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魔王軍と病原菌とどちらが怖いか

作者: 穴沢暇

 王国暦八○九年の秋、勇者の旅の仲間の一人、僧侶のダミアンは、戦場で奇妙な死体を発見した。

「鼻が、欠けてる……」



 かつて魔王が大軍勢と共に人間界へ侵攻して来たのは、もう四年も前のことである。

「この秋で丸四年ですな」

 溜め息をつきながら、宰相は言った。いならぶ大臣たちの表情も、宰相と同じく沈鬱である。

「遅れました」

 そう叫びながら慌てて会議の席上に着いたのは、医官長のシセーである。

 シセーは息を切らしながら、上ずった声で言った。

「魔族の弱点が見つかったかもしれません」



 秋、勇者一行は王都セイントに入った。見渡す限り、瓦礫の山である。

「ひどいな」

 勇者はそう呟く。無理もなかった。周りにあるのは、瓦礫と死体のみである。

 王都セイントは去年、魔王軍により陥落した。住民は避難し、王国政府は山奥にある古都モントラに移った。

 魔王軍の進撃は止まらず、しかも魔族兵一人一人にすら人間の兵士は全く歯が立たなかった。王国軍は壊滅し、街は破壊され、住民は拉致されるか殺されるかした。

 それでもこの四年、なんとか王国が抵抗を続けられたのは、この勇者の力が大きい。勇者は、女神から聖なる力と聖剣エクスカリバーを授かった男である。彼だけは、丸で虫を殺すように魔族兵を殺すことができた。

 しかし、多勢に無勢。王国はやがて滅亡することを誰もが知っていた。

 今、勇者一行は何故か魔王軍が撤退したセイントに単身乗り込んでいた。瓦礫と両軍の死体を見て回るが、理由らしきものは見つからない。

 その時である。僧ダミアンが訝しげな声を上げた。

「鼻が、欠けてる……」

 勇者と仲間の戦士ゲインはダミアンのもとへ駆け寄る。

 勇者一行は男ばかりの三人である。もう一人居た、紅一点は、先日魔王軍に略奪された。

「これがどうしたのだ」

 ゲインには、この魔族兵の死体の不可思議な点が分からない。

「もしかして、こいつは仲間に殺されたのか」

 勇者が言うと、ゲインも唸る。確かに、胸元に不自然な傷があった。

「そこではありません」

 ダミアンはそう言うと、手元を首に当てなにやら考え込んでいる。ダミアンの癖であった。

 ダミアンは考える。彼は聖職者だから、勇者一行に加わるまでは教会の慈善事業として貧民の治療に当たったことがあった。

「この遺体を専門の医官に渡しましょう」

 ダミアンがそう言うと、勇者と戦士ゲインは、合点の行かぬ表情ながら提案に従った。ダミアンは信頼されている。


 夜、王都近郊の前線基地のある医療テントの中で、遺体を見た医師、エドワードは言った。

「梅毒です」

 ダミアンは静かに頷いた。予想通りである。この場には死体一つと、エドワードダミアンとの二人しかいない。

「魔族は病気に知らずの無敵の体を持っているのかと思っていました」

 ダミアンは率直に呟いた。

「私もそう思っていました」

 エドワードは難しい顔をしながら魔族兵の死体を見つめる。

「さっき、他の魔族兵の死体を見ました。どれもこれと同じような症状がありました。それと、胸に傷」

 梅毒はどうやら死の直接の原因ではない。心臓を一突きにされ、それが死因である。しかし僧侶ダミアンは、長年の勇者との冒険の中で、それが魔族の自殺の作法であることを知っていた。

「魔族は自ら命を絶つ際も、また重症を負った仲間を安楽死させる際も、この手法を使います。彼らの作法のようです」

 それを聞いたエドワードは、

「梅毒を患った仲間を、殺して撤退したのか」

 ダミアンも黙って死体を見続ける。彼も同意見であった。

「エドワード先生、今まで見た魔族の死体の中で、何か特殊な病気のようなものは見つかりましたか」

「いいえ、魔族兵の死体で、病気を負っているものは見たことがありません。それが、屈強な生物としての特徴なのか、あるいは病弱な子供を殺す文化でもあるのか、それは分かりませんが……」

