第440話
俺とミミル、岡田君、本宮君の4人で店の前に出た。
17時を少し過ぎたくらいなので西日が強い時間帯だが、幸いにも前にある店の屋根が遮ってくれている。
京都の街では、店の営業開始前に打ち水をする文化がある。
店の中に土埃が入らないようにするのも目的のひとつだが、店が営業しているということを知らせる役割もある。
「あ、岡田君と本宮君。営業を始めたら毎日17時になったら打ち水をお願いしてもいいかな?」
「はい。いいですよ」
「え、ちょっとまって、翼」
とても深刻な顔をした岡田君が制止に入った。
「京都の街は、いろいろと暗黙のルールがあるんえ。特に門掃きと、打ち水するときは気ぃつけなあかんねん」
「門掃きって?」
そういや、俺の実家も店先で商売をしていた頃は婆さんが店の前を掃除して、打ち水をしていた。
「朝、起きたら家の前を箒で掃き掃除することを門掃きって言うんえ。それで、『門掃き、打ち水は一尺まで』って言葉があるんやけど……」
岡田君がチラリとこちらへ目線を向けた。この先は俺に言えということだろう。ミミルにも聞いておいて欲しい。
「門掃きがいい例だな。隣の家との境目まで掃除したら、お隣の家の前も掃除した方がいいかなと思ったりするだろう?
でも、お隣さんは自分たちで掃除しているわけだ。そこを勝手に掃除すると、『お隣さんは掃除もちゃんとできない人なんだ』と、思われているように勘違いさせることになる。そんなことでお隣さんとの人間関係が拗れることがないよう、境界線を越えて約30センチだけ門掃きや打ち水をする。それが暗黙のルールなんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「余計なお世話せんとって、って感じやね」
「うん、わかった。気を付けるね。ありがとね、恋茉」
「いえいえ。でも、ルール知らんと安請負してしまわへんようにせんと怖い怖いえ」
「すまんすまん、俺もこの街で商売をするのは初めてだから忘れていたよ。ありがとね、岡田君」
「いえ、出過ぎた真似をしてごめんなさい」
なるほど。俺が「門掃きはお隣りさんの一尺まで」を説明できるかどうか試した感じなんだろう。俺は人生の半分近くを南欧と東京で過ごしてきたせいで京都弁がほとんど出ないし、面接や自己紹介のときにも出身地の話をしていないから仕様がない。
「俺はこの街で生まれたから、風習も知っているんだけどね。でも、15年以上は離れていたから機微に疎くなってはいるかな」
「そうなんですね」
「他県民は私だけかあ……」
などと話していると、今度はパンツのベルトループをグイッと引っぱられた。
ミミルがこちらを見上げて、また口を尖らせて不機嫌そうな顔をしている。この街でしか使わない言葉や、昔の尺貫法も混じっていて、ミミルには少しわかりにくい内容だったから、仲間外れにされているとでも思っているのだろうか。
「悪い、ミミルには難しい話だったかもしれないな。また今度、教えるよ」
「むう……」
「お待たせしました。行きましょか」
ミミルはまだ何か言いたそうにしているのだが、小用を済ませに行っていた裏田君が出てきた。
周辺のオフィスに勤める人たちが帰途につく時間帯なので、店頭でチラシ配りを始めるには良い時間だ。また、家に帰ってポストを覗く人も多いので、ポスティングするにも良い。
「東は河原町通、西は烏丸通まで、六角通りより北を俺がやるから、その南側を裏田君で。本宮君と岡田君は店の前で分担して配ってくれればいい。ミミルも2人と一緒にチラシを配ってくれ。いいいかな?」
俺の指示を聞いて、裏田君、岡田君、本宮君の3人は「はい」と返事をした。ミミルはまだ何か拗ねているようで、口を尖らせていた。しようがないので、少し屈んでミミルの目線に合わせ、俺は話した。
「このチラシを配るのはお手伝いだ。ミミルが頑張ったら、何か甘いものを食べてもいいぞ」
「ミミル、がんがる」
小さな拳を握りしめ、ミミルがやる気をアピールした。
ドルチェで簡単に釣れてくれるから楽でいい。
「手渡すときに『金曜日オープンです。よろしくお願いします』と言うんだぞ」
「きんようび、おーぷんです。よろしくおながいします」
ミミルは以前も「お願いします」が上手く言えなかったことがあったと思う。ダンジョンの中で過ごす時間の方が長く、日本語を話す機会が少ないから余計に慣れないのかも知れない。
とはいえ、ダンジョン内での意思疎通は大切だから、無理に日本語を話させてどちらかが怪我をするようなことがあっても困る。
「お願いします、ね」
「おねがいします」
本宮君が俺の代わりに訂正してくれた。
ミミルも「おねがいします」だけであれば間違わずに言えるようだ。ただ、「よろしくおねがいします」と少し長くなると噛んでしまう可能性がある。
いずれにしても、今回のチラシ配りを手伝うことで、上手に言えるようになるのを期待しよう。
「じゃあ、よろしく頼むよ」
岡田君、本宮君にミミルの面倒を見てもらえるように頼み、俺と裏田君はポスティング作業へと向かった。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






