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ひとひらの雪   作者: 杉 淳
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小夜香と十和子の物語 2章

「お腹は減ってないの?」

 その言葉に、昼から何も食べていない十和子のお腹がグーッと返事をして、彼女は俯いてしまう。

 「あらあら、ご飯はあるからすぐに準備をしましょう。でも、その前に娘を部屋まで連れて行くから、少し待っててね。」

 小夜香の母は、そう言って微笑んだ。十和子は慌てて顔を上げ言った。

 「よければ、何かお手伝いします。」

 「それじゃ、コートとバックをよろしくね。それと十和子さんの寝る部屋だけど、娘の隣の部屋が開いてるからそこで休んでね。」

 「あっ・・ありがとうございます。でも、できれば・・・」

 小夜香の母は、娘をベッドに寝かせると、十和子の希望通りに、ベッドの下に布団を用意した。

 「本当にここでいいの?少し狭いけど、大丈夫?」

 「いいえ。これだけあれば十分です。我儘言ってすみません。」

 「それはいいけど。朝、目覚めたら娘はびっくりするでしょうから、説明はよろしくね。」

 「はい、朝起きた時に、きちんと説明させてもらいます。」

 「それじゃ、ごはんを用意するわね。」

 彼女は、下のキッチンへ降りると温めた料理を十和子の前に並べてくれた。

 「主人は、今夜は接待で遅くなるの。でも、中止になったって帰って来ることもあるから、料理だけは容易しているの。作り置きで悪いけれど、遠慮なく食べてね。」

 「あの、ご主人が帰ってから食べることはないのですか?」

 「心配しないで、いつも接待の時は三時は過ぎるから、帰って寝るだけなの。だから、遠慮しないで。さあ、冷めるからどうぞお食べなさい。」

 「すみません。遠慮なく頂きます。」

 久しぶりの家庭の味に箸は進み、十和子は出された料理をきれいに食べて、ほっと息をついた。

 「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです。」

 そう口にする十和子に、母の記憶が蘇る。刹那にそれを闇と鉄の味の記憶が覆って、彼女の体は大きくブルッと身震いをした。小夜香の母は、立ち上がっていた動きを一瞬止めたが、そのまま何も言わず食器を引き尋ねた。

 「コーヒーがいい?それとも紅茶?」


 「どうぞ。」

 コーヒーの香り立つカップが、十和子の前に置かれた。

 「ありがとうございます。コーヒーまですみません。」

 一日の緊張と疲れが、コーヒーの苦みに癒され解れてゆく。

 「飲み終わったら、お風呂に入りなさい。」

 小夜香の母は紅茶を一口すすり、続けた。

 「その前に、少し伺ってもいい?」

 「あっ、はい。何でしょうか?」

 「今日。小夜香はどうだったの?あんなに酔って。他にも迷惑をかけなかった?」

 十和子は、カップを置いて少し考え、

 「あの、お母さん。実は私、二人と一緒にはいなかったんです。ですから、詳しい事はわかりませんが、沢井さんが言われてたのは、小夜香さん、ビールを二杯ほど飲まれたらしいです。」

と、本当のことを答えた。                

 「まあ、二杯も。あっ、ごめんなさいね。娘は私に似て、あまり飲めないはずの。そうね、沢井さんの前できっとはしゃいだのね。娘には良い薬ね。でも、それじゃどこで一緒になったの?」

 十和子は、また一口コーヒーを飲み、覚悟を決めて言った。

 「・・私、二人をつけたんです。」

 「えっ?つけた・・二人をつけたの?」

 「あの、私、小夜香さんの大ファンなんです。それで今日・・あっ、昨日は、小夜香さんに会えて一緒に収録もできて、本当に嬉しくて仕方がなかったんです。それなのに、収録の後に沢井さんが小夜香さんを誘っているのを目にしてしまって、いてもたってもいられなくなったんです。沢井さんの噂はいろいろと耳にしていましたから、小夜香さんに何かあったらと思うと心配で心配で・・それで、つい二人をつけてしまったんです・・」

 「そうなの、娘のために頑張ってくれたのね。ありがとう。でも、それじゃ二人は簡単につけて行けるような店に行ったの?」

 「ええ、二人は三軒茶屋の焼き鳥屋さんに行ったんです。」

 「あら、焼き鳥屋さんに?」

 「そうなんです。普通の焼き鳥屋さんです。でも、そんな店へ行くなんて、沢井さんは考えがなさ過ぎです。だから・・」

 つい言葉に力が入った十和子は、慌てて口を閉じた。

 「十和子さん、どうしたの?何かあったの?」

 「あっ、いいえ。あの、何でも・・」

 小夜香の母にじっと見つめられ、十和子の声は途切れた。

 「何かあったの?」

 十和子は、しかたなく夜の一幕のことを話した。

 「店に入った二人を、私はそのままタクシーで待っていました。しばらくして、柏木・・あっ、タクシーの運転手さんがカメラマンに気づいて教えてくれました。」

 「えっ!カメラマン?カメラマンが待ち構えていたの?」

 「はい、私はすぐ二人を迎えに行って、カメラマンとは逆の道に回ってもらったタクシーに乗せて、そのまま小夜香さんを送ってきました。小夜香さんは撮られていませんから、安心して下さい。」

 「それじゃ、そのカメラマンは写真を撮る暇もなかったのね?」

 「あー、一度だけフラッシュが光りました。でも、傘でしっかり小夜香さんは隠したから、絶対に撮られていません。」

 小夜香の母は、しばし気を静めてから尋ねた。

 「沢井さんは?撮られたの?」

 「沢井さんはちょうど店を出るところでしたから、写ったかもしれません。」

 「そう・・でも、二人では撮られてない?」

 「はい。沢井さんは撮られたかもしれませんが、小夜香さんは撮られてはいません。それは、安心して下さい。沢井さんが帰る時に、そのことを話さなかったのは、沢井さんもその点は安心していたからだと思います。」

 そう聞いて、小夜香の母は十和子に深々と頭を下げた。

 「沢井さんがあなたにお礼を言っていたのは、そう言う訳なのね。小夜香を救ってくれたのね。何から何までお世話をかけて、ありがとうございます。でも小夜香は、それを知らないのね?」

 「はい、わかってはいないと思います。ただ、もとは沢井さんの甘さから起こった事です、もっと小夜香さんのことを気遣っていれば、あんな事にはならなかったはずですから、小夜香さんを怒らないでください。」

 「そうかもしれないわね。でも、十和子さんは沢井さんに厳しいわね。ただ、娘に言わせると彼はとっても真面目な人らしいの。」

 そう言った後、小夜香の母はニコッと笑って続けた。

 「それでもね、さっきあなたを引き止めたのは、沢井さんと二人であなたを帰すのは、どうかなって思ったからなの。」

 それを聞いて、十和子は思わず笑ってしまう。

 「気を使っていただいて、ありがとうございます。でも、一緒に帰っても何もなかったはずです。だけど、今、こうして小夜香さんの家に泊めていただけるようになったことには、沢井さんに感謝しています。」

 「あらあら、沢井さん、きっとくしゃみしているわね。疲れているのに、時間を取らせてごめんなさい。お風呂にお入りなさい。」

 「ありがとうございます・・あの、ご挨拶をちゃんとしていませんでした。藤井時和子と言います。今晩はお世話になります。」

 「あら、それじゃ、名前を芸名に使っているのね。」

 「そうなんです。ただ『時』を『十』に代えているんです。事務所の社長が、『時』は重すぎるって、変えられたんです。」

 「そうなの。小夜香の母の知子です。あらためてよろしく。さあ、お風呂にお入りなさい。」


   ズキン!

 頭に鋭い痛みが奔る。そして、ドクンドクンとリズムを打つように痛みが襲いかかる。

 (・・二日酔い?ここ・・家?) 

 小夜香は、目をすがめ窓際の壁をぼやっと見つめベッドの感触を確かめ、ここが自分の部屋だと確認する。それならいつ帰って来たのかと、脈打つ痛みに堪えながら夕べの事を振り返る。

 (沢井さんと焼鳥屋さんでビールを飲んで・・どれくらい飲んだっけ・・?その後、沢井さん何かおかしなこと言って・・そして、送ってもらった・・?でも、誰か他にいたような・・)

 だんだん痛みが耐えがたくなり、気分が悪くる。階下からパタパタと、母が動くスリッパの音が聞こえてくる。

 (パパは二日酔いの時、水を飲んでたよね・・?水が欲しい・・)

 思うだけで母に声をかけるのも自ら降りて行くのも、痛みがひどくなりそうで動けないままじっと我慢をする。でも、だんだんと痛みは増してくる。

 (・・もうだめ・・ママに水と鎮痛剤をもらおう。)

 小夜香は、窓側に向けていた体を、ゆっくりドアの方へ動かす。その時布団がカーテンに触れ、隙間から漏れた光が、ベッドにはあるはずのないものを瞬間、照らしだす。

 『生首!!!』

 「きゃーーー!」

 小夜香は、痛みも吹き飛ぶ悲鳴を上げると布団を跳ね除け、窓際に背中を押し付けた。

 (逃げられない!これ以上逃げられない!やだ!何?何?生首?ベッドに首!首!人殺し!それともどこかで首を拾ってきた・・?あれ・・?違う!よーく見て!腕がある・・顔が載って・・寝ている?これ・・十和子さん?なぜ彼女が?) 

 ベッドに頭を載せて寝ていた十和子は、小夜香の悲鳴に眠そうな眼を開ける。そこに駆け上がってきた母がドアを開けた。

 「どうしたの?何があったの?」

 小夜香は、母に十和子を指差した。

 「生首があると思ったの!どこかで拾ってきたかと思った!」

 母は訳のわからない説明に、拍子抜けした顔で娘を見つめる。痛みが戻ってきた小夜香は、あきれ顔の母に甘えた声で訴えた。

 「・・痛―い。ママ・・・水が欲しい。」

 母は娘の言葉を無視するように、

 「十和子さん、そんな恰好で大丈夫?眠れたの?」

と、頭を小夜香のベッドに乗せて、肩から布団をひっかけ丸まった格好をした十和子に声をかけた。

 「すみません、大丈夫です。」

 十和子は、気まずそうに答えて座りなおし頭を下げた。

 「驚かせてごめんなさい。小夜香さんの寝顔を見ていたら、ついそのまま眠ってしまって・・無理を言って、ここで寝れるようにしてもらったのに、本当にごめんなさい。」

 (ええっ!寝顔を?やだ、恥ずかしい!) 

 小夜香は、答えようとしたものの痛みがぶり返しへたり込む。

 「・・ママ、お願い。頭が痛いの。水と薬が欲しい・・」

 「まったく。二日酔いなんて、若い子のすることじゃありませんよ。もうしばらく寝てなさい。水は持って来てあげるから。」

 「あっ、私が運びます。」

 「そう。じゃあお願いね。寒くなかった?眠れたの?」

 「ええ、大丈夫です。ぐっすり眠れました。」

 言葉を交わしながら、二人は降りて行った。

 (いつの間に、二人は仲良くなったの・・?寒っ。)

 小夜香は、痛みをがまんして掛け布団を引き寄せる。

 (何故、十和子さんが家に?昨日、何があったの?沢井さんと焼き鳥屋さんへ行って、焼き鳥を食べて、ビールを飲んで・・) 

 その後が出てこない。記憶の断片が頭の中を漂うだけ。ただ、『沢井さんの赤ちゃん』って言葉が記憶に浮かぶ。

 (何のこと?とっても嵌って、おかしかった・・?)

 「さっきはごめんなさい。起きれますか?」

 十和子が、水と薬を持って戻って来た。

 「少しびっくりしたけど、もう大丈夫です。ありがとう。」

 小夜香は、ゆっくり体を起こし水と薬を受け取りコップの水を飲んだ。

 (冷たい。でも、気持ちがいい。) 

 痛みが少し落ち着いた小夜香は、十和子に問いかけるような視線を向けた。十和子はその視線を受け止め尋ねた。

 「小夜香さん、昨夜のこと気になります?」

 「ええ。」

 「それじゃ、布団を畳んでからお話しします。」

 十和子は、布団を隅に置くと正座して小夜香に向き合った。

 「昨夜、小夜香さんは沢井さんと三茶のお店に行きましたよね?それを嗅ぎつけたカメラマンが、二人を撮ろうと近くで待ち構えていたの。私は、たまたまそこに居合わせて、小夜香さんが写らないようにお手伝いをしたんです。その時、小夜香さんは少し酔われてたから、そのまま家まで送って帰ろうとした私に、お母さんが遅いからって泊りなさいって声を掛けてくれたんです。私はここにいるのは、そんな訳です。」

 「えっ?えっ!ちょっと待って。カメラマンって?えっ?写真を撮られたの?」

 小夜香の頭には、『カメラマン』という言葉だけが反響して、十和子のことはどうでもよくなる。『写真』を撮られた、そのことで頭は真っ白になり、二日酔いの痛みは吹き飛ぶ。

 (どうしよう?どうしよう!社長や、木下さんに何て言おう。沢井さんに迷惑をかけちゃう!ファンの人たちは何て思う?) 