「それでは、梅毒は人間由来で魔族兵に罹ったとのでしょうか」

「ええ、そう思います」

 ダミアンはエドワードの言葉を聞くと、暫く考え込んで言った。

「このことは絶対に、一般の民衆に漏れないようにしてください」

「なぜでしょう」

 エドワードは、素直にそう聞いた。

「今まで、噂では魔王軍は捉えた人間を、男性は食料に、女性は性奴隷にしていると言われていました。しかし、噂ではない。これはまさに我が国の女性が彼らの慰みものにされている証拠です」

 ダミアンの言葉に、エドワードは息を飲んだ。

「とにかく、私はこれについて上司と話してみます。情報については、漏れないようにします」

「お願いします」

 その夜は、二人はこれで解散した。


「四年前の魔王軍の侵攻直後、勇者様が殺した魔族兵の死体からは、病気らしい病気は見つからなかった。しかし、どうしたことだ。今みつかる魔族兵の死体は、体じゅう病気だらけだ」

 そう言ったのは、医官長のシセーである。勇者の盟友である僧ダミアンの名前を出されては、彼のような重役でも前線を訪れぬ訳には行かなかった。

「詳しく見てみれば、どうだ。梅毒だけじゃないぞ。ペスト、結核。魔族兵たちを調べれば、色々な感染症が見つかる」

 エドワードは、

「考えてみれば、魔界から我が国に持ち込まれたような病気も、特に思い当たりません。それに、魔王軍が始めはあんな速さで進撃して来たのに、今は行軍速度が遅いのも気になります。もしかしたら、魔族は人間の感染症に対する耐性が無いのかもしれません」

「うむ

 シセーは唸った。

「魔族はすこぶる健康で病気知らず、というのは、あの屈強な体格から来る偏見だったのかもしれない」

 エドワードも頷いた。

「とにかく、もう少し調べてみよう。エドワード、すぐにでも取り掛かってくれ」

「畏まりました」



 古都モントラ、魔王軍の侵攻により王都セイントを放棄した王国により、この街は去年から再び王都を努めていた。

 そして、昔の国王がかつて政務を取ったと言われるこの部屋に、国王以下、王国政府首脳が集まっている。

 時おり集まって会議を行うものの、状況の打開策は出ないのが常であった。

「この秋で丸四年ですな」

 宰相は溜め息をつき、言った。そして、

「シセーはまだか。まさか前線で何かあったのではあるまいな」

 宰相は心配げに声を上げた。その時である。

「遅れました」

 医官長シセーが慌てて部屋にやってきた。

「心配したぞ」

「しかし、ご報告が」

 シセーは努めて息を整えながら、静かに言った。

「魔族の弱点が見つかったかもしれません」

「何!」

 叫んで立ち上がったのは、この国の元帥である。

「本当か」

「はい」

 シセーは落ち着いて語り始めた。

「魔族は人間界の感染症に非常に弱いようです。我々にとっては命に至らないような病でも、彼らに感染したら命に係わることもあるようです」

「なるほど……道理で、ある時を境に魔王軍の侵攻が緩やかになった訳だ。連中は感染症を警戒しているのだ」

 宰相はそう呟いたきり、椅子にもたれ込んだ。これが、希望の糸口になるかもしれない。

「いいじゃねえか。これでなんとかなるかもしれねえ!」

 立ち上がった元帥に向かいシセーが再び口を開く。

「僭越ながら、私どものほうで、一つ作戦を立案しました。しかし……」

 シセーはそう言いながら右腕をさすった。

「どうした、言え」

 元帥が急かす。

「えー、あの……」

 シセーは踏ん切りがつかぬ様子である。

「生物兵器をばらまくというのかね」

 その時、一人の老人が初めて声を挙げた。齢九十余歳になる、国師フランシスである。

「はい、その通りです」

 シセーは緊張しながら答えた。

「それで、何をまくのか」

「……天然痘です」

 聞いた瞬間、会場がざわつく。その時、誰もが自らの右腕の天然痘の予防接種痕を触った。

「天然痘だと。あんな危ないものを……」

 宰相が呟く。

「調べたところ、魔族は人間よりも天然痘に対する致死率が高く、ほぼ九割は死に至ります。対して我々は、予防接種の普及で、最後に天然痘の患者を出したのは、もう四十年も前のことです。今は研究所の中にしか天然痘のウイルスはおりませんが、これを魔王軍に向かって解き放てば、あとはウイルスが魔王軍を壊滅させてくれるでしょう」

