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白の世界の先へ  作者: 楓
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後編

その日、職場で昼食に行くために席を立った。立ってから、気付く。財布がない。


「あれ、俺の財布…」


カバンの中を探すが見つからない。デスクの上に鞄の中のものを全て出しても入っていない。


「遠坂、どうした?」


宮田に声をかけられて、俺は呟く。


「俺の財布…」

「見つかんないの?」


席が近い人が集まって、俺のデスク上の惨状を見てあちゃあ、と呟く。


「一緒に探すよ」

「さんきゅ…誰かに盗られたのかな」


もしかしたら泥棒が入ったとか。トイレ行ってる隙に盗まれたのかもしれない。いや。泥棒なんかじゃなくて、ここにいる誰か、かもしれない。

誰だ。俺の財布盗んだのは。この間書類間違えたこと恨んで総務の成田さんとか。


「ねぇなぁ…」


ぽん、と尻を叩かれる。


「うわ」

「耽ってないでお前も探せよ。もう一度机の上見といてくんね?俺自販機の方見てくるから」

「わかった」


宮田にそう言われて、俺はもう一度机の上に手を伸ばした。すると、書類の下から見慣れた財布が出てきた。


「あれ」

「ん?あ、あったじゃん。よかったな」


にぱっと笑った宮田に、おぅ、と頷いた。




帰宅してから、今日あった盗難騒ぎを思い返した。思い出して、あれ、と呟いた。


「まさか…」


頭の中が真っ白になる。嘘だろ。俺は一体、何をした。何を考えた。

以前病院から貰ったアルツハイマー病の冊子を広げ、よくある症状を見る。その中に、しっかりと書いてある盗難妄想。


「嘘だ」


悪化してる。ガンガンと、脳みそをトンカチで殴られているようだった。痛い。気持ち悪い。会社の人に、どう思われた?


「……め、な……」


ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。


「うっ…」


急に吐き気が込み上げてきて、トイレに駆け込む。夕飯はまだだったから胃袋には何も入っていない。が、黄色い胃液ばかりが出てきて、喉が焼ける。目じりに浮かんだ涙が肌を伝って落ちた。


何度も嘔吐くものを咳き込むように吐き出して、胃液すら出す気力もなくなったのか込み上げるものはなくなった。何度口を濯いでも消えない口から胃にかけての違和感が、自分の犯した過ちを責め立てるようだった。とても病気のせいだと開き直れない。なんで、俺は生きてる?なんで俺はここにいる?


「……はやく、そっちに行きてぇよ…」


名前も顔もわからないけど。なぁ、俺も連れてってくれ。そっち側に。




真白の空が、煌めいた。

確かに感じる日差しと、海風。潮の匂いが懐かしい。

そんな中で、やっぱりあの女性は立っていた。いつもと同じ白いワンピースで、いつもと同じように黒く長い髪を揺らして。いつもと同じように、泣いている。

手を伸ばしてみるが、彼女に届くことは無い。彼女の視界に俺が映っているのかも怪しい。


「連れてって、  」


彼女が、泣いた。




朝からDVDをひたすら見ていた。繰り返し繰り返される恋の話。1度引き離された恋人たちがまた一緒に歩む、在り来りな恋物語。

いつの間にか眠っていて。いつの間にか目を覚まして。ひたすら映画を見る。


「願いが 叶う瞬間は

恋しくて 愛しくて

君の その手に 触れたくて」


耳に馴染んだ主題歌は、やっぱり恋の歌だ。そりゃそうか。恋の話だもんな。そうだよな。触れたいよな。触れたいよ。こんな病気にかかったこと自体が夢で。君は死んでなくて。目を覚ましたら俺はベッドで寝転んでて。君が隣で眠ってて。頬抓ったら不機嫌に目を覚ますんだ。でも、その手を繋いで、笑い合う。そんな未来が、あったかもしれなかった。

あってほしかった。


ぼろぼろと零れる涙が、情けなくて。でも、まだ、彼女の存在までが消えた訳じゃないんだと安心して、また溢れる。




がちゃり、と聞こえたドアの音。

バタバタと入ってきたのは…兄ちゃんと…顔は知ってるけど、名前が出てこないふたり。職場の人だ。


「透!」

「遠坂!」


どうしたのだろう、と声を出そうとして、出なかった。気管が塞がったかのようにへばりついていて、カピカピなのがわかった。


「お前…!1週間仕事、来なくて!」


白湯を少し含ませられて、口の中が湿る。

1週間。それは、なんにちだろう?俺は仕事に…そういえば、行かなかったかもしれない。時間が経った記憶が無い。俺は何をしていた?


ぼろぼろと、指の隙間から零れるどころか、流れていく。俺の掌に残ってる記憶はあとどれだけある?