 パニックを起こした頭は混乱し、悪夢だけが膨れ上がる。

 (クビになるの?芸能界にいられなくなる?歌えない?沢井さんとも会えないの?何てこと・・私のバカ!バカ!)

 悪夢に怯える小夜香に、十和子は強く言葉をかけた。

 「小夜香さん、しっかりして。よく聞いて!小夜香さんは撮られていないから。撮られてはいないの、安心して。」

 「ほ、本当に?本当に撮られてない?」 

 十和子が、力強く頷く姿に不安は和らぐ。

 「そう・・十和子さんに助けてもらったのね。それに送ってももらって。本当にありがとうございます。」

 「いいえ、私なんかたいしたことはしてません。でも、沢井さんにはお礼を言った方がといいと思います。」

 「あっ、沢井さん・・」

 昨夜は酔って、どんな醜態を見せたかと思うと連絡が躊躇らわれる。

 「沢井さん、酔っててもかわいいって言ってましたよ。」

 気持ちを察して、十和子が言葉をかける。

 (本当に、どんな姿を見せたの・・でも、お礼もお詫びだって伝えないと失礼だし・・) 

 「小夜香さん、頭の痛みは大丈夫ですか?」

 「えっ、あれ?痛くない・・びっくりしてどこかへ飛んでいったかな。心配かけて、すみません。」

 「いいえ。ところで七時半になるけど、仕事の時間は大丈夫ですか?」

  (七時半?じゃあ、パパはもう出かけてる。)

  痛みが消えた今、小夜香の頭はフルに廻りだす、

 (パパは昨日の事、知ってる・・?それなら叩き起こされてるから、もう寝てた?)

 「ねえ、十和子さん、昨夜はパ・・父は寝てました?」

 「いいえ。まだ、帰っていませんでした。」

 (それじゃ、ママは話してないんだ。じゃなかったら、芸能界なんてやめろって怒鳴られているわ。すぐにパパに言わないようにお願いしよう!) 

 「私は、まだ時間は大丈夫だけど、十和子さんは?」

 「私は、今日は何も予定はないんです。」

 「じゃあ、ゆっくりできますね。それじゃ、お腹も空いたし食事をしませんか。」


 「あら、痛みは治まったの?」

 「昨日のこと聞いたら、痛みはどこかにいっちゃった。」

 「そう。聞いたのね。」

 「ママ。迷惑をかけてごめんなさい。」

 小夜香は、ばつが悪そうに頭を下げた。

 「そうね、十和子さんや沢井さんにご迷惑をかけたわね。」

 「ええ、わかってる。それで・・パパに話した?」

 「いいえ、お友達が泊まっているってことだけは伝えたけど、まだ、話してはいないわ。」

 父は、娘の芸能界入りを快く思ってはいない。だから、芸能人の男性と二人で飲んで、酔って帰って来たなんて知ったら、すぐに辞めろと怒鳴りつけられていただろう。

 (私が、真面目に頑張ってきたのパパも知ってるでしょう?昨日は沢井さんと会ってつい、そう!つい嬉しくって羽目を外してしまったの。昨日だけよ。もう絶対しないわ!)  

 思わず、そんな言い訳が頭に浮かぶ。

 「パパに話すの?」

 「それはあなた次第よ。昨日みたいなことを繰り返すつもりなら、パパに話して言ってもらわないといけないわね。」

 「もちろん、もうしないわ。約束します。」         

 小夜香は、焦り気味に答えた。           

 「そう?それなら今回はパパに話さないけど、今の約束しっかり覚えておきなさいよ。」

 「はい。」

 知子は、その返事を聞いて、十和子に顔を向けた。 

 「それで、十和子さん。昨日のことをもう少し聞かせて欲しいの、いい?」

 「ええ、良いですけど・・」

 「立ったままじゃなんだから、座りましょう。小夜香もちゃんと聞いておいて。」

 「えっ?何?」

 小夜香は、母の言葉に少し身構える。三人が座ると、知子はすぐ本題に入った。

 「ねえ、十和子さん。昨日の説明では、沢井さんは撮られたけど、娘は傘で隠したから撮られてはいないって言ったわね?」

 小夜香は、さっきの十和子の説明では聞いていない内容に驚き耳を澄ます。

 「ええ、傘でしっかり隠しましたから、小夜香さんは撮られてはいません。」

 「小夜香は撮られてはいないのよね?それじゃ、十和子さん、あなたはどうなの?もしかして、あなたが撮られてしまったんじゃないの?」

 「えっ?」

 十和子が狼狽えたのを見て、小夜香まで狼狽える。

 「・・それは、私の問題ですから。」

 「そうなのね、あなたが娘の代わりに撮られたのね?」

 しぶしぶと頷く十和子に、小夜香はただ驚き彼女を見つめてしまう。     

 「私のことは大丈夫です。心配はいりません。事務所に報告はしますが、社長は、『よくやった!』としか言いませんから。」

 「でもね、事務所だけじゃないでしょう?十和子さん、よければ娘の前でもう一度、昨日のことをきちんと話してもらえない?」

 「・・でも。あれ以上お伝えすることは有りませんが・・」

 「ええ。それでもいいから、話してもらえない?」

 「わかりました・・あの、小夜香さん、話を聞いても気にしないで下さいね。」

 十和子は、一言小夜香に断りを言って、昨日の夜のことを話し始めた。

 「昨夜、乗っていたタクシーの運転手さんが、お店を見張るように立ってるカメラマンに気づいて、私に教えてくれました。それでタクシーには彼がいるのとは逆の路地に待ってもらうように頼んで、お二人を迎えに行ったんです。その時、ちょうど二人が出て来たんですが、小夜香さんは店を出るとすぐにしゃがみ込んだので、そのまま差していた傘を小夜香さんに被せて、撮られないように隠しました。フラッシュが光ったのは、その時でした。だから小夜香さんは写ってはいないし、あと私がどう写っているのかも、沢井さんと一緒に写っているのかもわかりません。その後は、そのまま目いっぱい広げた傘で小夜香さんを隠して、急いでタクシーに乗り込みました。」

 「そんなことになっていたなんて、自分の事ばかり考えて、ごめんなさい。」

 「本当に、娘が迷惑をかけて、申し訳ありません。」

 知子は、あらためて頭を下げた。

 「いいえ、本当に気にしないで下さい。今も言ったように、撮られた写真が、どんなものなのかもわからない訳ですから。とにかく私は・・・それと沢井さんも小夜香さんが撮られなかったことに、ほっとしているんです。」

 「十和子さん。あなたが娘のファンでも、何故、そこまでこの子のためにできるの?他人事みたいに言ってるけど、写真が載ったら大変なのはあなただって同じことでしょう?」

 「ご心配はいりません。何かあっても、うまく利用させてもらいますから、気にしないでください。」

 知子は、十和子の態度に軽くため息をつき、娘に言った。

 「小夜香、十和子さんはこう言ってくれてるけど、周りの人たちに甘えて迷惑をかけないように、自分の行動にはもっと責任を持ちなさい。」

 「・・はい。」

 小夜香は、返す言葉も無く消え入るような声で答える。

 「十和子さん。娘が迷惑をおかけして、本当にごめんなさい。今更、どうすることもできないけど、それでも何か出来ることがあれば言ってね。何でもしますから。」

 知子はそう言って、腰を上げた。

 「さあ、温かい飲み物でも飲んでから食事にしましょう。何が良い?」

 「私はいらない。」

 首を振る小夜香を気にしながら、

 「コーヒーをいただきます?」

 そう言って、十和子は知子の後を追った。


 沈み込む小夜香の前に、コトンとカップが置かれた。

 「温まれば、気分も良くなるわ。」

 母の言葉が、甘い香りと共に身に染みる。

 「ありがとう。ママ。」

 母は頷き、三人は黙って飲み物を口にした。

 「十和子さんはおいくつなの?」

 「もうすぐ、二十三になります。」

 「小夜香の三つお姉さんなのね。十和子さんは娘のファンって言って下さったけど、どこが良いの?良ければ教えてもらえない?」

 「あの、どこって言われても、小夜香さんの全てとしか答えようがないです。きっかけは、小夜香さんの透き通る歌声を聞いて、歌声とその詩の内容に魅かれことです。その後、テレビで観た小夜香さんの日本人形のようなかわいらしさにも魅かれました。昨夜は素のかわいいところも見せてもらえましたし、こうして傍にいられことが、今でも信じられません。」

 十和子は、ちらっと小夜香を見て続けた。

 「実は私、小夜香さんのファンクラブの会員番号1を頂いているんです。それが私の一番の自慢です。小夜香さん、これからもどうか素敵な歌を一杯聞かせて下さい。応援しています。」

 そう伝えているうちに十和子の気持ちは、一気に舞い上がる。

 「まあまあ、そうなの?会員番号一?十和子さん、娘をそこまで応援してくれて、本当にありがとう。」 

 小夜香も、はにかみながら頭を下げ答えた。

 「少しくすぐったいけど、嬉しいです。会員番号1『藤井時和子』さんですよね?挨拶の時少し引っ掛かったけど、まさか本人だとは気づかず失礼しました。名前を芸名に使っているんですね?」

 「そうなんです。ただ、『時』を『十』に代えてはいるんですけど、名前を芸名にしています。」

 朝食を食べ終えると、小夜香は、

 「シャワー浴びたら、九時には出るから。」

と言って、バスルームに立った。

 「お酒の臭いを残さないようにね。」

 「はーい。」

 「パジャマまでお借りして、ありがとうございます。」

 腰を上げた十和子が、頭を下げる。

 「こちらこそ、娘を庇ってもらって、本当にありがとうございました。もし、私たちにできることがあったら何でも言ってね。それと、食事ならいつでも用意するから、また遊びにいらっしゃい。」

 「ありがとうございます。またおじゃまさせていただきます。本当にお世話になりました。」


 「いってらっしゃい。」

 小夜香と十和子、二人は母の声に送られ家を出た。昨夜の雪はほとんど解け、ただ身を切るような寒さが残る中を、二人は言葉少なに登戸の駅へ向かった。そして新宿行きの電車に乗り込み、経堂の駅で別れた。人の流れに逆らってゆく十和子の手には、小夜香と番号を交換した携帯がしっかりと握られていた。


 「どうした?今日も休み返上で営業をかけるか?」

 昼過ぎに事務所へ顔を出した十和子を、大井戸の皮肉が迎える。

 「おお!よくやった!」

 その後の説明に予想通りの答えが返り、そして、

 「どこかはわからんのか?連絡がないが本当に載るのか?」

と、かえってそんな心配をする始末。十和子は、これをどう利用するかと考え込む社長を残し事務所を後にした。


 駅前の喫茶店へ入り窓際の席へ座った十和子は、コーヒーに口をつけることもなくぼんやりと景色に視線は移ろう。

 (こんなに早く、小夜香さんと会えるなんて、話しもできて彼女の家にまで泊まれるなんて、夢みたい・・・このまま友達になれないかな?小夜香さんと友達になれたら、私は変われる・・?こんなこと考えるの・・嫌だな・・会えることだけを願っていたのに、それ以上の事を望んでる・・) 

 小夜香に救いを求める自分が、彼女を利用しようとしているようで恥じる想いが芽生える。それでも彼女の歌に救われた記憶は鮮烈すぎて、小夜香に会ってしまった今、彼女と友達になれれば闇を祓ってもらえないか、とそんな期待を抱かずにはいられなかった。


 三軒茶屋デートから一週間が過ぎた深夜一時、タクシーで帰宅した小夜香を母はドアを開け迎えた。

 「お帰り。遅かったわね。」

 「ただいま。休んでてよかったのに。パパは?」

 「朝早いからって、もう寝たわ。」

 パジャマに着替えて下りてきた小夜香が、料理の傍に置かれた雑誌に気づくと、母が声をかけた。

 「それに、例の写真が載っているわ。」

 小夜香が、雑誌に手を伸ばしページをめくると、

 『沢井、十七歳年下の女性と焼き鳥デート。』

 そんなコピーが目に飛び込む。そこには雪の中、開いた傘を不自然に下してカメラをにらんだ十和子と、その後ろに店から出たばかりで驚いた表情の沢井が写っていた。記事には十和子の名前もしっかりでている。小夜香の目は、そこに写る十和子の姿に引き寄せられ、そして反発するように本当はここに写っているのは私なのに、沢井さんと一緒に写っているのは私のはずなのに、と十和子への嫉妬めいた感情が湧き上がる。助けてもらったと思っても、沢井と目を引く彼女の姿が一緒に写った写真を見ると、テレビ局での出来事も蘇り嫉妬の感情を抑えられない。

 (私は?) 