 議場にいる人間はみな押し黙ったままである。

「しかし、天然痘です。扱いを間違えれば、当然に我が国の民も大勢死ぬかもしれません。それにもう一つ問題が……」

「どうした、言ってみろ」

 元帥が発言を促す。

「天然痘は、これが魔界に持ち込まれればら魔族の兵だけでなくその家族も皆殺しにすることになるでしょう。一切われわれ人間を傷つけておらない無辜の魔族まで……。そのような非人道的なふるまいが、たとい魔族相手だとして、許されるものかどうか」

 その言葉を聞き、誰もが口を開かなかった。しかし、元帥ひとりは立ち上がって述べる。

「いいじゃねえか、別に。連中だって俺たちの国の女子供まで皆殺しにしたり奴隷にしたりしたじゃねえか。おあいこだ」

 せせら笑う元帥に向かい、それまで静かに聞いていた国師フランシスの顔がみるみる赤くなってゆく。

「馬鹿者!」

 国師が叫ぶ。

「たとい魔王軍に何をされようとも、決して罪のない魔族まで死ぬようなことをするべきではない。それは人道に悖る」

「なんだ、先生。魔族の肩を持つのか」

「違う、私は人間の尊厳の話をしているのだ。良いか、我々人間が、あの憎らしい魔族と決定的に違うのは、我々には人道を尊重する心があるというところだ。これは我々が文明人であって、あの野蛮な魔族とは違うということを証するための、我々自身が我々のためにできることであって、魔族側には肩入れするつもりは毛頭ないわ!」

 普段は決して激昂することのない老師の言葉に、一同は静まりかえる。

「へいへい、そうかい」

 元帥はそう言うと静かに席に座った。

「先生は正しいよ。正しいが、しかし誰かが現実を観なくちゃな。俺だって」

 元帥の小さな独り言に気づいたのは、後ろに控える副官だけである。

「猊下はどう思われますかな」

 見計らった宰相が、それまで一度も発言していなかった教会の長に語りかける。

「わ、私ですか?」

「ぜひ、聖職者としての考えを聞かせて頂きたい」

 詰め寄る宰相に、教会長は汗をかきながら、何事か言おうとする。

「わ、わたしは……」

 その時、言葉の詰まる教会長の肩に、後ろに控えていた人物が手を添えた。

「猊下、落ち着いてください」

 ダミアンである。ダミアンは今日この会議に、教会長の副官の資格を持って臨席していた。

「すまぬ、ダミアン」

 教会長は少し緊張を解きほぐした。

「教会としては、当然この作戦には反対せざるを得ない。神は、人々に悪を禁じているから、従って魔族であろうと無辜の民を殺戮するような作戦を、認めることはできない」

 汗をかきながらも毅然と答えた教会長の顔を、じっと見つめているのは宰相だけではない。

 その時、教会長は顔を上げ、目があった。相手は、最奥にて、静かに臣下の会議を聞いていた国王である。

「じゃあどうするんだよ」

 元帥が怒り混じりの声で言った。

「それは……」

 ふと、教会長は後ろを振り返る。静かに、しかし自分を信頼して見守っているダミアンの姿があった。

「そうだ、勇者だ。勇者様がまだいるではないか。神は我々を決して見捨てはしない。女神から力を授けられた勇者が、必ず魔王軍を討ち滅ぼすだろう」

 教会長の言葉を、ダミアンは複雑な心境で聞いている。もはや勇者一人の手ではこの国を守りきれぬことを彼は知っている。しかし、聖職者として医官長の策に賛成する訳には行かなかった。

「この期に及んで……」

 再び発言しようとする元帥を、宰相が押し止める。宰相の目は、国王へ向けられていた。

 その時、異例のことながら、国王が臣下の会議にて発言した。

「シセー、お前が苦渋の末に献策してくれたことを、(わたし)は嬉しく思う。皆それぞれの意見を、ありがたく思う。しかし、ことがことだけに、急いで結論を下すことはできぬと、(わたし)は考える。もはや、一刻の猶予もないことは重々承知しておるが、しかし三日後の会議にて結論を下すため、今日はこれで閉会とする。良いか」

