エピローグ
夏の日。兄さんに車椅子に乗せられて、僕は海まで来た。海の音は、落ち着く、と、思う。
膝の上には日記。以前僕が書いていたものらしい。
「ちょっと飲み物買ってくる」
兄さんがそう言うから、僕は頷いた。
「ここでいいか?日陰行く?」
「ここで」
兄さんが駆けて行くのを見送ってから、僕は海に視線を戻した。寄せては返す波が、一定のようで不規則に繰り返される。その音も、水面の反射も、飽きることは無い。
どれ程の時を過ごしただろうか。不意に隣に人の気配がして僕は顔を上げた。
女性がいた。黒い長い髪の、真っ黒なワンピースを着たひとだった。
「こんにちは」
穏やかな表情だった。誰だろう、と首を傾げつつ、こんにちは、と返す。
「海、好きなんですか?」
「…多分」
好きとか嫌いとか、よく分からないけど。周りの人達の話を聞くに、好きなのだと思う。
「…その日記帳、大切なものなんですか?」
ずっと膝に乗せてる本を指差す。
「たまにお兄さんのこと見掛けるけど、いつも持ってるから」
日記を見て、また、多分、と答えた。持ってる方が落ち着く。ただ、それだけだ。
「…僕、好きなひとがいたんだ」
「好きなひと…?」
わからないけど。この日記にそう書いてあった。
「死んじゃったんだって」
「…そう」
「僕の記憶は、そのひとのところに先に行っちゃったんだ」
「え?」
女性は、首を傾げた。
何も覚えていないのは、きっとそうなんだ。
「僕が、そのひとのこと好きすぎて、僕の記憶だけ先にあげちゃったんだ。寂しくないよって。僕がいるから、ひとりじゃないよって」
「そっかぁ」
あはは、と笑う声は、なんとなく悲しそうだ。
「ありがとう。お話出来て、よかった」
お礼を言われた。なんの事だろう、と首を傾げると、女性は1粒涙を流して笑った。
「さようなら。透」
去っていく女性の背を見送ってから、海を眺める。いきなりの風に目を瞑るが、間に合わず砂が目に入った。
「痛い…」
ぼろりと零れた1粒の涙が、日記に落ちた。
貴女へ
名前が思い出せないんだ。ごめん。
君のことも、君と話したことも何も思い出せなくて。
そんな俺がこんなこと言っちゃいけないんだろうけど。
それでも、好きな人に好きって伝えるって決めたんだ。
「君という人が好きだった」
そんなことしか覚えてないけど、その「好きだった」ことすら忘れるのが嫌で、いつも君との思い出を探してた。
日記を頼りに、君のことを思ってた。
君のことを忘れちゃったのは、きっと君のことが好きだからなんじゃないかなって思うようになった。
都合よすぎ?でも、そう考えたっていいよな。
俺より先に逝った君に、先に俺の記憶だけ渡したんだと思ってる。
そしたら寂しくないだろ?
そしたら、泣かなくて済むだろ?
俺も、君のところへ逝くよ。
一緒に過ごそう。
今まで離れていた分、一緒に笑おう。
君を、愛してる。
透