 小夜香は思わず、その写真の中に自分の姿を探した。わずかに、十和子が下した大きな傘の隅からコートの裾が見えている。小夜香は、話を聞いた日に、沢井に連絡を取り迷惑をかけたこと、そして写真を撮られたことを謝った。

 「悪いのは俺だよ、迷惑をかけて悪かったね。」

 沢井はそう言ってくれたが、写真を見てしまうと沢井のこと、そして十和子のことも心配になってくる。

 「どうしよう?」

 思わず母に尋ねた。

 「私たちには、もうどうしようもないわ。沢井さんはともかく、十和子さんのことは心配だけど、今は様子を見るしかないでしょう。いい、小夜香。全てがあなたのせいでは無いけど、あなたたちのしたことで、皆さんにどんなに迷惑をかけるかしっかりと見ておきなさい。そして、これからは自分の行動にもっと責任を持ちなさい。」

 厳しい答えに身を竦める娘に。母は口調を和らげた。

 「食事にしなさい。」

 「・・食事はいい。お風呂に入って休む。先に休んでて。」

 「そう、料理は置いとくからいつでも食べなさい。それと十和子さんには連絡とっているの?とにかく、お二人には、明日にでもまたお詫びを入れておきなさい。」

 小夜香が頷くのを見て、母は寝室へ向かった。

 「それじゃ、先に休ませてもらうわね。おやすみなさい。」

 小夜香は、お風呂に浸かり十和子のことを考える。

 (そうなんだよね。あれから連絡取ってない・・うー、かけづらいな・・メールしよう。)  

 風呂から上がった小夜香は、咳が止まらずにむせってしまう。    

 (明日、ママに薬をもらわないと。) 

 咳が収まった小夜香は、雑誌を持って部屋へ上がった。


 小夜香が、眠れないままに朝を迎え下へおりると、テレビから沢井と十和子のことが流れていた。

 「芸能界は腐ってるな。お前もこんな奴に引っかかるなよ。」

 カバンを手にした父は、一言残し玄関へ向かった。

 「いってらっしゃい。」

 父を母と見送った後、小夜香は、

 「あれが私だったら、パパ何て言ったかな?」

と尋ねたが、玄関の冷たい風に咳込んでしまう。

 「湯冷めしたんじゃないの?ご飯を食べたら薬を飲みなさい。」

 「うん、薬出しといて。」

 母はキッチンに戻り、小夜香は結局答えを聞けなかった。


 その日の夜、二日続けての特番の収録を終えた十和子は、マネージャーの田村と麻貴と共に東海テレビのロビーにいた。

 緊張した面持ちの田村が、

 「麻貴ちゃんは、十和ちゃんにコメント集中している間、必ず後ろにいてしっかりカメラに入るように。今度はうまくやろう。」

と、ここへ来た時の反省を籠め、指示を出す。

 結局、写真の件を利用しようと、社長が考え指示したことは小川麻貴をカメラに映り込ませ、彼女の顔を売り込むということだった。そのために今日は一日中、三人で過すことになった。

 十和子は局に着くまで、取材もたいしたことはなく、こんなことは無駄に終わると思っていた。でも実際には、タクシーを降りたところでリポーターに囲まれ質問の洗礼を浴び、その中を無言で抜けようとした彼女はもみくちゃにされ、麻貴がカメラに映る暇もなかった。

 (ああ、もう!これで私も、あいつの女の一人ってことか!でも、小夜香さんのため!我慢するんだ!) 

 十和子は楽屋で一息つき、ようやくそう思えるようになった。そして事前に司会の村瀬や番組関係者に、断りを入れ頭を下げてたことに感謝した。

 田村は、待ち構えているリポーターを睨み威勢よく言った。

 「タクシーが来た!出よう!」

 田村を先頭に外へ出ると、すぐにリポーターが駆け寄る。

 「焼き鳥デートの後、お二人はどうされたんですか?」

 「沢井さんとは、どれくらいのお付き合いになるんですか?」

 「十和子さんは、彼のどこがお好きなんですか?」

 「沢井さんとは、結婚を考えてのお付き合いですか?」

 次々に浴びせられる質問に、タクシーへ急ぐ十和子は、適当な返事をしながらも頭の中では、

 (付き合ってなんかいない!好きなとこなんか一つもない!あんなおじさん、私の好みじゃない!結婚?とんでもない!ああもう!バカ沢井!女性を誘うなら、もっとうまくやれ!) 

と、ひとしきり沢井に毒づき、うっぷんを晴らしていた。

 (明日が休みでよかった!部屋から一歩も出るもんか!) 

 十和子は、そう心に誓いタクシーに飛び込む。麻貴に続きタクシーに飛び込んだ田村は、

 「新橋まで。」

と、告げた。追いすがるレポーターを後に、タクシーは走り出した。

 「田村さん、今日は私のために、すみませんでした。」

 十和子は、助手席の田村に声をかけ、続けて麻貴を労う。

 「麻貴ちゃん、大変だったね。大丈夫?」

 「はい、大丈夫です。十和子さんこそ大丈夫ですか?すごいですね、テレビで目にするより大変ですね。今日は、一日一緒だったから、私は現場が見れてよかったですけど、かえってご迷惑をおかけしました。でも、楽しい一日でした。」

 興奮も収まり浮かぶ麻貴の笑顔に、休憩の時に司会の村瀬と楽しそうに話していた彼女の笑顔が重なる。

 (村瀬さんは、麻貴ちゃんみたいな娘がタイプかな・・) 

 十和子の意識をそんなことがかすめたが、落ち着いた今、急に気になりだしたのは、収録の前に小夜香から届いた、

 『写真見ました。大変なことになっていないかと、心配しています。本当にすみません。』

というメールのことだった、二人が常に傍にいたので返事を送れないままにいたことが、いまさら気になる。

 「十和子さん、大変なことに巻き込まれましたね。」

 「えっ?」

 ルームミラーに映る、柏木の顔。

 「柏木さん!」

 つい彼の名前が、口をついて出た。

 「お知り合いですか?」

 その慌てように、麻貴が尋ねる。

 「あっ、ええ。つい最近お世話になったの。柏木さん、その節はお世話になりました。先日の料金は、後でお支払いします。」

 「それは大丈夫ですよ。あの人にちゃんと頂きましたから。」

 柏木の言葉に、一息ついた田村が食いつき振り返る。

 「何か意味深な会話だね。怪しいな。十和ちゃん、あの人って誰?沢井さんとは別に、誰かいるの?あんまりお盛んに手を広げると、社長が泣くよ。『俺の愛人一号は、どこ行ったー』ってね。」

 ボコッ!

 田村のおでこに、握りしめられた十和子の拳がヒットした。

 「いってぇ!」

 「まったく。うちのマネージャーは、口が悪いから気を付けてね。麻貴ちゃん。」

 十和子は鼻息荒く、目を丸くしている麻貴に嘯く。

 「いてーぞ、十和ちゃん。殴ることはないだろう。本当に、いてー。麻貴ちゃん、君はこんな暴力タレントになるなよ。」

 田村が、叩かれたおでこをなでながら愚痴る。

 「はい。」

 麻貴は、笑いをこらえ頷く。

 「それは、どっちに対しての『はい』なの?」

 「あっ、お二人、どちらにも。」

 麻貴は、上目使いにニッコリと十和子に微笑んだ。

 「えらい!麻貴ちゃん!その調子だ。その調子で芸能界の荒波越えて行こう!」

 田村が調子よく叫ぶ。

 「田村さん、うるさい。でも、麻貴ちゃんの答えは七十点ね。とりあえずは合格。柏木さん、すみませんうるさくって。二人を降ろしたら、東京駅までお願いしますね。」

 「あれ?十和ちゃん、事務所寄らないの?もしかして、あの人のところに行くのかな?」

 田村は、十和子が手を握りしめるのを見て、慌てて額を手で庇い前を向いた。タクシーは麻貴の笑い声を響かせて新橋へと向かう。


 「柏木さん、それじゃ、東京駅までお願いします。」

 田村と麻貴を降ろし、十和子は改めて行き先を告げた。                         

 「わかりました。八重洲口でいいですか?」

 「ええ、八重洲でお願いします。」

と答え、十和子は続けて尋ねた

 「料金の事は後で気付いて・・結局、沢井さんが支払われたんですね?」

 「ええ、それ以上に頂きましたから、ご心配なく。」

 「そうですか。連絡先知らないからお礼も言えないな・・あっ!柏木さん、ちょっと電話かけてもいいですか?」

 「ええ。どうぞかまいませんよ。」

 バッグから携帯を取り出した十和子は、

 (九時前・・まだ帰ってないかな?) 

 一瞬迷ったものの、すぐにコールボタンを押していた。

 「はい、小夜・・ゴホン・・」

 返事は咳に遮られ、しばらく咳きが続く。

 「大丈夫ですか?十和子です。また、掛け直します。」

 「・・コホン、風邪ひいたみたいで。ゴホン。ごめんなさい。」

 「病院は?」

 「ええ、薬ももらって・・それより今日・・大丈夫でしたか?ゴホン・・本当にごめんなさい・・ゴホン・・」

 「大丈夫です。気にしないでください。それじゃ、切ります。お大事にして下さい。」

 十和子は電話を切ると、すぐに柏木に言った。

 「柏木さん、すみません。行先、変更してもらってもいいですか?それと、まだ開いている果物屋さん知りませんか?」


 「今日は早い・・えっ?」

 主人が帰ったと思い込み、ドアを開けた知子は、

 「まぁ、十和子さん・・こんな時間にどうしたの?」

と驚きながらも、十和子を中に招き入れた。

 「今日は大変だったでしょう?大丈夫だったの?本当に娘がお世話をかけてしまって、ごめんなさい。」

 「いいえ。何でもないですから、気にしないでください。それより、遅くにお伺いしてすみません。先程、小夜香さんに連絡を取ったら風邪だと聞いたので、元気になってもらえればと思ってこれをお持ちしました。」

 十和子は、果物が盛られた篭を知子に手渡した。

 「あらあら、こんなに一杯。こちらこそ、何かしないといけないのに、わざわざありがとうございます。小夜香は、十和子さんに心配ばかりかけますね。でも安心してください。お薬を飲んで寝ていますから、明日は大丈夫だと思いますよ。」

 「そうですか、よかった。小夜香さんに早く元気になって下さいってお伝えください。遅いので、これで失礼します。」

 「わかりました。小夜香には明日にでも伝えておきます。でも、そうね・・・もう遅いから、十和子さん、泊まっておいきなさい。そしてあなたから直接、娘に伝えたら?」

 「あっ、いいえ。何度も甘える訳にはいきませんから。タクシーにも待ってもらっているので、これで失礼します。」

 「十和子さん、遠慮しないで。タクシーには帰ってもらって、お泊まりなさい。」

 「でも、先日、泊めていただいたばかりなのに・・」

 「遠慮はいらないわ。さあ、おあがりなさい。」

 「ああ、ありがとうございます。すみませんお世話になります。それじゃタクシーを断ってきます。」

 タクシーに戻った十和子は、柏木に声をかけた。

 「柏木さん、待たせてすみません。あの、今日も泊めていただくことになったんです。ごめんなさい。」

 「ああ、いいですよ。料金は一万と五百三十円になります。」

 十和子は、セカンドバッグに入れた財布から一万円札二枚を取り出し、柏木に差し出した。

 「柏木さん、お釣りは良いです。」

 「えっ。十和子さん、それじゃあまりに多すぎますよ。」

 「いいえ。これは、いろいろとお世話になったお礼です。それと先日のことは誰かに聞かれても、これで、お願いします。」

 そう言って、十和子は人差し指を口に当てた。

 「わかりました。それじゃ、これは遠慮なく頂きます。ありがとうございます。それで十和子さん。これ、私の名刺です。何か、また御用がありましたら、いつでもご連絡ください。」

 十和子は、名刺を受け取り座席からバッグを取ると、タクシーを見送った。そしていそいそと玄関へ戻っていった。

 「十和子さん、お食事はどうするの?」

 玄関で待っていた智子が、十和子に尋ねる。

 「あっ、食事は大丈夫です。」

 でも、本人の意思に関係なくぐーっとお腹が応え、その返事に知子は微笑む。

 「主人の用意もあるから、遠慮しないでいいのよ。それと、今夜は風邪がうつるといけないから、隣の部屋で休みなさい。」

 そう言わた十和子は、伏せていた顔を上げて頼み込んだ。

「体は丈夫ですから。風は移りません。大丈夫です。だから今夜も一緒の部屋で休ませて下さい。」

「そう?それはいいけど、風邪がうつらないように、ベッドに顔をもっていかないようにしてね。」


 それから十分もしないうちにまた、チャイムが鳴った。

 「お帰りなさい。すぐに食事にしますか?今ね、小夜香のお友達が来てるの。小夜香が風邪をひいたのを心配して、お見舞いに来てくれたんですよ。小夜香はもう寝てるけど、お友達には今晩泊まってもらいますから。」

 少し緊張して玄関の会話を聞いていた十和子は、ふっと父の香りを思い出し緊張が解れる。そして、部屋に入って来た小夜香の父に、

 「遅くにお邪魔しています。藤井時和子といいます。今晩は泊まらせていただきます。よろしくお願いします。」

と、落ち着いて自己紹介もできた。

 五十前後の小夜香の父は、百七十以上と背丈はあるが、お腹の脂肪が目立つぽっちゃりした体型をして、顔かたちや目元は小夜香に似ていた。そしてその姿と共に部屋にタバコの臭いが漂い、記憶の中の父の香りは払われた。