 国王の言葉が終わると、その場にいならぶ全ての人間が立ち上がり頭を垂れる。

「畏まりましてございます。国王陛下」

 その日は、いつも通り何も結論が出ないまま、会議は終わった。



 二日後、前線の簡易診療所にて傷病者の治療に従事していたエドワード医官のもとへ、医官長シセーが現れた。医官の中で件の作戦を知っているのは、この二人だけである。

「どうされましたか」

 椅子に座り、並ぶ患者を順番に診察するエドワードは、後ろに立つシセーに目もくれず言った。

 エドワードはこういう所がある。シセーは彼のこの性格が好きだった。

「例のことだ」

 エドワードは、いま診ている患者の袖をまくり上げた。患者の子供は、不思議そうにエドワードを見つめる。

 特徴的な天然痘の予防接種痕。この子供も、今まで診た人々も、この国の人々はみな予防接種を受けていた。

「やっぱりやめにしないか。私たちは医者だ。子供を殺すような真似が、どうしてもできない」 

 エドワードは黙って手を止めた。そして、

「私はやるべきだと思います」

 シセーは、言葉を返さない。

「命は等しく平等です。魔族も、この子も」

 エドワードが子供に合図をすると、子供は笑顔で走り去ってゆく。

「積極的に殺すより、預かり知らぬ所で死ぬほうが、医者としては正しいかもしれません。それに、命の選択こそ、医者として最もやってはならぬことなのでしょう」

「それなら……」

「しかしこの四年、私たちは国を挙げて皆で考えました。考えて考えて結局、勇者様に、女神の力に頼ることしか思い付かなかった。それならそろそろ、決断を下す時なのだろうと思います。私は医者を捨てでもこの国の人々を救いたい。これは私たちの非才に対する罰なのかもしれません」

 シセーは自らの浅はかさを思うと同時に、この有望な後輩を、浅はかさを捨てたと悟ったようなことを言う人間に変えてしまった自分を恨んだ。

 同日、人間の世界へ向けてある一報が魔王軍より届けられた。戦士ゲインの妹であり、勇者の仲間、そして恋人である魔法使い。魔王軍の虜囚となったその彼女を、魔王が側近に下賜したというものである。勇者の心を折るためのものだった。

 ゲインは怒声を上げると、どこか外へ飛び出して言った。怒りを鎮めるため走り回ってでもくるのだろう。ゲインは単騎で目の前の軍に突っ込むような馬鹿ではない。

 それよりも心配なのは、勇者である。ダミアンが彼の表情を窺うと、まだ衝撃を受け止めきれぬ様子であった。当然だろう。恋人が死ぬよりも辛い目に遭っている。

「すまん」

 そう言ったきり、勇者は自室に籠り、三時間出てこなかった。しかしたった三時間で再び部屋を出るとダミアンの前に現れ、

「助けなくっちゃな。この国の人々も、あいつも」

 笑いながら言った。哀憐に満ちた笑顔である。

 この人はこれまで、ずっと一人で戦ってきた。自分の身を削ってこの国の人のために。今、こんなにも辛いことが起こっているのに、それでも勇者として立ち上がろうとしている。

