第437話
なぜ、手前ではなく前に向けて酒を注ぐのか。
「なんでだと思う?」
俺は逆に本宮君にたずねてみた。
突然の質問に今度は本宮君が一瞬だけ身体を硬直させるが、すぐに考えるように口元に手を持って行った。
「えっと、お客さんに正しく測って全部入れたことをみせるため?」
「それはどちらかというと、副次的な効果だね。手に持たないでもいいから、メジャーカップを左手に持ってるつもりで手前に注いでごらん?」
俺に言われて、岡田君と本宮君の2人は伏せた手を手前に捻ろうとする。だが、人間の手は内側には捻りにくい。
外側には180度回転できるが、手前には90度しか回らない。
「あ、できひんわ」
「ほんとだ」
肘を曲げ、自分の体の正面に手のひらを伏せた状態。そこから手前に捻ると更に可動域は狭くなる。メジャーカップを45度くらいしか倒せない。結果的に、内側に捻っても酒を注げない。
「面白いよな。先にメジャーカップを指先に挟んで、親指と人さし指でキャップを持って開ける。そのまま、メジャーカップで計量したら、前に向けて手を捻るだけで酒がグラスに注がれる。酒を注いだメジャーカップをグラスの水に浸けたら、キャップを締める。一連の動きが無駄なくできるようになっているんだよね」
格好つけているわけではなく、多くの注文を捌き、洗練され続けた結果の動きというわけだ。
俺も自分で話しながら、改めて感心した。
「目からうろこが落ちました」
「うんうん、うちは学生やし、本格的なバーって入ったことがあらへんから、知らんかったわ」
「うん、ほんまにすごいねえ」
三者三様の反応だが、俺が言いたいことは伝わったようだ。
フロア係がダスターを指に挟んでトレイを持つというのも、同じ理屈なんだが、そこはまだ気づいていないようで、少し残念だ。でも、俺の知識など少しだけ長く生きただけの差でしかないが、それでも感心してもらえると嬉しくなる。
ふと目をテーブルに向けるとミミルがこちらを見ている。勉強ばかりで退屈なのだろうか。なぜか視線が冷たい。
3人に練習に戻るように促し、俺はミミルのもとへとやってきた。
「どうかしたのかい?」
1時間半ほど前に食事を済ませたところだから、眠くなるのはしようがない。無理して勉強せずに、眠ければ寝てもいい。そう思ってたずねた。
「ない」
だが、ミミルから返ってきたのは素っ気のない返事だった。
なんとなく口元が尖っているようにも見える。
「いや、顔を見たらわかる。何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
「ない!」
返事をするミミルの目はどこか吊り上がっているようだし、少し語気が強い。眠いのに話し掛けられて不機嫌なのか、それとも他の理由なのか。何にせよ、俺には原因はわからないが、機嫌を損ねてしまったようだ。
さっきまで俺の方へと目線を向けていたというのに、いまはまた漢字ドリルへと向いている。
見えたページは小学2年生の漢字、4画の文字一覧だ。見開きで12文字が並んでいるが、前のページから続いているか、あとにも続いているか……いずれにせよ、まだ教えていない漢字の種類があった。
「この字、縦の線を取れば何だ?」
「きゅう、ゆみ」
「そう、弓だ。ちょっとペンをいいか?」
「……ん」
俺が着ているサロンのポケットにもペンが挿してあるが、ボールペンだ。これで漢字ドリルの空きスペースに絵を描いたりすると更にミミルの機嫌を損ねそうだ。
相変わらず不機嫌な顔をしているが、ミミルは手に持ったシャープペンシルを俺に差し出した。
受け取ったシャープペンシルで弓の絵を描き、そこから漢字の弓の字に変化する様子を描いてみせる。
「しょーけい、もじ」
「そうだ。では引という字は?」
ミミルは俺の書いた弓という字と、引を見比べながら考えているようだ。
「きゅう、ゆみ。いん、ひく。おと、違うは、かいいもじ」
「正解、えらいな。文字の左側部分を偏と呼び、右側は旁という」
「へん、つくり」
「そう。この引という字の旁になっている『丨』も漢字なんだ。元は進むとか、退くという意味がある。この『丨』のように象形文字でもなく、会意、形声文字でもないもので、何か抽象的なものを表すために作られた文字を指事文字というんだ。1年生のドリルにあった一二三四五七上下天本も指事文字なんだよ」
「むう。ろく、ちがう?」
「六や八は象形文字なんだ。読み方がリクやロクだから、元々は意味が違う文字を借りて使っている――こういう文字を仮借文字と言う」
いつの間にかミミルからは不機嫌な雰囲気は消え、真剣な表情へと変わっていた。だが、俺の説明を聞くにつれて少し頭を抱えるようにして漢字ドリルを見つめるようになった。
偏と旁に加え、象形文字、会意文字、形声文字、指事文字、仮借文字まで出てきては流石のミミルも混乱したのかも知れない。
「少し難しかったかな? 夜になったら、また教えるよ。偏と旁以外にも分け方があるし、文字の分類も残ってる。もっと整理して体系立てて教えることにするよ」
「……ん」
今夜の課題がひとつ増える結果になったが、ミミルのご機嫌は直ったようなので良しとしよう。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