 「いらっしゃい。わざわざお見舞いを持って来ていただいて、ありがとうございます。」

彼は、テーブルに置かれた果物の篭を見て答えた後、十和子の顔をじっと見つめた。

 「十和子さんは、小夜香のファンでもあるのよ。だから小夜香がちょっと風邪を引いただけなのに、心配してわざわざお見舞いを持って来てくれたんですよ。」

 「心配おかけしてすみません。ところで、どこかでお会いしたことはありませんか?」

 「あなたとは初めてですよ。十和子さんもテレビでお見かけするから、きっと何かの番組で見かけたんですよ。」

 知子が、十和子に代わり答える。

 「・・そうか。ちょっと着替えてくるよ。」

 それでも引っかかるのか頭をひねりながら、出ていった。

 「お食事用意しときます。十和子さんも、食事ご一緒します。」

 「ああ。」

 ドアの向うから返事が返ってきた。

 「ご主人の食事を邪魔して、すみません。」

 「いいのよ。あなたこそ気を遣うけど、我慢してね。」

 「いいえ、とんでもありません。甘えて、すみません。」

 「大丈夫よ、しっかり甘えて。」

 「はい。あっ、お手伝いします。」

 初めの重い雰囲気も、それぞれが九州の出身と分かると、十和子と知子の会話は弾んだ。その二人の話を聞きながら、黙々と食べていた小夜香の父が最後に尋ねた。

 「十和子さんは、あの子のどんなところが良いのかな?」

 その口調には、どこか突き放すような冷たさが紛れる。

 「あの・・最初に小夜香さんを知ったのは、CDの曲を聴いたことですけど、彼女の歌声にも詞の内容にも本当に癒されました。その後、テレビで歌う姿を観てさらに魅かれました。私が芸能界で頑張ってこれたのは、いつか小夜香さんと会いたいという願いがあったからです。私にとって、彼女の全てがかけがえのないものだから、これからも楽しく歌い続けて欲しいです。」

 十和子は、率直に小夜香への想いを口にした。

 「そうですか、ありがとうございます。小夜香も、それを聞けば励みになるでしょうね。ただ私としては、早く引退して普通の生活の中で結婚して欲しいと思っているんですがね。」

 「えっ?小夜香さんが歌うことに反対なんですか?」

 「ええ、チャラチャラした芸能界は、早く辞めて欲しいね。」

 「あなた、もうそろそろ小夜香のこと、認めてあげてもいいんじゃないですか。あんなにがんばっていますよ。」

 食器を引いていた知子が、二人の会話に入り込む。

 「ご馳走様でした。」

 それ以上の話しを避けるように、十和子は食器を流しに運び洗い物の手伝をした。その姿を見た、小夜香の父は急に言った。

 「そうか。今朝のテレビで君を観たのか。ご家族は、あんな騒動を見て何も言はないのかな?」

 十和子は、驚きを抑え、

 「両親は、亡くなりました。その時、私は小夜香さんの歌に救われました。だから、これからも小夜香さんにはずっと歌い続けて欲しいと思っています。」

 軽い調子で答えたが、目が知子の目と合ってしまう。

 「ああ。そうか。申し訳ない。悪い事を聞いたね。ママお風呂に入ってくるよ。」

 彼は気まずそうに、言葉を残しバスルームへ消えた。

 「ごめんなさいね。嫌な事を思い出させて。」

 夫がバスルームに入るのを待って、知子が言った。

 「いいえ。車の事故で、私だけ助かってしまいました。」

 知子は、十和子を引き寄せそっと抱きしめた。

 「そう、最近のことなのね、大変だったわね。これからはここを自分の家だと思って、いつでも遊びにいらっしゃい。娘がいなくっても構わないから・・それとね、今から私が、あなたの応援会員一番になるから。よかったわ、私に出来ることがあって。」

 触れ合う肌の温もりに、東京へ上京してからずっと張り詰めていた心の糸が切れ。十和子は嗚咽を漏らす。優しく背中を擦ってくれる手の温もりが、心地良く体を心を癒してくれる。


 「キャーーッ!」

 再びの生首に、小夜香は布団を蹴飛ばし飛び起きた。

 (また、やられた!) 

 同じことに驚いてしまう自分に腹が立つ。さらには慌てて上がってくる母の気配もない。自分だけが騒いでいる悔しさに、小夜香が悶々としていると、ようやく十和子が重そうに頭をあげた。

 「おはようございます。風邪、大丈夫ですか?」

 寝ぼけ眼の十和子は、壁に張り付いている小夜香に気付き、

 「すみません、また、驚かせたんですね・・ごめんなさい。」

と、慌てて謝った。

 「ええ、少し・・でも大丈夫。もう慣れたから・・それよりこんなに近くで、逆に風邪がうつりますよ、大丈夫?」

 「ええ、大丈夫です。昨日、お見舞いに来てすぐに帰ろうとしたんですけど、お母さんに言われて、また、泊まらせてもらいました。本当に驚かせてごめんなさい。それで、具合はどうですか?」

 「あっ・・咳、止まってる・・もう大丈夫かな・・それより、お見舞いって、私の?私のことより、十和子さんこそ大変だったでしょう?本当に、ごめんなさい。」

 「いいえ、気にしないでください。適当に対応してますから。」

 「でも、身代りをさせてしまって、すみません。」

 「ねえ、小夜香さん。もう謝るの止めにしません?それに、もうすぐ八時ですけど、大丈夫ですか?」

 「八時?私、お二人の事がどう扱われているか気になるからテレビを観たいけど、どうします?」

 「テレビを観たいとは思わないけど、一緒に下ります。」

 「そうなんですね・・でも、私が何も知らないままじゃ申しわけないから。本当に嫌なら、しばらく待ってていいですよ。」

 「いいえ。大丈夫です。」


 キッチンでは、母が椅子に座りテレビを観ていた。

 「おはよう、ママ。」

 「おはようございます。」

 「おはよう。咳はどう?十和子さんも、大丈夫?」

 「咳はとれたみたい。ねえ、十和子さん、このフルーツ持ってきてくれたの?」

 小夜香は、いろんな果物がおいしそうに盛られたフルーツバスケットを見て目を見張る。

 「たくさん食べて、元気をつけてください。」

 「すみません。私こそ、お礼をしないといけないのに。」

 「そんなこと気にしないで下さい。それとお母さん、私は大丈夫です。」

 「食事はどうする?」

 「芸能コーナー、もう始まるよね?観てから食べる。」

 「私も、それからで。」

 しばらく見ていると、レポーターに囲まれた沢井が、質問に簡単に答えその場を去ろうとして、もみくちゃにされているシーンが流れ、そしてタクシーへ向かう十和子が、同じように揉みくちゃにされる姿が流された。ただそれを見た十和子は、局に入るところじゃなくこちらを使われてよかった、と何故かホッとしていた。逆に小夜香は、自分だったら思いぞっとしてしまい、

 「十和子さん。こんな大変なことになって、ごめんなさい。」

と謝らずにはいられなかった。

 「大丈夫ですよ。しばらくすれば皆、忘れますから。」

 知子は、さっとテレビを消してキッチンへ立った。

 「それじゃ、食事になさい。フルーツも後からいただきましょう。」


 「十和子さん、もう堅苦しく話すの止めません?」

 食事後に、小夜香はそう提案した。

 「いいの? えっ・・と、それってお友達になる?」

 十和子は、躊躇いながら聞き返した。

 「うん。二回も一緒の部屋で寝たんだし、朝も楽しませてもらってるし。もう、お友達って言ってもいいでしょう?」

 母は、娘の突っぱった返事に少し眉を顰めたが、十和子の嬉しそうな表情を目にすると、黙って二人の話に耳を傾けた。

 「私はそうなると、嬉しいけど。いいの?」

 「うん、決まり!それじゃ、お互い、なんて呼ぶ?」

 「どうしよう。自分から言う?」

 「私ね。『時ちゃん』って呼びたい。いい?」

 「それじゃ、私は『小夜ちゃん』って呼んでいい?」。

 「いいよ。じゃ、これで決まり!よろしく、時ちゃん。」

 「こちらこそよろしく、小夜ちゃん。」

 ぎこちなく友人関係がまとまったところで、

 「ところで、時間は大丈夫なの?」

と、知子が割り込んできた。

 「今日は、お休みなんです。」

 「言ってなかった?今日のレコーディング、午後からなの。」

 「そう、わかったわ。それじゃ、時ちゃんも、ゆっくりしていってね。小夜香は、薬を飲むの忘れないように。」

 『時ちゃん』と呼ばれた十和子は、照れた表情で頷いた。


 「時ちゃん。私ね、引っ掛かっていることがあるんだけど、教えてもらっても、いい?」

 小夜香は、食事も終わり再び部屋に上がると早速尋ねた。

 「私でわかることならいいけど、何?」

 「あのね、三茶での記憶ってほとんどないの。でも『私は赤ちゃん』って言葉だけ覚えてるんだけど、何か知らない?」

 十和子の頬はつい緩み、慌てて笑みをかみ殺したが、

 「ねぇ、その笑いは何?」

 小夜香は、十和子の表情の動きを見逃さなかった。

 「うーん、小夜ちゃんは知らない方が・・」

 「えっ、何で?ダメだよ。沢井さんも知ってるよね?二人が知ってて、私が知らないなんておかしいでしょう?話して!」

 その強い意志に、十和子は自分が沢井を責めたことは省き、タクシーでの出来事を簡潔に話した。

 「ええっ!」

 小夜香は途中で絶句したまま、酔っぱらった自分が沢井にとんでもないことをしてしまった後悔と恥ずかしさに身を縮め、もう二度と彼から誘われないという絶望感にじわじわと苛まれる。

 「そんなこと本当に言ったの?『私は沢井さんの赤ちゃん』?嘘・・時ちゃん、からかってない?」

 「いいえ、本当に言ったの。」

 「酔っただけじゃなくって、そんなこと言っちゃったの・・」

 とんでもないことをしてしまって、もう沢井に会えないという想いが心をかき乱す。

 (聞かなきゃよかった!でも、沢井さんは呆れ果てて、もう会うつもりもないから・・どっちにしてももう会えない・・) 

 誘いはもうない・・沢井とのデートが、一度で終わる。自分が原因だけに気持の整理がつかず、小夜香は底のない悲しみに沈む。どうしようもなくって助けを求めた十和子の表情に、小夜香は何故か喜びが混じっている気がした。

 「時ちゃん、なんだか喜んでない・・?もしかして、沢井さんがバカな事をした私をもう誘うことはないって喜んでる・・?きっとそう、初めて会った時だって、私と沢井さんの邪魔ばかりしてたもの。時ちゃん、沢井さんのことが好きなんだ!」

 どうすることもできない心のもやもやをぶつけてきた小夜香を、十和子は冷静に受け止めて言った。

 「小夜ちゃんって、友達になるとすごい我儘言うのね。でも、そうよ、私は確かに喜んでいるけど、何故だか教えてあげる。」

 「あっ、やっぱり喜んでたんだ!」

 「そうよ、喜んでいるわ。」

 今、十和子は、自分に我儘を言ってくる小夜香への愛おしさで、何ともいえない高揚感に包まれ、そしてちょっと意地悪な心も芽ばえる。

 「いい?私が喜んでるのはね、小夜ちゃんが、もう、沢井さんと会えないって思ってくれたからよ。」

 「何それ?別にそんなこと思ってないし、わかったのは、時ちゃんが沢井さんを狙ってたってことよ。信じられない!」

 「へー、本当にそう思ってるの?じゃあ、友達やめる?」

 「えっ?あ、べ、別にそんなこと言ってないし。とりあえずは時ちゃんの言い訳聞いてあげる・・」

 十和子にじっと見つめられ、小夜香の声は小さくなる。

 「まだ、私の言うこと聞いてくれるの?」

 「時ちゃん、何だか違うよ。時ちゃんこそ、友達になったら性格変わったんじゃないの?なんだか意地悪・・・」

 小夜香は、視線を逸らし口を尖らせる。

 「だって、小夜ちゃんこそ我儘で、難癖つけてるじゃない。」

 「別に我儘じゃないし、本当のことじゃない。」

 「まあ、わかった。それじゃ話を最初に戻すよ。いい?私が喜んでいるのは、沢井さんが好きとか、付き合いたいとか思ってるからじゃないからね。そんなこと分かってるよね?」

 小夜香は、黙って口を尖らせ鼻に小じわを寄せる。十和子は、頬が緩みそうになるのを慌てて引き締める。

 「確かに、邪魔をしたのは認めるけど、それは沢井さんに、小夜ちゃんが遊ばれるのが嫌だったからなの。だから、悪いとは思ったけど邪魔をしたの。私が沢井さんを好きだなんて、本当に有り得ないから。小夜ちゃんも本当はわかってるよね?」

 小夜香は自分が悪いという負い目と、勢いに圧倒され頷いた。

 「小夜ちゃんが、もう彼に会えないって思たのなら、私は大歓迎よ。だって、彼と付き合うとどうなるのか、今回の事でよくわかったでしょう?沢井さんなんて、おじさんじゃない。こっちからポイしなさいよ。」

