表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白の世界の先へ  作者: 楓
1/3

前編

朝起きて、カーテンの隙間から差し込む朝日。カシャ、という音を立ててカーテンを開けると全身に朝日を浴びた。今日もいい天気だ。

ベッドサイドに置いてあるメモを頼りに、支度を始める。やった事にチェックを入れながらの支度は、気付くと時間ばかりが過ぎている。

身支度を整えてから、台所に置いてある食パンに齧り付いた。朝は白米を食べたいが、ご飯を炊いたこと自体忘れることが3度続いてからは炊くことを止めた。昼は弁当か定食屋に行こう、と決意した。

去年このアパートへ引っ越してきてから、随分と生活が変わったように思う。否、その前からか。このアパートに居を構えたが、ここでの生活も一体いつまで続けられるのか。皆目検討もつかなかった。

玄関に置いてあるメモを頼りに職場に向かう。今日やるべきことが書いてあるメモだ。職場に自分のことはもう知れ渡っているので、何かあればメモを見るように言って貰える。が、最近ではこのメモを書いたこと自体、存在自体を忘れることがあるようで、同僚たちに手を煩わせることも増えた。

今日は記憶が鮮明だ。まだ、大丈夫。まだ、助けてもらえれば、ひとりで生きられる。

隣にあったはずの温もりは、随分前に忘れてしまったけど。




アルツハイマー病。

それが俺の抱える病気だ。ドラマ等でも度々登場する病気なだけに、認知度は高い。が、詳しい病状は認知症と大差ないと思っている人が多いのが現実だろう。

曰く、認知症はきっかけがあれば思い出せる事柄もあるという。アルツハイマー病は、出来事そのものが記憶から抜け落ちているから、一度失われた記憶が戻ることはないそうだ。そして、発症後の余命は平均で8年だと言われている。アルツハイマー病と診断されてから3年がたった。残り5年の命だ。


見慣れた職場の見慣れたデスク。見慣れた人達。おはよう、とそれぞれに声を掛けられて、俺も返した。


「おはようございます」

「おはよう。今日は調子はどうだ?」


上長の…だめだ、名前だけが抜けている。メモを見ると、写真付きで名前が書いてある。…山本さんに聞かれて、頷く。


「今日は大丈夫です」

「そうか」


気負いすぎるなよ、と肩を叩かれた。肩を強く叩かれるが悪意はない、とメモに書いてあるとおり、山本さんはにこやかに笑っていた。

外回りの多い仕事だったが、社内でのルーティンを集めてやらせてもらうようになった。デスクはそれでも付箋だらけだ。


朝来たらメモ帳の今日の仕事というファイルを開くこと。

上から順にやること。

忘れたら左の足元の赤いファイルに入ってるマニュアルを見ること。


付箋に書いてある通りにパソコンの電源を入れて、書いてある順番通りに仕事をこなした。

稀に。業務を全く思い出せない時がある。指の隙間から零れていく記憶に怖くなるが、今はまだ、覚えていることの方が多い。業務を忘れても、マニュアルを見ればいいと思える。まだだ。まだ、大丈夫。




無事昼休みに定食屋で白米を腹に収めた。連れていってくれたのは同僚の宮田だ。会社への帰り道、コーヒーを片手に話す。


「遠坂、昨日テレビ見た?」


昨日のテレビ、は、なんだろうか。


「どれ?」

「なんでもいいから」


なんでもいいから、と言われると困る。昨日は家にあったDVDを見ていた。映画のタイトルを伝えると放送してたんだ、と呟いた。


「いや、DVD」

「え、お前そんなラブストーリーのDVD持ってんの?」


俺が伝えた映画は、純愛が売りで5年ほど前に流行ったものだ。どうして持ってるのかはわからない。が、恐らく気に入っていたのだろう。今のアパートに引っ越す前からテレビを見れば視界に映る。そんなところに、そのDVDケースはいつも立て掛けてあった。


「なんか、部屋にあった」


買った理由までは覚えていないから真実を伝えると、宮田は一瞬固まった。が、すぐにそっかーと笑う。気を使わせたと思うが、なんでもないフリをしてくれたのだから今はその好意に甘えたい。


「ま、たまに見返すけどたまにはあんなのも楽しいよ」


そう言うと、宮田がまたそっか、と笑った。




仕事を終えて、いつも通り帰宅する。夕飯は手抜きだ。牛丼チェーン店のテイクアウト。テレビをつけた部屋で胃袋に流し込むと、程々に温かさが残るご飯が胃袋に収まる。テレビの向こうで、何が楽しいのか分からないが芸人が笑っていた。

ふぅ、と、息をついてから、夕飯の欄にチェックを入れる。そうしないと、時折食べたことを忘れる。

テレビを見た時に、昼間話題に上がったDVDが視界に入り、俺は目を細めた。


親しい人との記憶ほど、最後までしがみついていたい。そう思っていたが、どうやら俺にはそれすらも許されなかったらしい。俺が1番初めに無くした記憶は、結婚を約束していた彼女のことだった。俺がアルツハイマー病を発症した頃に亡くなっている。

ベッドサイドにある日記に、彼女が亡くなった日の事まで書いてあった。我ながら余裕だな、とも思うが、書かなきゃ気が紛れなかったのかもしれない。生きることすら、難しいほどに…。ただ、覚えていないから。どれほどの思いだったのかは想像すら難しかった。