「あなたは……」

 ダミアンは悟った。このような善人が不幸に遭うことを、神の試練と言いきることの難しさを。

「出発は万全を期してからです。一週間後にしましょう」

 勇者は件の作戦を知らない。ダミアンは明日の会議にて件の作戦を何としても政府首脳に認めさせる覚悟を決めた。


 ダミアンは勇者一行の宿舎を飛び出すと、その足で教会長のもとを訪ねた。

「勇者様のご様子は」

 魔王軍からの報せは教会にも届いている。

「再起不能と言うほかありません」

 ダミアンは表情を変えずに答えた。

「そんな、それではもう……」

 教会長は目に見えて取り乱す。この人は優しいが気の弱い人で、平時なら立派に教会長を勤め上げたかもしれないが、変事には向かない。

「神は負けたということなのか。あのおぞましい魔族に、私たちの女神が」

「神は負けました。しかし人間はまだ負けてはおりません」

 憮然としたダミアンの言葉に、教会長は驚いて言った。

「お前、何てことを。お前のような信仰に篤い男が」

「例の作戦しかありません。お願いいたします、猊下。医官長の提案に賛成してください」

 ダミアンは、教会長の言葉を遮るように言った。教会長は、暫く口を開けたまま黙っていたが、漸く、

「私は、私は歴史上はじめて信仰を裏切った教会長になるのか」

 教会長の目には涙が浮かんでいる。

 本心では、教会長も理解しているのである。他に手立てがないことを。

「もはや私は何に仕えたら良いのだ。ダミアン、

お前も」

 教会長は、自らがまだ一介の孤児院長に過ぎぬ頃、門前に捨てられていたのを拾い、我が子のように育てたこのダミアンを、勇者との旅に送り出した自らの判断を呪った。

 自分の言動が、ダミアンにこの言葉を言わせた。ならばせめて、自分に出来ることは、自らの名前で以て計画に賛成し、ダミアンの罪を被ることよりほかに無い。

 日が暮れる。明日になる。



 翌日、国王の執務室に集まった政府首脳陣の会話は、勇者のことで持ちきりである。彼はもう戦えない。そう聞かされていた。

「陛下のご出御である」

 宰相が叫ぶと、大臣たちとその副官はみな頭を垂れて国王を待った。国王が座る。会議が始まる。

「例の件ですが、教会は全面的に協力させて頂きます」

 開口一番にこう言ったのは、教会長である。

 周囲は少なからぬ衝撃を持ってこの言葉を受け止めた。教会長が人格者でまた信仰に篤いことをみな知っている。そんな彼が、信仰を捨てた。

 宰相と元帥も賛成の意を示す。これで反対しているのは国師フランシスただ一人である。ただし、彼は国王の教師として特別にこの場にいるのみであったから、この時点で作戦の実行は決定されたことであった。

「みなの意見、しかと聞いた。それでは医官長シセーの提案を……」

「お待ちくだされ、陛下」

 国王の言葉を国師が遮った。国王の言葉を遮るなど、本来なら言語道断の振るまいである。

「不敬だぞ先生。なんだ、まだ何かあるのか」

 そう言う元帥のほうをちらりと見る国師は、思い詰めたような顔をして、今度は室内の隅で記録を取る書記官の方を向いた。

「書記官どの。貴殿の職務は歴史を忠実に記録し後世に残すことだな」

「は。左様でございます」

「頼む、書記官どの。この作戦は私が思いつき、私が勝手に実行したことにしてはくれまいか」

 思いがけぬ国師の言葉に、驚いて立ち上がったのは書記官ではない。元帥である。

「何言ってるんだ先生。何を馬鹿な」

 元帥は手を震わせながら言う。

「老師。このような決定、せめて王の義務として果たさせてください」

「なりませぬ陛下。陛下はこれよりのち臣民たちの太陽にならなければなりませぬ。太陽に黒点は要らぬのです」

 国師の意志は固い。このような時、国師が決して意志を曲げぬことを、その生徒である国王は誰よりも知っていた。

「俺だ。俺がやったことにしてくれ」

 今度は元帥が書記官へ向かって言った。

「俺なんだ。俺がしっかりしてりゃ、この国をこんなことにはしなかった。頼む。せめてこれくらいの責任は取らせてくれ。頼む。この通りだ」

 元帥は深々と書記官へ頭を下げた。元帥は、始めから国師と同じことを書記官に言うつもりであった。まさか国師がこれを言い出すとは予期していなかった。

「元帥どの。貴殿が責任を取って、何になるのだ。ここは老人に格好をつけさせてはくれまいか」

 国師は国王から目線を外すと、元帥のほうへ向き直る。

「だけど、先生」

 元帥は、それでも国師に食い下がる。

「この馬鹿者!」

 国師は怒鳴った。

「お前のためにこう言っているのではないわ。お前は子供は確か三人いたな。その、子供たちのためにやるのだ」

 元帥は呆気にとられて口を閉じた。

「私は天涯孤独だ。両親は私が幼いころ天然痘で死んだ。妻も、若いうちにやはり天然痘で死んだ。まだ天然痘の予防薬が開発されたばかりの頃のことで、まだ国民みなに薬が行き渡っていなかった頃だ。だから、子供はいないので、罪を背負って生きて行く子孫というのも発生しないのだ」

 国師が愛妻家で、妻に先立たれて七十余年、操を守り続けていたことは知られている。元帥もまた、知っていた。

「でも、天然痘は親と奥さんの仇じゃねえか」

 元帥の言葉に国師は表情を和らげ、微笑みを浮かべて言った。

「良い。あの世で妻に謝ればそれで済む話だ。それより書記官どのどうかお頼みします」

 書記官は、苦渋に満ちた表情を浮かべ、

「私の義務は真実を残すことです。私にも歴史家としての矜持があります。ですが、善処いたしましょう」

 国師はその言葉を聞くと、再び国王に向き直り、

「それでは陛下。長年仕えさせて頂きましたが、隠居させて頂きましょう。これより先は私が魔王軍どもの捕虜となり、みごとウイルスをばらまいてみせましょう」

「老師、何もそこまで」

「そうだ先生、別に天然痘に罹った奴をうちの兵なり魔王軍の兵なりとにかく連中の陣まで連れてかせるようにすれば良いじゃねえか」

 国王と元帥が言葉を並べる。

「私もそのように思います。何も老師がそこまで」

 宰相もまた国王たちの言葉に同意した。

「良いのです。この真実を知る者は出来得る限り少なきに留めたいし、また私ならばすぐに殺されず魔王の眼前まで生きて牽かれてゆけるかもしれません。それに、もう一人でも天然痘で死ぬ人間は増やしたくないのです」