 そう言われた小夜香は、口を突出し今にも泣きそうな表情で、嫌々するように首を振る。十和子はその仕草に我慢できず、頬をほころばせた。するとその表情の変化に力を得た小夜香が反撃する。

 「時ちゃん、沢井さんをおじさんって言わないで!それにポイするなんて失礼だから!沢井さんの噂は、私も知ってるよ、でもね、彼がどんなに真剣に演技に取り組んでるか、周りの人にどれだけ優しく気を使ってるか、時ちゃんは知らないの!皆に優しいから、そんなところ見られて、いろんなことを言われるだけなのよ。」

 十和子は悪戯心が擽られ、よけいな一言を口にした。

 「でも、小夜ちゃん。彼をいくら弁護しても、もう誘いはないのよ。無駄なことは止めよう。」

 「うっ・・」

 小夜香は、言葉に詰まり感情を爆発させた。  

 「ひどい!時ちゃん、優しくない!なんでそんな酷いことが言えるの!沢井さんと私を別れさせることばっかり考えて!やっぱり沢井さんのことが好きなんでしょう?」

 「小夜ちゃん、ごめんなさい。ちょっと言い過ぎたわ。でもね、沢井さんはおじさんだから好みじゃないの。それに彼は絶対に私を嫌っているよ、聞いてみたら?」

 「えっ?だって・・だってこんなこと知ってしまって、沢井さんに連絡なんてできないよ。わかってるでしょう?馬鹿な真似をしたのは、私だってわかってるわよ。だから沢井さんに電話もかけられないし、もう会えないよ。なんでそんな意地悪を言うのよ!」

 小夜香は、感情のままに言葉を吐き出すと、我慢していた涙がぽろぽろと零れた。涙は、昂った気持ちを落ち着かせたが、逆に十和子を慌てさせる。

 「小夜ちゃん。泣かないで。ごめんね、意地悪するつもりも、泣かせるつもりもなかったの。小夜ちゃんの誤解が解ければよかっただけなの。」

  「うん、わかってる・・私の方こそ、我儘言ってごめんなさい。でも、どうしようもなかったの。本当にごめん。もう大丈夫。」

 その健気さに、十和子は思いとは裏腹なことを言ってしまう。

 「小夜ちゃん、いい?沢井さんはね、あなたのことをけっして嫌いになっていないよ。ずっとあなたの事を心配していたし、あなたが口にした言葉も、楽しんでいたわ。」

 「本当に?本当に本当?嘘ついてない?」

 「本当。今はこんな状況だから、小夜ちゃんから連絡できないのなら、しばらくは大人しく連絡を待っていればいいよ。」

 「連絡を待つ・・沢井さんからかかってくる?」

 「そうね、この騒動が納まるまでは無理ね。少なくても二、三ヶ月は待って必要はあるかな。」

 「そんなに?二ヶ月も、三ヶ月もなんて長いよ。」

 「小夜ちゃん、何言ってるの。今度のこと忘れられるには三ヶ月でもまだ短いよ。周りの人のこともちゃんと考えなさいって、お母さんから言われたばかりでしょう?忘れた?」

 「ううん、忘れてはいないわ。でも本当に、沢井さんから連絡があるかな?」

 「そうね。」

 相槌を打った十和子は、一つ溜息をついた。

 「大丈夫よ。きっと連絡はあるわ。だから小夜ちゃんは、大人しく待っているの。でもね、また会えたとしても、小夜ちゃんも今度は周りに十分注意をしてね。次に写真撮られたら、小夜ちゃんもだけど、沢井さんはもっとダメージが大きいわよ。」

 十和子が真面目に注意をしているのに、

 (沢井さんが、連絡をしてくれる。) 

 小夜香は、自分の世界に浸り込んでいると、

 「痛―い。」

 十和子にぎゅっと鼻を抓まれ、悲鳴を上げた。

 「私の言ってること、聞いてなかったでしょう?」

 「聞いてた!聞いてたよ!」

 十和子は、小夜香が妄想から抜け出たのを確認して指を離した。

 「もう、信じられない!またこんなひどい事したら、時ちゃんとはもう友達になれないからね!」

 小夜香は痛む鼻を押さえて、文句をぶつける。

 「いいわよ。お母さんには、いつ来てもいいって言われているから、誰かが『ダメ』って言っても来ちゃうもん。」

 十和子は平気な顔で、ニッコリと最高の笑顔を小夜香に向けた。


 小夜香が、心待ちにしていた沢井からの連絡が届いたのは、騒動から一カ月ほど経った二月の中旬だった。その頃には、もう誘いはないと諦めかけていた小夜香は、十和子へ文句の十個や百個は言ってやろうと考えていた矢先のことだった。沢井は、一週間後に迫った『あやかしの里』のプレビューの後に食事をしようと誘ってきた。一瞬、小夜香の頭をいろんなことがよぎったものの、彼女はすぐにその誘いに飛びついていた。


 デートの前日、家に帰った小夜香は、今ではお馴染の十和子の姿を目にする。小夜香は、ここまでデートのことを十和子に話してしまうと止められそうで、彼女に話さないように頑張ってきた。でも、今日はもう我慢できず、十和子を部屋へ引っ張っていった。

 「聞いて、聞いて!沢井さんから連絡が来たの。食事に誘ってもらったの。やっとだよ!嬉しいよ!ねえ、喜んで!」

 小夜香の溜まっていた思いが、一気に弾ける。

 「待って、小夜ちゃん。私の言ったこと覚えてる?」

 十和子の手が伸び、はしゃぐ小夜香の鼻をぎゅっと抓む。

 「痛―い!痛いよ、わかってるってば!でも、今はいいでしょう?一ヶ月待ったんだよ。ねえ、時ちゃん。一緒に喜んでよ!」

 「喜んではあげたいけど、それよりも心配だよ。まだ早過ぎる。二人とも辛抱が足りないよ。そんなにへらへらして、大丈夫?」

 「何言ってるの。一ヶ月だよ!もう、本当に長くって、諦めかけていたんだから!それでさ、聞いて。今度はね、素敵なレストランでお食事をしようって。あと、十分に注意するよって。」

 「それで、いつなの?」

 「明日!『あやかしの里』のプレビューの後に食事なの。」

 言ってしまって、しまったと小夜香は口をつぐんだ。

 「明日?それって、どういうこと?」

 「うん?何が?」

 十和子は、目を細め、

 「ねえ、明日会うのに、沢井さんの誘いが今日ってことはないわよね?連絡って、いつあったの?小夜ちゃん。あなた、もしかして私に黙って会う気じゃなかったの?」

と、冷たく問い詰める。

 「沢井さんから?それはついこないだだよ。時ちゃん忙しそうだったし私も忙しくって、たまたま報告が今日になっただけだよ。」

 にっこり笑う小夜香に、十和子はため息をつく。

 「いいわ。そう言うことにしましょう・・でも、残念だな。明日は収録遅いから、二人をつけられない。」

 「やめてよ。もう、おじゃま虫はいらないからね。」

 小夜香がそう言うのも、十和子が三茶の時はつけてたと告白していたから。

 「残念だな。探偵ごっこも、けっこう面白かったんだけどな。そうなの、誘いが来たの。とりあえず良かったね。」

 「とりあえずなんて、ちゃんと喜んで!」

 「何よ、別に私のことじゃないもの。」

 「あーもう!意地悪言わないで、喜んで!」

 「わかったわ。小夜ちゃん、良かった。良くここまで我慢したね。明日は一杯楽しんできて。」

 「ありがとう!しっかり楽しんでくるから話、聞いてね。」

 「楽しみにしてる。それで明日は何を着て行くつもり?」

 その一言で、ありったけの服が引っ張り出され、大下家のファッションショーが始まった。それは、父が帰るまで賑やかに続けられた。


 小夜香とマネージャーの木下が、試写会場にゆとりを持って入ったのは、早く沢井に会いたいという小夜香の願いが大きく影響していた。小夜香は、始まるまでの時間をさっそく沢井と話し、合間には監督の下田や他の出演者と、再開の挨拶をすることで過ごした。席で待つ間も、この後に控えるデートのことで頭ははち切れんばかりになっていた。それでも、上映が始まると映像の世界に引き込まれ、自分が演じる舞姫に魅せられた。スクリーンの中の舞姫が、自分自身と結びつかず、この世のものでないあやかしとして美しく輝いていた。自分の知らない美しさを、引き出してくれた監督に感謝しながら、いつしか一人の観客として映画を楽しみ、鬼たちとの戦いの場面では、沢井の武者姿と大刀廻りにはらはらしながらも、その姿にうっとりと見入っていた。


 小夜香は、試写の興奮が冷めやらぬままに新宿に着き、西新宿のビル群へ向かった。告げられたビルが近づくにつれ増してくる緊張感も、刺すような真冬の冷気さえも楽しんでる自分がいて、小夜香の体は羽が生えたように軽く弾んでいた。

 エレベーターで最上階へ上がると、マネージャーがコートを受け取り、沢井の待つ個室へと案内してくれた。部屋一面の窓から望む街の夜景は、澄み渡る冷気の中、光輝く宝石のような鮮やかな色どりに満ちていて、小夜香はその輝きをバックに引かれた椅子に腰を下した。マネージャーが去り、沢井を前にして二人だけの喜びが胸に溢れ、何故か締め付けられる痛みにその胸は疼いた。

 (時ちゃんは彼をおじさんって言うけど、そんなことないよ。スクリーンの中の凛々しくって荒々しい姿も、スーツ姿の知的で爽やかな姿もどちらも素敵だよ。) 

 「その服、とても似合ってるね。淡いグリーンの色が、小夜ちゃんの爽やかな印象を引き立てているね。」

 昨夜、十和子と散々試してようやく二人が納得した淡いグリーンのワンピース。普段と違う姿を今日は試写会だからと周りに答え、ずっとこの姿で過ごしたから、沢井はすでに試写会場でこのドレスを目にしていた。本音は、ここで沢井にだけ見てほしいと思っていた小夜香は、今の一言に救われ嬉しさに震えた。

 「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです。」

 「今日は、小夜ちゃんの美しいお姫様の姿と、かわいらしい姿を見ることができて嬉しいよ。来てくれてありがとう。」

 「私こそ、誘っていただいてありがとうございます・・あの、先日は本当にご迷惑を・・」

 小夜香が、逢えたら一番先に謝ろうと考えてきたことを、沢井は遮る。

 「謝るのは俺の方だから、小夜ちゃんが謝ることは何もないよ。だからその話は無しにしよう。でないと、俺はずっと謝り続けることになるよ。」

 「『子宝』の件も?」

 「うん・・?それ、十和子さんから聞いたの?」

 沢井は、笑いをかみ殺す。

 「ええ、その言葉だけが残っていて、時ちゃんに聞きました・・彼女も笑ってました。」

 「時ちゃん?」

 「あっ、十和子さんのことです。『とわこ』の『と』は、本当は『時』って書くんです。だから『時ちゃん』って呼んでます。」

 「そうなんだ。それで、彼女とはあれから友達になったの?」

 「ええ。彼女は、今ではしょっちゅう家に遊びに来てます。」

 「そうか、そうなんだ。話は聞いたんだね。残念だけど、とりあえずそれも無しにしよう。」

 沢井は、十和子に先を越され微かな苛立ちを覚えたが、その想いを封じ手を上げると、ワインが運ばれてきてグラスに注がれた。小夜香は、じっと注がれたグラスを見つめる。

 「二十歳のお祝いの仕切り直しだよ。かたちだけ乾杯しよう。」

 沢井が、グラスを手にしたのに倣い、小夜香もグラスを掲げた。

 「小夜ちゃん、二十歳おめでとう。」

 「 ありがとうございます。」

 チン、と澄んだ音が響き、小夜香は少し口にしてグラスを置いたが、沢井はゆっくりと味わうように飲み干し、

 「酔った時には、ビンタでもしてくれると嬉しいな。」

と、沢井はおどけた顔で笑う。小夜香が目を丸くしていると、鯛のカルパッチョと、彩りも鮮やかなサラダが運ばれてきた。

 「おいしそう。飾り付けもとっても綺麗。」

 「味も、気に入ってもらえるといいけど。」

 小夜香は、気を取り直し、サラダとカルパッチョを口にする。

 「おいしい。新鮮で、一つ一つの味がしっかりしています。ドレシングもまろやかで野菜の味を引き立ててますね。鯛も新鮮でコリコリとして、ソースがとっても爽やかでおいしいです。」

 小夜香の感想に、沢井の笑顔が広がる。

 「気に入ってもらえてよかったよ。メイン料理も楽しみにしといて。ところで、スクリーンの中の舞姫には満足できた?」

 「ええ、とても満足しています。ただ、あの舞姫が私だなんて今も信じられません。綺麗に撮っていただいた下田監督やカメラマンの河野さんには、感謝しています・・あっ、私が綺麗ということではなくって・・・」