あのDVDが自分の趣味ではないことくらい、さすがにわかる。恐らく彼女との思い出の映画なのだろう。このシーンをどんな気持ちで見ていたのか。どんな風に彼女と話したのか。そんな事を想像しながら時折見返す。

零れていく記憶に縋り付くように滑稽で、意味の無い行為だ。無くすときは一瞬だととうに知っている。それでも。


「くそ」


忘れたくないんだ。忘れたくなかったんだ。君の事を。

記憶にない彼女と過ごしたであろう部屋に居られなくて、狭いアパートに引っ越した。それでもなお彼女の事ばかり考える。


「頼むから…。これ以上、奪わないでくれ」


せめて、大切な人がいたという事実くらいは、覚えていさせてくれ。死を迎えるその瞬間までは。




白い世界だ。

どこからか波の音が聞こえる。真白の海。陽の光も、水面の反射も何も見えないけれど、そこに海があることだけはわかった。地元は海の近くだった。忘れるはずがない。

暫くぼうっとしていると、砂浜に1人の女性が現れる。真白のワンピースに、焼けていない白い肌。黒く長い髪が風に揺れる。

白の中にぽっかり浮かんだ黒が記憶に残る。


表情も見えないその女性が、ただ、泣いていた。




スマートフォンの目覚ましの音で目が覚めた。時刻はいつも通り。支度して充分間に合う時間。いつも通り朝やることリストにチェックをしながら身支度を整えて、食パンを頬張る。

夢に出た女性の姿が、脳裏にしっかりと焼き付いていた。よく見る夢だった。とは言っても、夢自体覚えていないことが多いのだが。ただ、夢の中でまたか、と思うこともあるからよく見るのだと思う。

会ったことの無い人だ。少なくとも、記憶の限りは。俺の記憶で把握している失われたものはまだ少い。ならば、彼女は、もしかして。


「……まさかな」


願望を詰め込みすぎている。有り得ないだろう、既に記憶がないのだから。と頭を振って俺は残りのパンを口に放り込んだ。




その日、病院に行くために仕事は休みを取っていた。定期的に診察してもらい、急な病状の悪化がないか確認してもらう。

結果としては、まだ大丈夫。それがいつまで続くのかは保証が出来ないと言われたけれど。

遠くない未来に迷惑をかけるのは解っているから、結果は家族に伝えている。病状が少しでも悪化したら実家に住む約束をしていた。

いざ親より先に死ぬとわかると、一人っ子ではなかったことに安心する。兄には両親には直接伝えられない言伝をいくつか頼んでいた。


病院の帰り道、近所の公園に行ってベンチに座る。何をするでもなく、周りを見ていた。あれは滑り台。砂場。ブランコ。紫陽花…、と目に映るものの名前を思い出していく。楽しそうに笑う親子の声が耳をくすぐる。あまり高くない母親の声が、心地よくて思わず目を瞑って耳を傾けていた。


「よ」


ぽん、と肩を叩かれて閉じていた目を開ける。片手にジャケットと鞄、もう片手に缶コーヒーを2つ持った兄ちゃんがどか、と横に座った。渡されたコーヒーを素直に貰うと、兄ちゃんもプルタブに指をかけた。


「病院お疲れ様」

「兄ちゃんも、仕事お疲れ様」


他愛ない話をしてから、病院どうだった、と聞かれる。


「さっきラインした通りだよ。今のとこ急激に悪化する様子は見られないけど、いつ悪化してもおかしくはないって」


脳は確実に変形を続けている。仕事は、と聞かれたので、それも素直に答える。


「新しい仕事は覚えづらくなってる。今までのルーティンだけでやらせてもらってるよ」


ここまでくると、本当に棒読み段階だ。忘れていくスピードも、病気の進行も人それぞれだ。俺のように大切な人の記憶が真っ先に消えるのは珍しいと言われたけど。


「   は、     だろ?」


兄ちゃんが言った言葉が聞き取れなくて、え、と聞き返した。兄ちゃんは眉根を寄せて笑う。最近は、色んな人のこんな表情を見る。どんどん息苦しくなっていくようだ。


「いや。そろそろ暑くなる。体調には気をつけろよ」

「うん、兄ちゃんもね。美希さん泣くよ」


美希さんは兄ちゃんの奥さんだ。兄ちゃんが好きすぎて、周りにその態度を隠す気は全くない。いっそ清々しくて、話していて苦にならない人だ。俺の病気のことを知った時も、数日間泣き続けていたらしい。


「俺が泣かせるのはいいんだよ。他のやつに悪意で泣かされるのは許さねぇけどな」


とんだガキ大将だ。


「さて。そろそろ戻るわ。悪いな、バタバタと」

「いや。ありがとね。皆によろしく」


兄ちゃんは実家の近くに住んでいる。病院の日は時間を作ってくれて、こうして様子を見にきてくれるようになった。


「じゃな」


子供の頃から変わらない、頭を小突く仕草。どうしてだろうか。最近は、こんな動作の一つ一つが堪らなく愛しい。兄ちゃんの去る後ろ姿を見送ってから、帰路に着いた。親子はいつの間にか居なくなっていた。




梅雨が明け。夏が来る。代わり映えのない夏が終わって、秋だ。

薄手の羽織を羽織ること、と何着か表に出してある。気がつくと厚手のものを羽織ろうとする。羽織らずに外出して、寒い思いをして帰ってくることもあった。


思い出せないことも。覚えられないことも増えて、少しずつ、大切なものが消えていく。テレビ台にあるDVDがまだ大切だと思える。それが、救いだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