもう少しうまい対応ができると思う。試す機会は、きっともうないけど。
「起きていいぞ」
ノクトに言われ、ユーフェは荷台から身を起こす。
ガタガタ揺れるたびに安定感なく跳ねる積み荷はほとんどがダミーのようだ。空箱や布で行商人らしく見えるように装っているだけだ。
「……このあと、どうするの?」
手綱を持つノクトは振り返りもせずに口を開いた。
「荷物は適当なところで捨てる。脱国を手引きしてくれる『協力者』を見つけたから、そいつとの合流ポイントまで向かうつもりだ」
「協力者……って……。信用できる人なの?」
「お前よりはな」
冷ややかに吐き捨てられ、ユーフェは……いや、《《フェリス》》は唇を噛んだ。
「何をぬくぬくと城で暮らしてるんだ。てめー、マジで役立たずだな」
「……ごめん、なさい」
「謝って済むと思うなよクソガキ。ヨハン様の命令じゃなけりゃとっくに殺してた。なんでお前みたいなグズのために、この俺がこんな危険を冒さないといけねーんだ」
「…………ヨハン様が……?」
「ああ、そーだよ。ヨハン様の命令だ」
こんなに役立たずなのに捨て置かれないなんて。
殺されても不思議ではないのに、フェリスを生かすなんて、ヨハンはなんて慈悲深いのだろう。まだ利用価値がある、使ってもらえる身なのだ。だから、フェリスは何が何でも聖ポーリア国に帰らなくてはいけない。
膝の上で握りしめた拳にブレスレットが落ちた。
『好きだよ、ユーフェ』
ヴィクトールが買ってくれたブレスレットだ。
(逃げ出せて良かった。ヴィクトールと結婚するなんてありえないもの)
ユーフェが別の男と話していたら絶対にねちねちと根に持つタイプの男だ。
エミリー嬢とのお茶会だって、あまり頻繁に行うようになると文句をつけてくるかもしれない。ネリと遊びに行ってばかりいると「俺とは出かけてくれないの?」とか言い出しそう……。
(そんな日は、もう来ないのよ)
絆されてしまって馬鹿みたい。
もう後戻りはできないのだ。次にヴィクトールに会う時があるとしたら――捕まって処刑されるときくらいだろう。
『何度でも言うよ。きみにわかってもらえるまで』
あんなのもみんな、全部、ユーフェを懐柔するための甘い言葉で。
『きみは役立たずなんかじゃない』
「――聞いてんのか、役立たず。荷車はここで捨てるから前に乗れ」
ノクトに命じられたユーフェは移動する。
手早く鞍や鐙をつけたノクトが前に座り、ユーフェは後ろに跨った。少しでも早くヴィクトールの元から離れるために風を切って走り出す。
短く切られた髪のせいで首元が寒かった。
「ノクト、どこに向かっているの?」
二時間ほどかけて馬を走らせたノクトは、街道から逸れ、木々の生い茂る森の方へと進んでいた。
「野営地を探してる」
「野営するつもりなの?」
「お姫様生活が長すぎてベッドじゃないと寝れなくなったのか?」
「そんなつもりで言ったんじゃないわ。だけど、わたしがいなくなったことはもうヴィクトールの耳に入っているだろうし……、国境を封鎖される前に脱出した方がいいんじゃないかと思っただけ」
「馬にも限界がある」
「だったら、夜通し歩いたってわたしは平気だし……」
ノクトは冷ややかな目でフェリスを睨んだ。
「黙ってろ。俺のプランに口出しすんな」
「…………」
諦めて従う他ないようだ。
日が落ちる頃、ノクトは古びた山小屋を発見した。
中は無人で、床には埃が積もっている。
「狩猟で使われてた小屋っぽいな。人が訪れた形跡もない。今夜はここで夜を明かす」
「馬は?」
「来た道に雨風をしのげそうな横穴があったからそこで休ませる。お前は水汲んでこい」
「……わかった」
道中で小川も見つけていた。
小屋を漁るとボロのヤカンがあったので拝借する。物を取るたび、手を動かすたび、ちらちらとブレスレットが目に入り、フェリスはそっと外してポケットにしまった。こんなものをいつまでもつけていたらヴィクトールに未練があるみたいで嫌だ。しかし、捨てる場所もないのだから仕方ない。
「……ノクト……、まだ戻ってないのね」
水を汲んで戻ってもノクトの姿はなかった。
一晩寝るだけだが軽く小屋の掃除でもしておいた方がいいだろうか。役立たずと罵られ続けるのはごめんだ。
湿り気を帯びた風が木立を揺らしている。今夜は雨になりそうだ。
(だからノクトは野営場所を探していたのね。雨の中歩き回るのは体力を消耗するし、どこかの宿に泊まって痕跡を残すのは危険だもの。ノクトの言うことややっていることは正しいわ)
外に放り出されたままのノクトの荷物が気になったユーフェは小屋の中に入れておくことにした。勝手に触ったら怒られそうだが、急に夕立が来ても困る。馬を置きに行くついでに、動物でも狩ってくるつもりなのかもしれないし……。
ユーフェが荷物に手を伸ばした瞬間。
「!」
鋭い痛みが肩に走った。