 「謙遜することはないよ。あの舞姫は間違いなく小夜ちゃんだし、下田監督や河野さんが魅力を引き出してくれたかもしれないけど、その美しさは小夜ちゃん自身のものだよ。小夜ちゃんは自分の魅力に自信を持っていいよ。」

 沢井は、本人が照れるようなことをさらりと口にする。

 「そんな・・私、自分の顔が好きではないんです。目なんてつり上がってて、鼻は低いし・・だから、スクリーンの中であんなに綺麗に撮っていただいたのが嬉しくって・・」

 「俺からすると、目元がすっと切れた目は、とっても魅力的だよ。形の良い鼻も素敵だし、小さな口元も愛らしいよ。」

 ストレートに言われる誉め言葉に、小夜香はまた胸が締め付けられる痛みに襲われ、ゾックと体が震える。小夜香は、それに耐えられなくなりそうで沢井のことに話題を振った。

 「ありがとうございます。でも、沢井さんの武者姿の方がとっても素敵でした。今のスーツ姿からは、頼光が同じ沢井さんだとはとても思えません、あんなに変われるなんて本当にすごいです。」

 「ありがとう。そう言ってもらえると素直に嬉しいよ。ところで今の姿と、武者姿、どちらが小夜ちゃんの好み?」

 「あの・・どちらも素敵です。どちらの沢井さんも大好きで、選べません。」

 小夜香は、返事した後に大胆なことを言ってしまったと焦っていると、

 「ありがとう。嬉しい答えだね。俺も今の小夜ちゃんも、舞姫の小夜ちゃんもどちらも大好きだよ。」

 さらっと返される言葉に、ますます焦ってしまう。

 そこに次の料理が運ばれ、小夜香に落ち着く時間をあたえた。

 置かれた皿には、ホワイトソースのかかる伊勢海老が盛られ、香しい匂いが鼻をくすぐる。白い身を口にした小夜香は、ぷりぷりとした弾力と甘いエビの味わいに心奪われる。

 「久しぶりに味わうけど、おいしいな。」

 沢井も、満足気に笑顔を浮かべている。

 「とってもぷりぷりして、甘さもあっておいしいです。サラダのドレッシングもそうでしたけど、エビにかかっているホワイトソース、すっきりして海老の味を引き立てて本当においしいです。」

 「そこまで喜んでもらえると、誘ったかいがあるな。次にどこへ誘おうかって楽しみになるよ。」

 沢井のその一言は、小夜香の耳に心地良く流れ込む。

 「いつでも声をかけて下さい。楽しみに待っています。」

 小夜香の高揚感は限界を超え、逆に冷静に応える自分がいる。

 皿が引かれると、沢井は椅子の背に体を預けて尋ねた。

 「『あやかしの里』を観ての感想は、どう?」

 「はい。台本を読んでいて、何となくこんな感じになるのかなって想像はしていましたけど、出来上がった作品を観ると、想像してた以上に内容が濃くって、映像も綺麗で迫力があってびっくりしました。鬼の迫力は想像以上にすごかったですね。あっという間に、作品の中に引き込まれてしまいました。舞姫たち鬼族の女性と、沢井さんたち武士との出会いの場面や、館の場面で互いの気持ちを深めてゆく静の部分と、鬼との戦いの激しい動の部分の絡み具合も、物語の強弱になってとっても良かったと思います。でも、鬼たちとの戦いのシーンが、あんなに迫力のある画面になってることには本当に驚きました。この作品に出させてもらって、心から良かったと思っています。映画って、本当に素敵ですね。」

 (だって、沢井さんと出会えたんですから。こんな素敵な事はありません!)

 小夜香は心の中で、そんな一言を付け加えていた。映画の感想は、きっと聞かれると思い何度も何度も、どう話そうかとずっと考えていた。だからスムーズにしっかりと答えたと思ってると、

 「最後は、誰かの決め台詞みたいだね。」

と、沢井の茶化すような返事が返ってくる。

 (えっ?私、一生懸命に考えて話したよ。なのにそこ突っ込む・・・?時ちゃーん。やっぱり沢井さんっておじさんかもー)

 そんな小夜香の嘆きを知らないままに、沢井は続けた。

 「確かに出来上がった映像を観るまで、どんなものになっているか分からなかったけど、あのCGの鬼たちの迫力はすごいものがあったね。あんな鬼たちが目の前にいたら、映画の主人公じゃなけりゃ全力で逃げちゃうよ。それくらい、すごい迫力になったね。」

 「本当ですね。鬼たちがすごい勢いで迫って来た時は、思わず体がのけ反りましたから。でも、沢井さんの武者姿には見とれてしまいました。」

 「嬉しいね。小夜ちゃんには何度でも誉められたいね。でもね、やっぱりすごいのは小夜ちゃんだよ。舞姫が湖畔に佇んで、妖しく頼光たちを招く登場シーンは本当に良かったよ。あやかしの美しい姿そのままだったね。現場でもそうだったけど、スクリーンでのアップの姿は観る者をさらに惹きつけるよ。」

 「とんでもないです。監督に表情を引き出してもらっただけですから、私の力なんてこれっぽっちもありません。」

 再びの自分の話題に、また焦りが再燃する。

 「でも、今だから言えるけど、あの登場シーンを新人で歌手の子がどう演技するのか出演者、スタッフ、皆興味深々で観ていたんだよ。あれは、観客を物語に引き込む大事なシーンだったからね。」

 「えっ、そうなんですか?あの時・・だけじゃないですね。撮影のあいだずっと、私は監督に指示された演技を、どうしたらいいのかって考えてるだけで一杯一杯で、他の事は何も考えられませんでした・・・そうなんですね。皆さんいろんなことを考えて、演技されてるんですね。何も考えずに演技していたんだって思うと、とっても恥ずかしいです。」

 「そんなことないよ。皆、経験を積んでいろいろと身に着けてゆくんだよ。それでも、演技だけは頭ではわかっていても、それを実際に表現できるかとなると本当に難しいことだと思うよ。小夜ちゃんみたいに、初めての演技であれだけの表現と雰囲気を醸し出せるなんてなかなかできないことだよ。一瞬で、大勢の人を虜にする。役者としては嫉妬するね。」

 「あの・・さっきから、沢井さん私をいじって楽しんでいませんか?だって、私は撮影の間、何度もミスして怒られては撮り直しさせてしまって、迷惑しか掛けていないんですよ。」

 「えっ?俺が、いじってるように見える?俺は本当に真面目に話しているんだよ。現場であのシーンを観た、出演者もスタッフも皆、小夜ちゃんの舞姫に釘づけだったじゃない。あのシーンは一発OKだっただろう。あの後、小夜ちゃんをヒロインに指名した下田監督は、鼻高々だったよ。」

 「沢井さん、褒めていただいてありがとうございます。でも、これ以上褒められたら酔ってもいないのに、また変なことを口にしそうですからこの話は終わりにしませんか?」

 「うーん、それはそれで興味があるけど、わかった。もう止めよう。ただ、最後に一つだけ。あの舞姫の登場シーンだけでも、『あやかしの里』は話題になるよ。」

 メインの肉料理が運ばれてきた。小ぶりだが肉厚のステーキは、ナイフがすっと入り、口にしたおいしさにおもわず声が出る。

 「このお肉、やわらかくっておいしい。ソースもピリッと辛さがくるけど、お肉の味を引き立てとってもおいしいです。こちらは、食材もいいですけど、ソースがどれもおいしいですね。」

 沢井が、手を止めた。

 「その感想はすごいね。シェフが聞いたら喜ぶよ。」。

 「あっ、本当においしくって、つい。」

 「そうかもしれないけど、若い娘の感想なんて『おいしーい』くらいですませるのに、表現が上手だよ。ねえ、小夜ちゃんって料理を作ったりもするの?」

 「えっ?はい。少しですけどお料理は作れます。」

 「お母さんから、教えてもらってる?」

 「ええ、小さい頃から、マ・・母を手伝ってたので。でも、高校に入ってからは手伝っていないので、今は自信はないです。」

 「それでも、作ろうと思えば作れる?」

 「今すぐには、ちょっと・・」

 「そうか・・でもコメントの内容からすると、これまでにいろんなものを食べてきたんじゃない?」

 「こんなに素敵なお料理は初めてですけど、手伝っているときに、これがこの野菜の本来の味よとか、母に教えてもらいましたから少しは味が分かるのかもしれません。それに外食の時・・あの、普通の街のお店なんかで食事をすると、母と食材はどうとか、ソースはどんなだったって、それは今も話しています。」

 「それはいいな。俺も『うまい』だけで、あとはうんちくを口にするくらいだからね。良いお母さんだね。」

 「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです。」

 「そうなると、小夜ちゃんの手料理が気になるな。素敵なお母さんに教えてもらってるんだから、おいしい料理なのは間違いないだろうから、どう?近いうちに手料理作ってもらえないかな?」

 「えっ?」

 沢井のその提案は、小夜香を妄想の世界に誘う。

 (作るって、沢井さんのとこで?その後、どうするの?泊まる・・?えっ、そうなの?待って!待って!それ以上だめ!今は、素直に『わかりました』って言うの!) 

 小夜香は、妄想の一歩手前で踏みとどまったが、それでも沢井に見透かされているようで顔が赤くなる。

 「すぐにとは言わないから、もう少し互いを知ってからってことでいい?」

 「わかりました。でも、期待はしないでください。」

 「いや、期待して待ってるよ。自信がなければ断ってるはずだから、大丈夫だよ。」

 小夜香は、強引な理由づけに笑ってしまう。

 「がっかりさせないように、また腕を磨いておきます。のんびり待っててください。」

 気持ちに余裕ができ、小夜香はすまし顔で答えた。 

 「わかった。楽しみに待っているよ、でもね、俺もそんなに気は長くないからね。あんまり待たされると、『食べさせてくれー』って、小夜ちゃんを攫いに行くから用心しとくんだよ。」

 「えーっ、そんな、だめですよ。からかわないで下さい。」

 すまし顔は、笑いで崩れてゆく。

 「からかってないよ。約束だよ。待ってるからね。」

 沢井は軽く念を押し、映画の話題に戻る。

 「『あやかしの里』の話に戻るけれど、終わり方、あれ?って思わなかった?」

 「エンドロールの後の、映像のことですか?」

 「そう。『舞姫は男の赤子を産んだ』って、赤ちゃんのシーンで終わったけど、あれって台本にはなかったよね。」

 確かに渡された台本では、最後は沢井たちが扮した武士たちが、『あやかしの里』を去るところで終わっていた。小夜香は最後のシーンを思い受け浮かべたことで、封印していたことまで思い出す。

 (あのシーンの前には、沢井さんに抱き締められて・・)

 鮮明に記憶が蘇り、小夜香の頬が赤く燃え上がる。

 (それを考えちゃだめ!話に集中して!) 

 赤くなった頬を意識しながら、小夜香は頷く。

 「試写の後に監督に聞いたら、続編を考えてるって。ただ、お前は出ないって言われたよ。」

 「ひどーい、下田監督、優しく言ってもいいのに。でも・・監督に優しく言われてもかえって怖いかも・・」

 「小夜ちゃん、そう言いたくなるのはわかるけど、それはきついよ。監督、くしゃみが止まらずに、悪口言ったの誰だって考えまくってるよ。」

 「そんなぁ。脅かさないでください。」

 「あはは、ごめんごめん。でも、対象が多すぎて途中で犯人捜しはあきらめてるさ。」

 「沢井さんこそ、そんなこと言って酷いですよ。」

 小夜香は、沢井の笑い声に心浮き立ち、巻き込まれるように笑う。

 「それじゃ、下田監督に謝っとこう。」

 ひと笑いした沢井は手を合わせ、小夜香もそれに倣い、

 「監督、ごめんなさい。」

 声を合わせた二人は、また笑ってしまう。 

 「あー、これ以上、監督をネタにしてると本当にここに来そうだから、もう止めよう。」

 「ええ、そうですね。止めましょう。」

 「OK。じゃあ、話を戻して続編の事、どう思う?」 

 「そうですね、続編ができるのなら、どんな内容のなるのか今から楽しみです。」

 「そうだね。でも俺の出演はなくっても、間違いなく小夜ちゃんには出演のオファーが来るよ。」

 「そうでしょうか?続編は、きっと赤ちゃんが主人公になるでしょうから、私はどうでしょう?」

 「頼光は、最後に人間界に戻ったからもう必要はないけど、その子供に寄り添う母親として舞姫は絶対に必要だね。」

 「でも、『あやかしの里』の設定では、里で育てられるのは女の子だけで、男の子は鬼界に投げ落とされるという設定でしたよね?その設定だと赤ちゃんは、すぐに引き離されてしまいますよ?」

 「設定はそうでも、監督が小夜ちゃんを使わないわけがないよ。きっと鬼界には落とさず館で育てるって話にしてでも使うよ。」

 「そうですね・・でも、鬼界へ落とされた彼が、苦労しながら鬼たちを一つに纏め上げる。その方が面白くないですか?アクションも派手なものになりそうだし、そこに私が入り込む余地はなさそうですけど。」