 国王も元帥も、それ以上何も言わなかった。

 こうして、会議は終わった。



「薄汚い人間の神め。このような呪いをかけおって。良いか人間風情よ。お前たちはわしらに勝った気でいるかもしれぬが。所詮は神なぞに救われたに過ぎぬ」

 病気で衰弱していたところを捕虜になった魔王軍の将軍は、引見した宰相に対しこう吐き捨てた。

 年は明け、王国暦八一○年になっている。

「神に、ね……」

 宰相は、将軍の言葉を聞くと、苦笑いを浮かべた。

「なんだ、何がおかしい」

 将軍は宰相を怒鳴り付ける。しかし、体はもう動かなくなっていた。

 魔王軍にとって、この謎の病は呪いと考えるほかはなかった。必ず魔族にのみ感染し死に至らしめながら、人間に感染することはない。

 神が人間を守るため、人間界に敷いた呪いである、と、魔王軍は今でも信じている。

「あれほど人間を殺した病気が、今度は人間を守るのか」

 宰相は、将軍に聞かれぬ声で呟く。

「なあ将軍どの。お前さんを魔王軍に還してやる。悪いことは言わぬから、撤退するのはやめてこの地で全員養生するように言ってはくれぬか」

「何を馬鹿な。お前たちの提案に乗ると思うのか」

 魔王軍の将軍はそう吐き捨てる。当然であろう。魔族はみな人間界を離れれば呪いが解けると信じている。

「そうだよなあ」

 宰相がそう言う頃、もう将軍は死んでいた。

 魔王軍は、魔界に撤退する。ウイルスを連れて。そう遠くない未来、魔界は消滅するかもしれない。

「神の仕業だったらこんな残酷なことはしないよ」

 宰相は、あれほど憎んでいた魔族を、今は憐れんでいる自分に気付き、自嘲した。

「実に人間らしいな」



 その後、政府が古都より王都に帰還するに辺り、資料の準備中、ある書記官が自殺しているのが見つかった。

「糞真面目な奴だ」

 宰相はその報告を聞くと、そう呟いたという。彼の手元の手稿には、簡潔にこう記されていた。


 国師フランシスは不用意に前線へ出、そこで魔王軍の捕虜となり、死んだ。

 そして同時期、魔王軍もまた不用意に征服地の研究所を破壊、そこから漏れ出た天然痘ウイルスにより、軍の八割が病死する事態となり、撤退を決意した。


 

 一週間後、教会長と医官長とが自殺した。後任に選ばれたのは、まだ若い僧侶ダミアンと医官エドワードである。

 表向きには、彼らは何も残さずに死んだことになっている。しかし二人は、死んだ二人の残した言葉を知っていた。

「この作戦について知ることのできる資料は全て破棄すること。そして、同じことが二度と無いように努力すること。私は責任を取らねばならぬから、後は頼む」

 教会長と医官長の遺命を受け取ったダミアンとエドワードとは、この作戦について全てのことを記した資料を作り、教会の禁書庫に封印した。

「遺命も守れぬ駄目息子です。私は」

 ダミアン教会長はそう呟くと、エドワード医官長に禁書庫の鍵を託した。鍵は二つ、歴代の教会長と医官長に代々継承されるように。

 更に二ヶ月後、全ての残務を処理した宰相と元帥とが自殺した。

 国王は理由を明かさず退位し、男子がいなかったので、娘を勇者に妻合わせて次の王とした。

 元帥の職には戦士ゲインが抜擢されたが、しかし彼の存命中は戦争は二度と起こらなかった。

 不用意に勇者が恋人と母親を略奪されてNTRれる小説を読んでしまい、心に傷を負ったのでこれを書きました。

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― 新着の感想 ―
考えさせられる作品でした。 ……魔界で変異した天然痘なり他の病原体なりが変異して人間界に還って来たりはしないだろうな?
ん?まさか紅一点は梅毒だった?
[一言] 有効な作戦があればやるよね。なりふり構ってられない
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