喉がこんなに乾ききってるのに、目からはそれでも涙が出てくる。


「……ぃちゃ…」

「透?」


もう、何をしたらいいのかわからないんだ。

何を考えたらいいのかもわからないんだ。


ただ


「こわい。………怖ぇよ…」


触れた兄ちゃんの手が、ビクリと震えた。


「あいつのこと、忘れたくない。忘れたくないんだ…」


ぎゅう、と力の入らない手で、兄ちゃんの手を握る。

夢の中の姿すら、次第に朧気になっていく。真白の世界で、真白の君が、消えていく。手を伸ばしても届かない。声を出しても振り返りもしない。誰にも相手にされない、誰にも気づかれない。そんな中で、ひとり死んでいくような気がした。


「たすけて…」




1週間何も食べていなかった俺は、そのまま検査も込みで入院することになった。仕事は退職手続きが取られたらしい。

腕に繋がった管が鬱陶しい。引き抜こうとしたら、たまたま廊下を通った看護師さんに止められた。


「邪魔、なんだ」

「遠坂さんの命を護るためのものですよ」


俺の、命。


「護って、なんになる?」


もう、何年か後には死ぬことだって決まってるのに。


「生きなきゃ。命のある限り。みんなそう願ってます」


その言葉が、理解できなかった。




翌日、母がDVDプレイヤーを持ってきた。


「見たいんじゃないかと思って」


そう言って流したのは、あの映画だ。何をしてもやる気も起きなかったが、映画が流れている間は、じっと画面を見続けていた。




1週間程で退院して、俺は実家に帰ることになった。また病状が悪化して、家族に負担がかかるようなったら施設に入れて欲しいと頼むと、兄ちゃんはその話はまた今度な、と力なく笑った。

仕事も辞めてしまったので日がな1日家にいる。映画を見るか、日記を見るか。残った記憶に縋り付くように生きた。


「ねぇ、透、散歩に行かない?」


時折母が声を掛けてくれて、2人で生まれ育った街を歩く。父がいる時もあるし、…兄ちゃんの奥さんが一緒の時もある。

まだ覚えている道のりを、母と歩く。こんなことでも、親孝行になるだろうか。先に逝く俺が、記憶を失うばかりの俺が親にしてあげられることなんて、もう限られている。せめて、親の中にいる俺は、俺のままで居られたらいいのに。

ざぁ、と波の音が聞こえて、俺は顔を上げた。


「海…」

「海に行きたいの?」


母に問われて、頷く。母は嬉しそうに笑った。


「透は本当に海が好きねぇ」


小学生…いや、もっと前から、気付くと海に居た、と嬉しそうに笑う。


「そうだっけ?」

「そうよぉ。…透の名前はね、実は新婚旅行に行った時の思い出からとったのよ」


母が懐かしげに目を細める。


「父さんとダイビングしたハワイの海が本当に透き通っていて綺麗でね。誰かに寄り添える、海のように大きな人になってほしいなって思ったの。母さんの大切な、思い出なのよ」


初めて聞いた、と思う。前に学校の宿題で名前の由来を聞いた時は、別の答えが返ってきた、気がする。


「  ちゃんとも、ずっと海にいたものね」


聞こえなかった名前は、誰だったんだろうか。


海に出て、砂浜を歩く。少し足を取られながら、波際まで行くと少し海水で濡れた。

あの人は、今もあの白い世界で泣いているのだろうか。最近は、夢を見ていないのか。見てるけど覚えていないのか、記憶にない。


「母さん」

「なに?」

「好きだよ」


そう言うと、母さんがくしゃりと表情を歪めた。言葉を探しているように目を泳がせたあと、ぼろりと涙が零れた。1粒流れたかと思うと、2粒、3粒と止めどなく流れていく。


「何。いきなり…」


笑おうと口角を上げた表情は失敗している。


「育ててくれて、ありがとう。母さんの子供でよかった」


ぼろぼろと零れた涙を拭う母さんの肩を抱く。こんなに、小さい人だっただろうか。もっと強くて、大きな人だと思っていたのに。いつの間にこんなに小さくなってしまったんだろう。


伝えなくちゃいけないんだ。今、唐突に気付いた。俺の大好きな人達に、この思いを。だって、この思いが永遠でないことを俺は既に知っている。伝えずに後悔することを知っている。否、後悔できるならまだいい。何も思わずに、他人になってしまうひとだって、大勢いる。


夜返ってきた父さんと、夕食を食べに来た兄ちゃんと兄ちゃんの奥さんにも伝えると、皆泣いた。

まだ覚悟も出来ないけれど。その日を迎えるまでに、後悔せずに生きていきたいと、少し、思えた。




白い世界で。

彼女と会う。会うと言っていいのだろうか。ただ、姿を見てるだけだ。見えない表情の中で、見えない涙を零す君を、見ているだけだ。

やっぱり見えない白い海は、今も波音を響かせている。


「好きだよ」


ずっと、ずっと。

例え、完全に君が記憶からいなくなったとしても。




日記の最後のページに、君への思いを綴る。

もう言葉もスムーズに出てこなくて、文字を書くことすら難しいけれど。今ある精一杯の俺の言葉で、君への愛を綴る。

いつか、死んだ時。君にこの日記を渡せたら、俺の思いを信じてくれるだろうか。きっと近々、全て忘れてしまうけれど、君のことを愛していたんだと、信じてくれるだろうか。










ある春の日。桜が咲き乱れていた日。

僕は知らない部屋で、座っていた。テレビには知らない映像が流れていて、膝の上には知らない本…日記が開かれていた。


「…?」


ぱらぱらと捲る。知らない文字が綴られている。


「ただいま、透!今日の夕飯は茶碗蒸しよ!」


知らない女性が、笑って買い物袋を持ち上げた。誰だろうか、と思って見ていると、女性はどうしたのかと首を傾げる。


「透…?」

「あなたは、誰?」


彼女は表情を固くして、どさり、と持っていた荷物を床に落とした。買い物袋から零れたリンゴが、ころころと転がる。女性の瞳からは、ぼろぼろと涙が零れていた。


僕の世界が。白く、彩られた。

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