 「うーん、そうかな。でも今回、舞姫の母は鬼界に投げ込んだ息子を求めて、そこへ下りて行っただろう、だからそれを見ていた舞姫は赤ちゃんを庇い『館』で育てる。そちらの方が話はいいな。舞姫も十分に活躍できるしね」 

 「沢井さんの話を聞いていると、監督の代わりに口説かれてる気がするんですけど・・」

 「わかる?よかった、実際に口説いているんだよ。だってスクリーンの小夜ちゃんの姿をもっと観てみたいからね。」

 「わかりました。もし本当に下田監督からオファーがあれば、その時は喜んでお受けします。」

 そう言った小夜香の表情が、少し曇る。

 「どうしたの?」

 「あっ・・沢井さんはいらっしゃらないんですよね?」

 「そうだね・・淋しい?」

 小夜香は、小さく頷く。

 「そうだな。俺もできれば一緒の現場にいたいな。」

 そう言った後、沢井はにやり笑い、

 「じゃあ、小夜ちゃんにオファーが来たら、俺も出演することを条件するのはどう?」

と、笑顔を見せる。

 「あっ、それ、いいですね。ぜひ、そうしましょう。」

 小夜香は、その提案に半分本気で頷く。

 「でも、人によっていろんな物語が出来るって素敵ですね。続編ができるのなら、本当にどんな物語になるのか楽しみです。」

 「そうだね。監督もこれから脚本を練ってゆくだろうけど、どんな内容になるか楽しみだね。できればそれが、俺の案に沿った話だと嬉しいね。」

 「拘りますね。」

 「そうだよ、その方が小夜ちゃんの姿を一杯見られるからね。」

 「でも、今日は十分迫力のある鬼を観たんで、しばらく鬼はいいですね。」

 「確かに、それはそうだな。しばらくは、鬼はいいかな。」

 食後のデザートとコーヒーが、二人の前に運ばれてきた。

 フルーツをふんだんに使ったケーキは、クリームの甘さが、フルーツの味を引き立てている。そしてコーヒーが、口に残った甘さとすっぱさをすっと流してくれる。

 「どう、ケーキの感想は?」

 「とってもおいしいです。」

 すました顔でさらっと答えた小夜香に、沢井は微笑む。

 「ところで、歌の方も順調なの?」

 「はい。これから来月発売する新曲をレコーディングします。CDが出来たら、事務所に送らせてもらいますから、ぜひ聞いください。」

 「それは楽しみだな。でも、できれば小夜ちゃんから直接受け取りたいな。」

 「あっ、いいんですか?」

 「もちろん、直接受け取る方が何倍も嬉しいよ。」

 「それじゃ、出来上がったらすぐに連絡します。あと、少し先になりますけど、二枚目のアルバムの準備もしてます。それも直接お渡ししてもいいですか?」

 「大歓迎だよ。小夜ちゃんの新しい曲が、まとめて聴けるなんて待ちどうしいな。」

 「あの、あと九月のコンサートも、また招待させてもらっていいですか?」

 「もちろんさ、九月のコンサートの日は、今からスケジュールを開けてるから、招待じゃなくっても必ず今度は行くよ。」

 「ありがとうございます。嬉しいです。招待状も、直接お渡ししていいですか?」

 「会う機会があれば逃したくはないから、大歓迎だよ。それ以上に、もっと会う機会を増やしたいな。」

 「いつでも声を掛けてください。喜んで伺います。」

 舞い上がる気持ちに、笑顔は心なしか引きつってしまう。

 「それじゃ、空いている日を教えてもらえれば連絡するよ。」

 「ええ、わかりました・・でも急に埋まったら申し訳が・・」

 「その時は、淋しく一人酒でも飲んでいるよ。」

 「そんな顔しないでください。沢井さんだったら、そんな時はきっと隣に素敵な女性の方がいるんでしょう?」

 「あれっ?そう思う?俺はそんなにモテないし、マジメなもんなのに、残念だな。撮影ではけっこう長く一緒たったのに、わかってもらえてない・・」

 「そんな顔して見るなんて、沢井さんずるいです、わかりました。沢井さんは真面目です。認めますからやめてください。」

 「ありがとう。小夜ちゃんさえ認めてくれれば、後は誰に何と言われても構わないよ。後から埋まるのはいいから、空いた日は教えてもらいたいな。会えると思うだけで満足だよ。」

 「嬉しいです。本当に連絡しますから誘って下さい。」

 そして、少し会話が途切れた。

 窓に映り込む二人の姿が、光溢れる街の灯の中にクリスタルの置物のように浮き上がっている。その冷ややかな姿に、小夜香の胸にずっとつかえていたもやもやが溢れ出す。

 「沢井さんは映画とかドラマの中で、恋人役の相手の方への気持ちが本気になることってあるんですか?そんな時、その感情って撮影が終わった後、どう切り替えられているんですか?」

 「そうか・・初めてだといろいろと考えるよね。そうだね、二十年の間に対応もかわってきたな。最初の頃は若かったしいろいろあって、ドラマの感情を引きずったまま相手役の女性と付き合ったこともあったよ。その頃だよ、よく週刊誌を賑わせたのはね。ただね、物語と現実の違いがわかってからは。仕事は仕事って割り切って、もう引きずることもなくなったよ。」

 沢井の言葉に、小夜香の表情が曇る。

 「だからね、撮影が終わって小夜ちゃんにまた会いたいと思ったことに、自分でも驚いているよ。今、こうしていてももっと会いたいと思っている。小夜ちゃんも、そう思ってくれていると嬉しいな。」

 (やっぱり、沢井さんはプレイボーイなんだ。経験豊かな大人の人。そうわかってても、時ちゃん、ダメだよ。ごめんね。もう何があってもいいよ。) 

 「私も、もっともっと、沢井さんと会いたいです。」

 その言葉を合図のように、銀のフードカバーに覆われた皿を、マネージャー自らが運んで来た。皿は小夜香の目の前に置かれ、マネージャーはそのまま横に控える。

 「開けてごらん。」

 優しく沢井が言った。

 小夜香は戸惑いながら、フードカバーへ手を伸ばし持ち上げた。皿に載せられていたのは、赤いリボンで飾り付けられた小さな箱。

 カバーを受け取りマネージャーは去っていった。

 「誕生日のプレゼント遅くなったけど、受け取って欲しい。」

 小夜香は、興奮を抑えながら箱を手に取り包みを開けた。中にはベルベットのケースが収まり、その蓋を持ち上げるとサファイアに縁どられたブレスレット風の豪華な腕時計が輝いていた。それは、彼女の期待をはるかに超えるものだった。すっと興奮状態から覚めた小夜香はかすかに首を振る。そのプレゼントに、沢井が期待する大人としての自分と、今の自分との差を思い知る。

 「沢井さん、ありがとうございます。でもこんなに高価なもの、頂けません・・気持ちだけ頂きます。」

 小夜香は蓋を閉じ、両手で包んだケースを沢井に戻す。涙が溢れそうになる小夜香の手を、沢井は両手で包み込んだ。

 「ごめん、俺の考えが浅かったね。これを見た時に、小夜ちゃんに似合うと喜ぶ顔まで浮かんで、買ってしまっていたよ。」

 沢井の言葉に、小夜香は伏せていた目を上げた。

 「とんでもないです。せっかくの気持ちを台無しにするようで、本当にすみません。でも・・私には、まだ似合いません・・」

 そう口にするだけで、涙が滲んでくる。

 「本当に、そう思っているの?」

 小夜香は、目を逸らし小さく頷く。

 沢井は包んでいた手を外し、小夜香の手からケースを受け取った。小夜香の胸に痛みが走る。すると沢井は再び小夜香の左手を掴む。その手首にひんやりと金属の冷たさが伝わる。俯いていた小夜香が顔を上げると、時計が、左手首にパチンと留められる。

 「小夜ちゃん、どう?ちゃんと見てごらん。思った通り、小夜ちゃんに似合っているよ。」

 手首を飾るブレスレット風の時計は、照明の光に輝きを放つ。小夜香は、その輝きに魅入ってしまう。

 「似合っているよ。小夜ちゃんは、その美しさに負けない素敵な大人の女性だよ。似合わないはずがないよ。もっと自信をもっていいよ・・これは小夜ちゃんの大切な二十歳を祝うプレゼントだから、どうか受け取って欲しい。」

 小夜香は、時計にそっと右手を重ね、 

 「沢井さん、ありがとうございます。大切にします。」

 やっとそれだけを口にした。

 (もう外すなんてできないよ。私の大切な宝物。)

 そんな想いとともに、潤んでいた瞳から涙が頬を伝う。ハンカチを手渡し、沢井は言った。

 「さっき、『あやかしの里』の小夜ちゃんの登場シーンのことを話したよね。あの時、俺は一番間近で小夜ちゃんを見ていたんだよ。舞姫の美しさは、小夜ちゃんの美しさだよ。小夜ちゃんは間違いなく、美しい大人の女性だ。そして俺は、そのあやかしの魅力の最初の犠牲者だよ。」

 「沢井さん、犠牲者なんてひどいです。せめて、虜って言って下さい。」

 涙を拭い小夜香は、泣き笑いで答えた。

 小夜香は、二人の大切な時を心ゆくまで楽しんだ。沢井の優しさと、まぶしく輝き流れる二人だけの時間の中に、その身をゆだね心ゆくままに漂う。


 夢のような時間にも、終わりは訪れる。小夜香は、胸が裂かれるような痛みを感じながら、一人タクシーに乗り込んだ。

 (誰に見られてもいい、また撮られてもいいから送ってほしい。) 

 しばらくはそんな思いに駆られていた小夜香も、離れるにつれてだんだんと現実に意識が戻ってくる。

 (時ちゃんに会いたい。プレゼントのこと一緒に喜んで欲しい。それにパパやママに何て言えばいいか、相談もしたい・・) 

 電話を入れると、

 「あら、今夜は酔ってないの?」

と、すぐに返事が返って来た。

 「もう、嫌味しか言えないの?嫌味を考えてる暇あったら、時ちゃんももっと楽しんだら?」

 「あらあら、強気ね。ところでどうするの?」

 「今から、家に行っていい?」

 「うん、大丈夫だよ。経堂の駅で待ってる。気はのらないけど、のろけ話聞いてあげるよ。」

 (ふふっ。時ちゃん、待ってたくせに。ねえ、プレゼントのこと喜んでくれる?) 

 十和子の反応を想像しながら、母へ連絡を入れて経堂の駅へ向かう。プレゼントの時計は外し、ケースに戻しバックへ仕舞いこんだ。

 小夜香は、初めての十和子の部屋を想像しわくわくしながら、駅前で彼女を拾いアパートへ向かった。  

 五分ほど走り、二階建ての古いアパートの前で二人は下りた。

 「明かり、つけっぱなしで出て来たの?」

 自分のだという、明かりが点いたままの一階右端の部屋を見て、小夜香は尋ねた。

 「そう。だって、居ない時もずっと点けてるよ。」

 「えっ、寝てる時は?」

 「寝てる時も、点けたままだよ。暗いの嫌なの。」

 小夜香はその言葉に、知らない十和子を感じ取る。

 「一緒に寝る時、電気を消してたの、よかったの?」

 「大丈夫だよ。小夜ちゃんの顔を見てたから。」

 悪びれのない答えの中に、小夜香は、何故彼女がいつもベットに頭を載せてるのかを理由を知った。

 (両親を事故で亡くしたって聞いたけど・・) 

 小夜香の胸は痛み、浮かれた話をしずらくなってしまう。

 (でも、相談したい・・けど。)

 小夜香は、中途半端な気持ちのままに部屋に案内された。

 台所の流しの横に狭い玄関があり、左手にバスとトイレはあるが、そこには洗濯機も冷蔵庫もなく、奥の部屋にも小さなテーブルと点けっぱなしのテレビ、CDプレイヤー、あとは隅に畳まれた布団と部屋の周りに下げられた数着の服だけ。きれいに整理はされてはいるが、あまりに殺風景な部屋だった。

 「これだけ?」

 小夜香は、思わず口に出してしまう。

 「そうだよ。一人だからこれで十分でしょう。」

 やかんを火にかけ十和子は、押入れの前の布団を動かし襖を開ける。

 「ほら、服もまだこんなにあるし、小夜ちゃんのCDも全部あるでしょう。」

 押入れの上半分には十着程の服が下がり、その下にあるボックスには、ビデオテープや本そして小夜香のCDが並べられている。その横には、掃除機やキャリーバックもしまい込まれてはいる。

 (淋し過ぎるよ。だめだよ、時ちゃん。)

 小夜香は、そう言いたくなるのをぐっと堪えた。 

 「冷蔵庫もないし、洗濯は?」

 「洗濯は、近くにコインランドリーもあるし、クリーニング屋さんもあるよ。冷蔵庫は、料理を作らないからいらないわ。ねえ、小夜ちゃん。人の粗探しをしに来たんじゃないでしょう?沢井さん素敵だった!きゃーって、話したいこといっぱいあるんでしょう?さあ座って。さっさと話さないと聞いてやらないよ。」

