第486話
翌朝、薄く切ったポルケッタ、ほうれん草に似たナッチと、熱を加えるとレタスのようになるサラール、モッツァレラチーズをフォカッチャで挟んだパニーニを朝食にし、出発した。
もちろん、冷えた石窯はそのままの形で空間収納に仕舞っているし、いつものようにミミルが小一時間ほどお籠りになったのは言うまでもない。
ひと晩を過ごしたエルムの木を後にした俺とミミルは、南東方向へと歩き出した。先を歩くミミルがすぐに安全地帯を抜けて、魔物の領域へと入っていく。
この領域の下草は60センチほど。俺の太腿の付け根と、膝の丁度中間あたりまで伸びている。その下草が一面に生えた草原に、ポツリポツリと低木が生えている。その広い草原の中、ピョンピョンと跳ねるように移動している魔物が昨夜ミミルの話に出たヴァンリィだろう。
離れているので正確な体高はわからないが、下草の高さから見て2メートルを超えるくらいはあると思う。
見える限りでいうと、立っている姿は映画に出てくる怪獣のようだ。その太い尻尾と発達した太腿からしっかりとした安定感を感じる。その一方で。上半身は貧弱に見えてしまう。
〈丸顔だなあ、おい〉
〈む、言ってなかったか?〉
〈ああ、いま見て驚いたよ〉
カンガルーの顔というと、面長でシュッとしたイメージがある。だが、50メートル近く離れた場所から見るヴァンリィの顔は熊のように丸かった。それに、首がとても短いように見える。
ヒソヒソとミミルと話をしていたのだが、偶然だろうか、2人でその外観について話をしていたヴァンリィと視線が合った。
すると、ヴァンリィは何やらホイッスルを鳴らしたような鳴き声をあげ、こちらに向かって跳ねるように向かってきた。
〈特に蹴りは注意しろ〉
〈了解した〉
ミミルは短くアドバイスをすると、空中へと飛び立った。
ヴァンリィが50メートルを距離を、ものの数歩で迫ってくる。最後のひと跳びで両脚を揃え、プロレスのドロップキックのように巨体が飛んできた。
俺はそれを半捻りを加え、側転して避けた。
いまの1歩は軽く10メートルを超えていたと思う。滞空時間は1秒ほどだ。15メートル飛んでいたとすると、時速54キロ……まあまあ速い。
ヴァンリィが着地して、3回、4回と跳ねて止まった。
やはりバレーボールのネットくらいの高さはあったので、2メートル40センチくらいだろうか。体重は軽く100キロを超えるだろう。時速50キロを超えて、急停止などできるはずもない。
ヴァンリィはまた俺の方へと跳んだ。今度は距離だけを詰めてきたようで、3歩ほどで5メートルほどの位置で止まった。
俺は、腰から2本のナイフを抜き、腰を落として構える。
正直、俺よりも身長が高い相手というのはやりにくい。下から上にナイフを振り上げても、体重をかけることができないので力が入りにくい。かといって、上から下に振り下ろしたところで、ヴァンリィの体格なら首筋や心臓などの急所に攻撃できそうにもない。
一瞬、グッとヴァンリィの体が下がった。明らかに地面を蹴るための予備動作だ。
避けるには至近距離すぎて間に合わないし、強烈なキックを正面から受けるわけにもいかない。
オスのルーヴと戦ったときのように、無意識のうちに時間が引き伸ばされ、俺には視界に入るヴァンリィの動きが急にスローモーションのように見えた。
ヴァンリィの蹴りが俺に届くより先に、俺は狙いすまして右回し蹴りを放つ。安全靴の金属部分がヴァンリィの左足踝のあたりでミシリと音を立てる。
苦痛なのか、驚いたのかはわからないが、ヴァンリィがまたホイッスルのような鳴き声をあげた。
一方、俺はヴァンリィを蹴ったときに生じた反作用の力で身体を右に流し、ヴァンリィの蹴りを完全に躱した。
同時に、引き伸ばされた時間が元に戻る。
「でかい足だな……」
最初にドロップキックをしてきたときにも見ていたが、妙に時間が長く感じたので、横を通りぬける足の大きさに思わず感心した。つま先から踵までの長さが1メートルほどあるように見えた。
顔は熊のような丸顔だが、体の構造は本当にカンガルーに近いようだ。
俺は体勢を立て直し、改めてヴァンリィへと向き直った。
俺の蹴りが効いたのか、ヴァンリィは器用にも尻尾を使いつつ、左脚を引きずるようにして俺の方へとゆっくり向き直る。
「――近いっ!」
思った瞬間、ヴァンリィが右腕を俺の顔に向けて突き出してきた。まるでボクサーのジャブのように腰の入っていない、腕だけのパンチだ。
俺は咄嗟に左腕でガードしたのだが、続けてヴァンリィから左腕のパンチがやってきた。見ため以上にヴァンリィのパンチは重く、続いて右、左、右……ワンツー、ワンツーと猛攻連打が続く。
こうなると俺も両腕を上げてガードするしかなかった。
遠くから見た時はそうでもないと思ったのだが、ガードする両腕の隙間から見えるヴァンリィの上半身は正に鍛え上げられた筋肉の塊のようだった。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