 そこにいつもの十和子を見て、小夜香はホッとする。

 (よかった。いつもの時ちゃんだ。) 

と、同時に反発心がむくむくと湧いてくる。

 「あら、聞きたいのは誰?そんなこと言うんだったら、話してあげないか・・」

 話の途中で、ぎゅーっと鼻が抓まれる。

 「痛ーい。」

 「生意気言って。さあ、あったことすべてさっさと吐くのよ。」

 十和子は、鼻を抓んだままそう詰め寄る。

 「もう、痛い!わかったから座ってよ。」

 指を振り解いた小夜香は、鼻をさすりながら言った。

 「じゃあ、お湯沸いたからコーヒー淹れて来る。」

 十和子が流しに行くと、小夜香は座りバッグからケースを取り出し、テーブルの真中に置いて彼女が戻るのを待った。

 カップを両手に戻って来た十和子は、すぐケースに目を向けた。

 「それは?」

 カップを置くとすぐ、十和子はそう尋ね、続けて自分の予測を口にする。

 「沢井さんのプレゼント?指輪にしては大きいわね、ブローチ?二回目でさっそくプレゼント?沢さん、すごいね。」

 小夜香は、ケースを手に取り蓋を開け、輝く時計を披露した。

 「すごい!何これ、めちゃくちゃ高そう!」

 「時ちゃん、何?金額じゃないよ?綺麗とか、素敵って言ってよ。誕生日のプレゼント。きっと似合うよって頂いたの。」

 小夜香自身、値段に拘ったことは横に置き、しれっと十和子を詰る。十和子は、渡された時計をじっくりと眺めて、

 「本物?沢井さん、乙女の心を金で買うつもり?」

 「もう、時ちゃん!失礼よ!お金じゃないの、気持ちなの!」

 十和子を詰りながらも、小夜香は彼女に顔を寄せそっと囁く。 

 「それにね、沢井さん、これからも会いたいって。撮影の時から気になってたって。もう嬉しくっておかしくなりそう。ねえ、夢じゃないよね?」

 「大丈夫。さっき、鼻抓ままれて痛かったでしょう?」

 「もう、時ちゃん!なんでそんなに意地悪なこと言うの!」

 「ふふっ、くっ、くっ・・わかったわ。しょうがないな。いいわ。これからも応援してあげる。よかったね、素敵なプレゼントももらえて、また会おうって言ってもらえたんだものね。」

 十和子から、期待した言葉が聞けて、

 (そうよ。私はね、その言葉が聞きたかったの!) 

と、感動していると、パチンと音がした。

 「あっ、私にぴったり!」

 十和子が、いつの間にか時計を手首に付けて、満足そうにそれを見つめている。

 「時ちゃん!ダメ!返せー」

 小夜香が、声を上げ飛びかかろうとすると、

 「小夜ちゃん。コーヒーが零れる。真夜中なんだから、声が大きい。近所迷惑だよ。」

と、十和子の指摘に勢いをそがれる。

 (何それ?悪いの時ちゃんじゃない!自分だけ良い子ぶって!) 

 さらに怒りは増すものの、小夜香は素直に小さな声で、

 「返せー。」

と言って、十和子に飛びかかった。小夜香は、笑っている十和子から時計を取り戻し、しっかりと手首に付けた。

 「からかうのはやめて。時計持ってるくせに!」

 「だって安物だもん。交換しよう。」

 「もう!」

 小夜香は、毒気を抜かれて、話を進めることにする。

 「ねえ、時ちゃん。それでね、このことで相談があるの。」

 「時計のこと?」

 「うん。沢井さんからもらったってパパやママに言ったら、返しなさいって言われるわ。パパは絶対返せって言うし、なぜプレゼントをもらうのかって勘ぐると思うの。ねえ、どうしたらいい?」

 「そう?じゃあ。すぐに高価すぎますって、沢井さんに返したら?」

 それは、さっき自分が言った言葉。その時の感情が蘇り一瞬言葉に詰まるが、小夜香は必死に揺れる気持ちを抑えて言った。

 「もう、お願いよ。私は真面目に相談してるの!さっき、応援してくれるって言ったばかりじゃない!」

 「そうなんだけど、まだからかい足りない。」

 十和子は、剽軽に舌を出す。

 「ああもう。返すんだったら、相談なんかしないわよ!私は、沢井さんから、プレゼントされた、この、時計を、このまま、貰って、おきたい、の!だから、相談してるんじゃないの!」

 小夜香は、一言一言を強調し十和子に迫る。

 「ふーん、じゃあ確認するけど。小夜ちゃんは沢井さんのプレゼントの時計をそのまま貰っていたい。お父さんお母さんには、沢井さんからもらったとは言いたくない・・ってそういうこと?」

 「うん。」

 「だったら時計をケースに入れて、引き出しの奥に置いといて、必要な時だけ持ち出せばいいじゃない。」

 冷静な十和子の言葉に、小夜香はそうじゃないと反発する。

 「嫌よ。いつでも付けておきたいの。偶然、会った時に付けてないと沢井さん悲しむでしょう?」

 「ぶっ、まったくなんて我儘なの。信じられない。」

 「でも、そんなところも好きなんでしょう?」

  上目使いに見つめられた十和子は、両手を上げ溜息をついた。

 「はいはい、わかったわ。降参。それじゃ、そうね・・まずお母さんには本当のことを話そう。自分の気持ちをちゃんと伝えれば、お母さんだったらきっとわかってくれるわ。あとお父さんには、本当のことは黙っててもらうの。それから、いつも時計をつけたいのなら私からの主演の映画の封切りのお祝いってことにしよう。イミテイションの安物だからって言っておけばいいわ。そんなところでどう?」

 「ママには話すのね・・そうね。時ちゃんも一緒にお願いしてくれたら大丈夫よね?うん、そうしよう。ありがとう、時ちゃん。」

 「まだ私を利用するの?」

 「あら、私をからかった罰だよ。」

 「ちゃんと謝ったじゃない。」

 「何言ってんのよ。ひとっっことも謝ってないし。」

 十和子は、一瞬考え今のやり取りを無視することにする。

 「まぁ、だいたいさ、小夜ちゃんが、最初っからお母さんには話とけば、こんな苦労も無かったのよ。」

 「だって食事だけだと思ってたもの。話したらきっと反対されてるわ。」

 「そうだね。とにかくお母さんに話してしっかり謝って、味方になってもらおう。」

 結局、小夜香の思うように動かされてると諦めた十和子だが、最後には釘だけは刺しておく。

 「沢井さんが、これからも会いたいって言うのなら、ご両親にはきちんと挨拶をしてもらわないとだめだよ。お母さんには、一度挨拶はしてるけど、早いうちに挨拶して認めてもらうのよ。」

 「でも・・そんなこと私からは言えないよ。沢井さんの本当の気持ちわからないもの。」

 小夜香は、まだ始まったばかりの恋に揺れる想いを吐露する。

 「しっかりしてよ、小夜ちゃん。あなた達は普通の恋人とは違うのよ。いつまた撮られるかわからないでしょう?沢井さんがそれでも会いたいのなら、それなりの覚悟を見せてもらわなくっちゃ。沢井さんだからこそご両親への挨拶は、小夜ちゃんと付き合うための絶対条件だよ。」

 「挨拶してもらえるのなら、それはそれで嬉しいけれど、やっぱり私からはお願いできないよ。」

 これからも会いたいと言われてはいても、沢井の本心がわからない今、無理を言って会えなくなるのが怖い。そんな小夜香の気持ちを、十和子も渋々認める。

 「いいわよ。タクシー代の事もあるし、私から沢井さんにお願いするわ。小夜ちゃん、後でいいから彼の電話番号教えて。」

 (時ちゃん、きっときついことを言うんだ。沢井さんを怒らせるの嫌だよ。嫌われたくないもの。) 

 表情を硬くした小夜香に、十和子は諦めさらに譲歩する。

 「わかった。挨拶の件はよく考えてみて。機会があればちゃんとお願いするのよ。それもできるだけ早くだよ。いい?」

 そう言って、十和子は時刻を確認する。  

 「一時過ぎちゃったね、ここじゃ二人寝れないから小夜ちゃん家に行こう。時計の事は、明日お父さんが出かけた後に、お母さんに話そう。いい?」

 「うん、そうだね。」

 小夜香は、最後に部屋をもう一度確認して玄関へ向かった。

 「あと、肝心のデートのこと全然聞いてないからね。向うでゆっくり聞かせてよ。」

 「もちろんよ。聞いて欲しい事一杯あるの。今夜は寝れないからね。覚悟しといて。」

 小夜香は、そう言った後に笑顔で、

 「ありがとう、時ちゃん。」

と、付け足した。その笑顔と言葉は、十和子に生きるエネルギーとして注ぎ込む。

 「どういたしました。」

 十和子が返す笑顔に、小夜香は気恥ずかしくなるものを感じて戸惑う。明かりを煌々と点けた部屋を後にして、二人は世田谷通りまで出てタクシーを拾い小夜香の家へ向かった。

 その後、尽きない話に二人が気づくともう朝を迎えていた。ハイな状況のまま小夜香は、父が出るとすぐ時計を手にもう片方の手で十和子を引っ張り一階へ下りた。


 「こんなに高価なもの・・彼は何を考えているのかしら。」

 母は、時計を前にして眉をひそめた。

 「返そうとしたけど、誕生日のお祝いだからって戻されたの。」

 「それで?あなたは受け取るつもりなの?」

 「ええ。」

 小夜香が頷くと、母は切り出した。

 「デートのことも黙ってて、何かあたらどうするつもりだったの?また撮られたりしたら、時ちゃんが庇ってくれたことが無駄になるのよ。沢井さんもあなたも、いい加減すぎるんじゃない?」

 「デートのこと黙っていて、ごめんなさい。でもね、沢井さん今回は十分に気を使ってくれたわ。」

 「それで、これからどうするの?会う度にいつも、周りに注意することができるの?そもそも彼は、何故二周りも歳の違うあなたを誘うの?そこは少し冷静に考えてもいいんじゃないの?」

 小夜香が言葉に詰まると、十和子が口を開いた。

 「お母さん、私も、小夜ちゃんのデートの事を聞いていたのに、お母さんに黙っていたことを謝ります。本当にすみません。」

 「時ちゃん、そうね。出来れば教えて欲しかったわね。でも、口止めされてたんでしょう?」

 「それでも、一言話しておけば良かったと反省しています。ただ、沢井さんのことですけど、これまで噂の女性って皆さん、大人の色香のある美人ばかりだったと思うんです。それが小夜ちゃんみたいな珍竹林の女性とデートするなんて、これが初めてのことじゃないでしょうか。」

 (ちんちくりんって?時ちゃん、何、言い出すの?) 

 「それはきっと、私が小夜ちゃんに魅かれたように、沢井さんも、これまでの女性にはない魅力を小夜ちゃんに感じたんだと思います。そうでないと、この前の騒動で、ロリータなんてことも言われた彼が、もっと若いこの珍竹林さんを誘うんですから、普通じゃ考えられないです。」

 「そうね。この珍竹林さんのどこが、どう良いのかしら。」

 (ママまでちんちくりんなんて。でも、本当にどこが良いの?) 

 「あんなことがあっても、すぐにまた誘うなんて、沢井さんきっと、小夜ちゃんのことが大好きなんですよ。」

 「そうかしら?そうね・・そうかもしれないわね。」

 軽く息を吐いた知子は、険しい表情を和らげる。

 「今は、見守るしかないって思います。それに時計を返しなさいって言われたら、この珍竹林さんきっと家出しますよ。」

 「あら、その時は面倒を見てあげてね。」

 母は、微笑を浮かべた。

 「こんな高価なもの、本当だったらお返ししなさいって言うべきなんでしょうけど。今回は、いいわ。受け取っておきなさい。大切になさい。それからあなたたちのことは、しばらく見守るしかないのでしょうね。ただ後悔はしないように、あなたなりの判断をしてお付き合いをなさい。」

 母は、娘が頷くのを確認して話を続ける。

 「それとあなた達は他の人達とは違うのよ。周りの方々やファンの方たちのこと、それだけは頭から外さないで、絶対に皆さんにご迷惑を掛けないようになさい。約束できる?」

 「ええ、約束します。」

 その返事を聞き、母はようやく頷いた。

 「時計。受け取っていいの?」

 「受け取っておきなさい。」

 それを聞き、小夜香はほっと息をついた。

 「ありがとう、ママ。ありがとう、時ちゃん。」

 手を時計に伸ばした横から、さっとそれは奪われ、

 「あっ!」

という間に、十和子の手首に収まっていた。

 「お母さん。この時計しばらくの間、私が預かっておきます。」

 「お願いしようかしら。パパに知られない方が良いわね。」

 「もう、ママも、時ちゃんもからかって、ひどい!」

 小夜香は、笑っている十和子から腕時計を取り戻し、しっかりと手首に付けた。それから、父には十和子からの贈り物ということにして欲しいと、母にお願いすることも忘れなかった。

 沢井からの贈り物の腕時計は、ようやく小夜香の腕に収まった。







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